多民族多文化共生社会をつくりあげよう
自国の歴史の誤りに向きあい
沖縄報告 9月3日
沖縄 沖本裕司
関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年
8・27犠牲者追悼の映画と意見交換会に70人
8月27日、那覇市おもろまちのなは市民協働プラザで、「関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼の映画と意見交換会」(主催=南京・沖縄をむすぶ会)が開かれた。70人近くの参加者は、映像を見たあと活発な意見を交わした。会場の片隅に設けられた資料コーナーには、吉村昭『関東大震災』(文春文庫)、加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)、西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(現代書館)、新井勝絋『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』(新日本出版社)、田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)、『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、裴昭『写真報告 関東大震災朝鮮人虐殺』(影書房)、佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』(筑摩選書)などが置かれ、参加者が手に取り熱心にページをめくる姿が見られた。
司会は新垣貴子さん。はじめに、稲垣絹代さん(南京・沖縄をむすぶ会共同代表)が主催者あいさつを行なった後、映像を上映した。
①『夫たちが連れていかれた。神戸・華僑たちと日中戦』(1993年、45分)
②『関東大震災80年 歴史は繰り返してはならない』(2003年、25分)
実際の体験をもとに強く訴える証言には真実味と迫力があった。「アイゴー、私がこの目で見たんです」と述べるハルモニ、「ここで三人が殺された。人間はこんなにも恐ろしいかと思ったよ、日本人が……」と語るハラボジ。否定しようのない朝鮮人虐殺の事実の数々が画面に示されていく。
二本の映画上映のあと、参加者全員が立ち上がり、関東大震災で殺された朝鮮人・中国人犠牲者に対する一分間の黙とうを捧げた。
秋田・三重・沖縄出身者が殺された検見川事件
休憩をはさんで、③NHK「おはよう日本」での映画『福田村事件』を取り扱った場面が紹介された後、意見交換に移った。意見交換のはじめに、主催者から、関東大震災のさなか、9月5日に千葉県で、秋田・三重・沖縄出身の青年3人が「朝鮮人に違いない」という思い込みで地元の自警団に惨殺された検見川(けみがわ)事件(幕張事件とも)が紹介された。この事件は長らく闇に埋もれていたが、伊江島出身の島袋和幸さんの地道な調査・発信の努力で、最近少しずつ知られるようになってきた。
島袋さんがこのほど自費出版した『関東大震災千葉県〈検見川事件〉秋田・三重・沖縄三県人誤殺事件』には、当時の新聞・書籍等の豊富な資料が掲載されている。その中から、『法律新聞』大正12(1923)年11月3日付に記された経緯は次の通りである。
「鮮人来襲の流言頻々たる五日午後1時ごろ…停留所付近において…三名を不逞鮮人の疑いありと巡査駐在所に同行、付近に居住する人々は数百人、鳶口・竹槍・日本刀等の武器を携え、右三人を鮮人と誤信し同駐在所を襲い、窓硝子壁等を破壊し騒擾を極めた際、…遂に闖入して三名を針金にて縛し殺した……」
三人が東京警視庁発行の身分証明書を持参していたところから、駐在所の警察官は説得したとされるが、自警団の民衆は「証明書はニセ物で、警官も信用できない」として、面相が判明するのを恐れてか顔をぐちゃぐちゃにして惨殺し花見川橋上から遺体を投げ捨てたという。この時殺された三人の氏名は判明している。
秋田県人 藤井金蔵(22才)
三重県人 真弓二郎(21才)
沖縄県人 儀間次助(22才)
儀間さんは、現在判明している限り、関東大震災の民間人虐殺での沖縄県人ただ一人の犠牲者である。しかし、ご遺族がどなたであるか、沖縄戦で戸籍簿などすべてが灰塵と化したため、いまだはっきりしない。
意見交換では、「歴史の事実を根気強く伝えていくことが大事」「花岡事件や3・1独立運動に目を向ける必要がある」「日本の朝鮮植民地支配が沖縄戦の朝鮮人の虐待・戦死につながっている」「甘粕事件の犯人はその後、満州に渡り、日本のアジア侵略をすすめた。日本の加害についてしっかりした認識を持つべき」「福沢諭吉のアジア認識の犯罪性から日本はいまだ脱却できていない」「日本という国の在り方が問われている。このままでいいのか」「台湾でも20万人が日本軍に動員され3万人が亡くなったという歴史の清算はできているのか」など、関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺にとどまらない明治以降の日本そのものに関する意見が活発に出された。最後に、具志堅正巳さん(南京・沖縄をむすぶ会共同代表)が閉会あいさつを行った。
「記録が見当たらない」とウソを言う日本政府
