共平海プロジェクトのヨット「ヨナのクジラ」号

済州島・沖縄・台湾をむすぶ「東シナ海」を共存と平和の海に

沖縄報告 7月30日

沖縄 沖本祐司 

7月18日、辺野古に到着し交流

 済州島・沖縄の島々・台湾をむすぶ「東シナ海」を、軍隊と戦争のない共平海(共存と平和の海、공평해・コンピョンヘ)とすることをめざして、6月1日に済州島を出港した帆船「ヨナのクジラ」号が約一か月半の航海を経て、7月18日、辺野古に到着した。大浦湾の海上で辺野古海上チームの出迎えを受け、再会を喜び合った。
 船長の宋康鎬(ソン・ガンホ)さんをはじめ真っ黒に日焼けしたメンバーたちは、‘クッション’に宿泊しながら、辺野古ゲート前座り込みや大浦湾での海上行動に合流、また歓迎パーティや交流会に参加するなど、辺野古新基地反対!を掲げる沖縄の闘いとの連帯と友情を強くアピールした。琉球新報・沖縄タイムスの地元二紙もそれぞれ二度にわたり写真入りでかなり大きく報道した。
 ヘリ基地反対協・海上チームと共に行った大浦湾での7月22日の海上行動では、高さ十数mのマストに帆を張り、「NO!海軍基地」「軍事基地のない平和の島」とハングルで書いた黄色のノボリを左右の船尾に掲げたヨットの姿がひときわ目立った。実に壮観だ。共平海の詳しい情報に関しては、「공평해 Peacean」(https://linktr.ee/peacean)をご覧いただきたい。
 済州島からの出航にあたって出された宣言文(全文は別紙)から、以下、一部抜粋してみよう。

〈共平海出航式宣言文(抜粋)〉

 私たちは、韓国と日本と中国の辺境にあるこの三つの島々が、自分たちの本国によって占領され抑圧と収奪と搾取を受けただけでなく、自分たちが犯した戦争の敗戦による戦争賠償のために他国に売られ裏切られた歴史を共通して経験したことを知っています。そして今もこの島々は東アジアの軍事的緊張の中で新しい軍事基地が建設されています。……
 私たちは、韓中日が取り巻くこの海を、もはや東シナ海(東中国海)という帝国主義的な名前で呼ぶことを拒否します。私たちはこの海が、すべての生物が人間と共に共生すべき平和の海という意味で共平海と呼びます。……
 私たちは共平海を航海し、軍事主義で病んで奇形化した現在の国家をこえた新しい平和の国への夢を広めようとしています。私たちは、この共平海が戦争も軍事訓練も軍艦や軍用機の移動だけでなく武器を搭載したいかなる輸送船も航行できない非武装の平和の海であるべきであり、それは可能だと信じています。……

