7.4「伊達判決64年集会」
伊達判決を生かす会主催
7月1日、東京都北区王子の「北とぴあ」で「伊達判決64年集会」が開催された。主催は「伊達判決を生かす会」。
1956年、東京都砂川町(現立川市)にあった米軍基地の拡張は絶対に認められないとして、当時の宮崎伝左衛門町長を先頭に、農民・住民、そして支援の全学連の学生たちが反対する闘いに立ち上がった。「伊達判決」とはこの闘いで逮捕・起訴された基地拡張反対同盟の7人に対して、1959年3月に東京地裁の伊達昭夫裁判長が出した無罪判決を指す。無罪判決の理由は「日米安保条約に基づく駐留米軍の存在は憲法前文と第9条の戦力保持禁止に違反し、違憲である」とするものだった。この判決は、安保条約の改定を目前に控えた、自民党政権にとって深刻な打撃だった。
衝撃を受けた岸政権・検察側はただちに最高裁判所に「跳躍上告」。同年12月、最高裁は「駐留軍は憲法にいう日本の戦力には該当しない。また安保条約のような高度の政治性を帯びる問題は司法審査権になじまない」として、いわゆる「統治行為論」に基づき原判決
を破棄したのである。
沖縄の基地強化の現実に学んだ砂川農民の闘いは、その後の住民闘争に大きな役割を果たすことになった。1955年に沖縄を訪問した当時の宮崎伝左衛門砂川町長は、40戸の砂川農民に米軍基地は絶対認められない、と訴えたという。この闘いには、60年安保反対の闘いで中心的役割を演じた全学連の戦闘的な活動家にとっても重要な影響を及ぼすことになった。
米田隆介さんの司会で行われた集会では、元立川市議の島田清作さんが開会のあいさつ、同会事務局長の西尾綾子さんの活動報告、砂川事件国家賠償請求の報告が弁護団から行われた。島田さんは、自らも参加した砂川町(当時・現立川市)の宮崎伝左衛門町長を先頭にした町ぐるみの闘いを紹介。1957年には23人の町民・活動家が逮捕されたこの反米軍基地闘争が、1960年安保闘争に向けて、全学連・都学連、さらには日本鋼管や都労連、国労などで新しい活動家を育てていく重要な契機となったことを訴えた。
1959年3月には「基地に入ったことは罪にはならない」という有名な伊達判決も出され、米軍基地は憲法違反という機運が高まっていったのである。
しかし1960年以後、「米ソ冷戦」や、米国によるベトナム侵略戦争、そして自衛隊戦力の強化の中で、「伊達判決」の画期的意義は進行する現実の中で忘れられがちになり、日米安保が違憲であるという主張は「非現実的」として後景化していった。
いま改めて1959年「伊達判決」の画期的意義を、今日においてどのように継承していくという課題を「反改憲」の運動の中でしっかりと考えていく必要があるだろう。 (K)
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