県内市町村の中国での戦争体験記を読む(88)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する与那国島の波平さんは、二度徴兵され、一度目は中国大陸で従軍し、二度目はフィリピンに派兵されマラリアにかかって熊本の陸軍病院に入院するに至った経過を証言している。戦争の時代の実態描写が詳しい。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
16 『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
波平正雄「二度も戦場に引っ張られる」
「かけはし」5月29日号からのつづき
第一陸軍病院は東京本部の病院に劣らぬくらい大きな病院でしたが、一線から送られてくる負傷兵やら病人がふえて、手術部にいた私たちの仕事も目まぐるしいくらいとても忙しい毎日でした。
そして昭和十八〔1943〕年になると、私は満4年の現役満期となって帰還することになりました。その時、私は遺骨護送員の任務について上海から日本に帰った訳です。名古屋の第3司令部で私は除隊となって、5月に石垣島に渡りました。そのとき私が軍曹の服装のままだったので、八重山の憲兵隊に呼ばれて、取り調べられ、お前は召集解除になったんだから、軍刀は私物だからよいとして、軍服、靴、拳銃、実弾などは名古屋に送り返せ、ということだった。私はそのつもりでいたんですが、翌年にはまた召集令状を受けたんです。……
昭和十九年の夏の夕暮れ、私が馬に乗って十山橋から帰って来ると、親戚の人たちが私を待ち受けていて、召集令状が来ていると言ったんです。私は翌朝8時の船で出発しなければならなかった。あっちこっちの患者たちの処方箋も整理しなければならない。翼賛壮年会の人たちが送別会をすると言い出して、とうとうその夜はほとんど眠らないで、朝を迎えました。
私はこんどは生きて帰れないかも知れないと思い、遺書を書いて、その中に結婚のことにも触れておきました。私の弟は養子に行っていたので、戸籍上私は一人だった。で、青年団の頃に同じ西三組で役員をしていた女性を妻に迎えたいと考え、彼女は家族と一緒にすでに台湾に移住していましたが、もし彼女がその気になったら、私の籍に入れておいて欲しいと私は書いて、村長に預けたのです。そうして私は、報国袋と軍刀を持って、石垣経由で那覇の連隊区司令部に行き、昭和十九〔1944〕年九月には、46師団野戦部隊の衛生兵として、福岡の八幡から台湾の方へ向かったんです。台湾のどこかの港に寄ったんですが、そこがどこかも教えられずに、すぐに出航して、着いた所はフィリピンのどこかの島の小さい港でした。
そこがどこだか判らないために、後年私は恩給手続きのとき非常に困ったことになりました。ところで、上陸した時、軍医6人、衛生兵11人でしたが、私たちはわずかな医薬品しか持っていませんでした。船団を組んで食糧やら医薬品を積んだ船は撃沈されてしまったらしく、私たちはなんのためにやってきたのか判らなくなっていました。それにその上陸地点一帯には、負傷兵とマラリア患者ばかりで、いいようのない恐ろしいところでした。死人は毎日何十人も出るし、空襲は激しいし、どうしようもない状態でした。とうとう私もマラリヤにやられましたが、高熱を出して苦しみながら、他の患者の面倒を見てやらなければならず、生きた心地もしませんでした。機銃掃射から何度も逃げ回ったりして、何週間か何か月か過ごしました。そのうち奇跡的にも、日本の輸送船が闇夜にまぎれてそこの海岸に辿り着いたんです。その頃の私はもはや重症患者になっていて、食事をとる気力もなくなっていました。
重症患者を乗せた船はジグザグに航海して、大陸沿いに遠回りして、八日間かかって鹿児島港に着きました。私はやっと歩ける状態でした。鹿児島の街中にも駅にも、一般の人たちの姿が見当たらないことが印象的でした。私たちは汽車に乗せられて、熊本陸軍病院に送られ、そこで二日間入院しました。それから何十人かの患者は、阿蘇の近くの温泉町の杖立に送られ、そこの陸軍病院に長期入院することになったのです。入院患者は将校と下士官だけでした。やせ衰えていた私も次第に回復して行ったのですが、敗戦の知らせもその病院で聞いたのでした。……
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(89)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する那覇市の当真さんは、ソ連軍により満州で武装解除され捕虜となってシベリアで収容所生活を送った。シベリアにおける強制労働と捕虜生活の過酷な実態について詳しく書いている。当真さんは1948(昭和23)年の帰国後、沖縄タイムスに復職し、1979(昭和54)年、抑留体験をまとめた『生と死の谷間―シベリア捕虜の記録』(出版・大永)を出版した。引用は原文通り、省略は……で示した。
16『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
当真荘平「シベリア捕虜収容所」
昭和20年8月18日東満の横道河子で武装解除された満州7000部隊(独立輜重隊64大隊)1500人は、6日後の24日午前9時ごろソ連の監視兵と共に山野を踏破し、野営を重ね、延々1000キロ近くを行軍の後、9月11日ソ満国境の綏芬河〔シュイフェンハー〕に待機していたメイド・イン・アメリカのソ連戦時輸送用トラックに分乗、ソ連領ルイチキの大草原に抑留された。
ドイツ降伏後、満を持していたソ連極東軍は、米軍が長崎に原子爆弾を投下した8月9日早朝、空軍と相呼応して重戦車隊、歩兵部隊、野砲隊が満ソ、鮮ソ、樺太各国境から攻撃を開始、わずか一週間で在満の関東軍を制圧した。日本人約70万人と言われ、軍人、開拓団員、満鉄職員、商社、銀行、会社等の家族、そのほか地方人などであった。
土を掘り乾草を敷きつめた天幕宿舎に収容された。翌日から乾草刈りとコルホーズ(集団農場)の作業が割り当てられた。文化果つる大草原には農家の白壁の建物が点在し、帝政ロシア時代の教会の十字架の塔も見えた。山というほどの山はなく、はるか遠方の小高い丘は、熱と冷気のため水面に浮いた小島のように見える。反対側の空高く市街地の映像が映っていた。蜃気楼を初めて見ることができた。20mおきに並び、長さ2mの柄のついた鎌を右脇腹に抱え、巾2mぐらいの半円の雑草を薙ぎ払うように刈る。刈り終えた雑草は直径3m、高さ5mに積み上げ、乾草(雑草を冬中放置しておく)の山を作ることになっていた。……
10月末になると氷点下20度くらいの寒気で天幕や周囲の土にスネッグ(雪)が真白く積もり、日毎に肌をさす寒さがつのってきた。その中に両脚の膝から下がだるく歩行困難を訴える戦友が続出していた。
次第に小便が近くなり、夜中には寝ている戦友の間をまたいで、暗闇の中を手さぐりで入口に出ていった。寒さで指も凍っており、ボタンをはずすことができず、便所にたどりつく前にもらしてしまい、ズボンの股下は四六時中ぬれ通しという戦友も多かった。その様な症状が出ると、手足にむくみができ、肌に艶がなく、歩くのがやっとで、お尻の皮を引っ張っても元に戻らない、栄養失調になっていることが判然としていた。
米、小豆、トマト、キュウリやキャベツなどの野菜を一緒に煮込んだ雑炊が朝晩の食事で、昼食は350グラムの黒パン1個に時たま塩づけの小魚1尾が配給されていた。戦友たちはスターリン給食と言っていた。……
(つづく)
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