ソン・ガンホ船長の10年来の構想が実現

 2014年に済州島の江汀村(カンジョンマウル)で第1回「東シナ海」平和の海キャンプが開かれ、済州島をはじめ韓国、台湾、沖縄から数十名の参加者が集まった。今回の共平海プロジェクトの帆船の船長を務めるソン・ガンホさんは、その時、「ヨットで島々をめぐりながら非武装平和の海をアピールする」構想を実行に移したい旨を情熱的に語っていた。中古ヨットを購入・整備し、乗船希望者を募り合宿して、平和学習と共に、済州島を一周しながらヨットの操船技術を学ぶ訓練を何度も行なったという。そして、航海する航路や経由地の調査を続けて、今年ようやく、10年来のプランが実現したのである。
 ヨットの船名は「ヨナのクジラ」。聖書に詳しい方はご存じのことだろう。ヨナを飲み込んだ大きな魚=クジラが神の意思を実現する道具であったように、島々の人々の暮らしに平和と安寧をもたらす役割を果たしたいとの意図が込められているようだ。
他方、平和の海キャンプはその後毎年、辺野古―台湾―石垣島―済州島―金門島と場所を移しながら開催されてきた。私も欠かさず参加し、その都度、『沖縄報告』に詳しい記事をあげてきたので、目を通された方もいるだろう。2020年からの3年間は、コロナ感染の広がりによる行動規制のために実施されていないが、今年の11月には、4年ぶりに宮古島で開催が予定されている。
 ヨットは大浦湾での海上行動のあと、数時間をかけて南下し、与那原町東(あがり)浜の与那原マリーナに停泊した。台風5号が発達して北上してくる中、しばし待機の時間が生じたので、佐敷教会や民宿で何度か交流の場を持つことができた。航海中に撮影された映像には、ヨットと共に泳ぐイルカの群れやウミガメの姿が動画に収められていた。メンバーの話では、宮城島の浅瀬でジュゴンらしき大型海洋生物の鳴き声と姿を確認したと言う。夜の海の静けさと夜光虫の神秘さにとても感動したとも語った。
 今回沖縄に来た韓国のヨットチームのメンバーたちは、これから毎年、共平海を訴えて済州・沖縄・台湾をめぐる航海を実施する計画を持っており、沖縄からも参加者を募っている。今年の秋から、ヨットの操船技術の実習、島々の歴史・文化、国家の軍事主義に対する平和学の学習などの三か月間のプログラムを、済州島で継続的に行なっていくとのことだ。そして、数隻のヨットを連ねて航海していくことになればいいと将来のプランを語った。
 最終的にヨットは台風5号と6号の合間をぬって、7月29日午前4時半に沖縄島を離れ、宮古島へ向かった。その後、石垣島、与那国島を経て台湾に到着すると、ぐるりと一周して再び北上し、済州島に帰りつくのは9月中旬の予定だという。
太陽の強い日差しと風や波に抗しながらの航海がどうか安全に終わることを願う。

島々の人々の主権を取り戻そう!


 小さい島々が大国の犠牲になるような歴史を繰り返してはならない。島々は中央政府の道具ではない。島々に暮らす人々自身が主権者として、自分たちの島々の未来を決める権利を有している筈だ。中央政府が周辺の島々の人々の運命をもてあそぶ政治や社会の在り方に終止符を打たなければならない。「東シナ海」は日本政府、中国政府、ましてやアメリカ政府の所有物ではない。軍国主義の争いの場にしてはならない。
 非武装平和の島々を訴える共平海ヨット活動の輪の広がりは、大国の軍事主義に対抗する人々の平和主義を強いインパクトを持って主張し未来への一歩を切り開く運動となるに違いない。

2023.7.23 佐敷教会。横断幕には、「私たちは海で共に平和を創造する。ヘリ基地反対協海上チーム」

2023.7.28 与那原町東浜の民宿あがい浜の前で。

2023.7.26 民宿あがい浜。「ヨナのクジラ」のTシャツを前に記念写真。

2023.7.28 与那原マリーナ。「ヨナのクジラ」号の若者たち。

2023.7.18 辺野古ゲート前。ゲート前テントに向かってあいさつするセーリング・チーム。

沖縄報告の発行遅れのお詫び
アスベストによる胸膜中皮腫の治療とコロナ感染


 
 隔週刊をうたっていながら、今回の沖縄報告が5週間ぶりの発行となってしまったことは大変申し訳ない。6月中旬から始まった放射線治療の副作用に、コロナ感染による高熱・セキ・食欲不振・気力減退とその後遺症が重なり、長らく体調不良に陥った。新聞を読んだりパソコンに向かったりする元気もなく、ほとんどゴロゴロしているような生活が続いたが、先日25回の放射線治療が終わり、有難いことに、少しずつ体調が回復してパソコンにも向かえるようになってきた。この機会にアスベスト(石綿)による胸膜中皮腫の治療中という事実を報告しておこうと思う。
 異変を感じたのは2020年12月の辺野古での海上行動の時だった。この日、私は海上チームの一員として、平和丸に乗って「一坪たりとも渡すまい」を日本語と韓国語で歌った。ところが、息が続かない。こんなことはこれまで一度もなかった。何かおかしい、と思いながらも、加齢による肺機能の低下かも知れないと思い、肺活量を増やそうと発声練習をしたり散歩したりしたが、効果はなく、症状は悪くなっていく一方だった。極め付きは、県立図書館の1階から3階まで通しの階段を上った時、本当にこのまま死ぬのではないかと思うくらい息ができずゼーゼーと苦しくて、しばらくトイレで休まなければならなかったことだ。それでもまだ、何かの病気ではないかという考えに至らない。固定観念というのは恐ろしい。
それからしばらくして、2021年3月中旬に初めて南部徳洲会病院で診察を受けた。レントゲン、エコー、CT、血液検査、尿検査を受けて即、入院を宣告された。右肺に水が大量に貯まっているとのことだった。胸水を抜くために、肋骨の間から穴をあけてドレーンを差し込み胸水を抜く手術を行ったところ、2・7ℓもの液体が排出された。胸水排出のあと、器具を差し込んで、腫瘍のある胸膜の7か所から生検を実施した。一週間後、「悪性胸膜中皮腫」との診断をうけた。
 アスベストによる中皮腫(胸膜、腹膜、心膜など)は厄介な病気だ。中皮腫はアスベスト曝露により数十年後に発症する「時限爆弾」と言われる稀少ガンである。一体どこで曝露したのか?あれこれ考えながらも、胸膜中皮腫の治療に入っていった。はじめは、4月から9月まで、アリムタ+カルボプラチンによる薬物療法6回(初回は南部徳洲会病院、2回目からは沖縄病院に転院)、続いて10月から、オプジーボの投与による免疫療法を約一年半、合計32回行ったところ、胸膜に広がっていた大部分の腫瘍で劇的な縮小が確認されたが、一部分での増大が認められたため、今年の6月から放射線治療を毎日2グレイの25回、計50グレイのⅩ線投射を行なって現在に至っている。医師の話によると、放射線治療の副作用は通常、2~3週間から一か月程度で自然になくなっていくという。現在のところ、体調の回復は50%という感覚だ。
 『石の綿―終わらないアスベスト禍』(神戸大学出版会)などにあるように、これまで、いつどこでアスベストに曝露したか、さらには病の原因さえ分からないまま苦しみながら亡くなる人たちも多くいた。「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」とつながり、アスベストの危険性を知りながら政府も企業も長らくアスベストを使い続けてきたことや患者と家族の会の精力的な活動についても知ることができた。
沖縄は、民間だけでなく米軍基地内の軍労務で大量のアスベストが使用されていたことが明らかにされている。おそらく軍労働者をはじめ多くの人々がアスベスト疾患で苦しんできたことだろう。今後大きな問題になっていくことは明らかである。沖縄でも、アスベスト疾患に取り組む患者・家族・医師のつながりができて、治療と生活保障の取り組みが進んで行けばよいと思う。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(90)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する西原町の呉屋さんは、1938年、二度目の召集で中国に派兵され、上海近くに上陸して激戦の中、毒ガスの使用や戦死者の続出、負傷と帰国、小倉の陸軍病院に入院するに至る経過などを証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『西原町史』第3巻資料編2「西原の戦時記録」(1987年)

呉屋幸夫
「中支での戦闘」

 昭和八年、私は寄留届を出して大阪で徴兵検査を受け、合格した。沖縄の連隊司令部から召集令状が届いたということで沖縄の家族から召集令状が送られてきたので、……
 昭和九(1934)年一月二十日、鹿児島歩兵45連隊2中隊に入隊した。駐屯地は鹿児島市伊敷町であった。そこで二か年間兵役に従事した後、昭和十年十一月三十日に満期になり、もとの職場に復帰した。ところが、支那事変が勃発(昭和十二年七月七日)して再召集され、昭和十三(1938)年五月、熊本113連隊(田中連隊長)に入隊し、すぐ支那に行った。……
 熊本から夜行列車で門司まで行き、そこから中支の呉淞〔ウースン、上海の外港〕に敵前上陸した。敵地は最初から前線になっており、敵は待ちかまえていてどんどん銃撃してきた。我々は、船を横づけして一人ずつ銃撃の合間をぬって降りて行った。
 昭和十三年八月ごろ金華山〔ジンファシャン、浙江省中部の山〕に進撃した。中国軍は、山の上から見下ろし、日本軍の位置を正確に測っていた。そして、我々が進撃して行くと、敵は三方から一斉射撃をしてきた。我々は、下の田んぼの畔に伏せ、銃撃がやんだ時また進撃するという状態だった。敵は30~40メートル程手前にいて姿がみえた。日本軍は、しまいには毒ガスをまいた。それは窒息死させるガスだった。
サイレンが鳴ったら毒ガスをまいたという合図だった。我われは防毒マスクを被った。ところが風は、日本軍の方に向かって吹いていたので防毒マスクの手入れが悪かったものは、ガスを吸い込み死ぬものもいた。私が見ただけでも七、八人いた。結局、自分で自分の首をしめる結果になった。
 しばらくして、「毒ガスなし」の合図があったので防毒マスクを取ってにおいを嗅いだが大丈夫だった。連隊長も中隊長もやられて指揮する者がいなかった。それで、分隊長だった私が指揮をとり、号令をかけ、着剣して正に突っ込まんとする時に私の手がなくなり、私が持っていた銃の先が田んぼの中に突っこんでしまった。すぐににぎりかえようとしたが、自分の手がなかった。敵の機銃でやられていたのである。おかしいなと思ったがどうみても手がなかった。銃をはさんで後ろに手を回すと何かひっかかるものがあったので肩の方から引っ張って見ると、手が皮だけ残ってぶらぶら下がっていた。
 それで片手ではどうにもならないので、まず自分の持っていた包帯を口を使って巻いた。そこは田んぼで畔もあったので、敵に見つからないように泥の中に埋まって寝ていた。 ……
 日本兵は、その時の夜襲で支那軍にほとんどやられた。田んぼの方にいた者や前進して行った者もみんなやられた。後で聞いた話だが、私と一緒に川の方で寝ていた負傷兵らもほとんどやられたということだった。結局、私は川の方に一番あとから来て一番先に担架で運ばれたので助かった。
 ……
 それから、ずっと後方に下がり上海に行くまでに兵站病院をいくつもかえて野戦病院に移った。兵站病院は、ただ包帯をまいてあげるくらいのことしかできない小さなものだった。兵站病院では負傷した人たちが各地からたくさん集まってきていた。そこは屋根もなくわらを敷いて寝かされた。傷口からはウジもわき、手当ても十分できないので切断するのが多かった。切断された手や足の切れ端が一日だけで相当量にのぼったので、それを毎日トラックで海まで捨てに行った。軍医というのは手当てをするより切断するのが専門のようだった。私もやがて切られそうになった。
 上海では野戦病院しかなかったので、内地の小倉の陸軍病院にきてからようやくまともな治療を受けた。私は、弾が体内に残っていたのでそれをピンセットで取り出し、それから骨が五つに折れていたのでそれをつなぎ合わせ、神経もつないでくれた。ギブスをまいていた期間は約九十日ぐらいだった。私の手は短かったので16貫(100斤)=60キログラムの重りをつけて手をひき伸ばした。重りは目盛りのついたネジ式のものであった。
 また、陸軍療養所の中で温泉療養もやったのでその期間も合わせると陸軍病院には七か月程いたことになる.
 小倉の陸軍病院から熊本の藤崎台病院に移り、昭和十五(1940)年十一月退院した。熊本の病院で、熊本106師団113連隊2中隊、197人の中から生き残りが何人いるか数えてみたら16人しかいなかった。それも全員負傷していた。……

週刊かけはし

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