岸田政権は、都合の悪い歴史はなかったことにするつもりだ。関東大震災の朝鮮人虐殺をめぐって、松野官房長官は8月30日の記者会見で、「政府で調査した限り、政府内において事実関係を把握することができる記録が見当たらない」と述べた。谷公一国家公安委員長も、今年5月の参院内閣委員会で、「記録は見当たらない。更なる調査は考えていない」と答えていた。かつて政府の中央防災会議が2009年に、公文書を引用して軍隊や警察が加担したことを認め「虐殺という表現が妥当」との報告書を作成していたことも反故にするものだ。
こういう政府の姿勢が日本の国を真摯さの欠如したウソまみれの社会に転落させていく。例えば、ジャニーズ事務所の性暴行事件の調査にあたって、第三者委員会は被害者など500人にも及ぶ人々と面談し証言を集め、それらが事実を解明する記録となった。関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に関しては、被害当事者・目撃者の証言及び各種新聞・さまざまな公文書類が「事実関係を把握することができる記録」としてある。これらの事実を直視すればよいのだ。
「軍隊一個中隊が来て、朝鮮人を堤防に並べ、後ろから一斉射撃で射殺した。死体埋葬作業を手伝った。河川敷に100体ぐらいあった」(当時20才、とび職の坂井松吉さん)、「火に追われて海の方に逃げた。石炭コークスが燃え盛っているところに針金で縛られた裸の男の人を投げ込んでいるのを見た」(当時10才、高瀬義雄さん)などといった証言こそ「事実関係を把握することができる記録」ではないのか。
9月2日、荒川土手に兄と共に避難したところ自警団に捕まり、目の前で同郷の3人が消防隊に殺された曺仁承(チョ・インスン)さんは、自身も消防隊の鳶口で左足を引っ掛けられ死ぬまで後遺症に苦しんだ。彼は「日本人も日本政府もやったことはやったとはっきり言わなくちゃだめだ。それを隠そう隠そうとするからいけないんだ」と述べている。その通りだと思う。自国の歴史の誤りから目を背けていては、いつまでたってもその誤りを正すことができない。
父親の代から関東大震災と東京大空襲を体験してきたある在日朝鮮人2世は「孫やひ孫がこの国で幸せに暮らしていけるように願う」と述べている。私たちは自らの責任で日本社会を多民族多文化共生社会へとつくり変えなければならない。

2023.8.27 なは市民協働プラザ。関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼映画と意見交換会
最高裁判決糾弾! 知事の設計変更不承認支持!
8・28緊急県民集会に結集した300人の怒り
8月24日、最高裁は、辺野古新基地建設をめぐり国交相が沖縄県に対し行なった設計変更不承認処分を取り消す「裁決」と承認するよう求める「是正の指示」に対して沖縄県が提訴していた2件の国の不当な関与取り消し訴訟に関し、「裁決」に関する部分については沖縄県の上告を受理せず、「是正の指示」に関する部分については福岡高裁那覇支部の判決を見直すための弁論を開かず9月4日に判決を言い渡すことを決定した。その結果、国交相の「是正の指示」が適法で県の不承認処分に裁量権の乱用があるとした高裁判決が確定することになる。なんという裁判所の体たらく! 日本政府による沖縄支配は裁判所も組み込んで「合法」を装って進められていく。
オール沖縄会議は8月28日昼休み、県庁前広場で、最高裁に抗議し知事の不承認処分を支持する緊急集会を開いた。急きょ開かれた集会に、参加者はそれぞれ「三権分立ってなんだっけ?」「裁判官は正義の味方?政府の味方?」「知事は再び不承認を!」などの手作りのプラカードを手に、約300人が結集した。
司会は事務局長の福元勇司さん。はじめにあいさつに立った稲嶺進さん(オール沖縄会議共同代表)は、「日本の三権分立は地に落ちた。県民を基地に縛り付ける不当判決は断じて許さない」と強く糾弾した。続いて、県議会与党各会派や衆参両議員が発言し、口々に最高裁を批判し知事の不承認処分を支持すると共に、決して辺野古に新基地を造らせないという決意を語った。県側代理人の加藤裕弁護士は、「辺野古埋立は順調に行っても十数年かかる。様々な問題が発生する。どんな判決が出ようと、自然を守る・平和を守るという県民の意思はかわらない。辺野古埋立は許されない」と強調した。最後に高里鈴代さん(オール沖縄会議共同代表)のリードで、シュプレヒコールとガンバロー三唱を行った。

2023.8.28 県庁前広場。最高裁判決を糾弾し知事の設計変更不承認を支持する緊急県民集会
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(91)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する西原町の長嶺さんは、1942年、満州に派兵された軍隊生活やシベリアでの抑留生活などを淡々と述べている。そして1949年、沖縄に帰還して家族全員が沖縄戦で亡くなっていたことを知った。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『西原町史』第3巻資料編2「西原の戦時記録」(1987年)
長嶺由仁
「シベリアでの抑留生活」
私は昭和十六(1941)年の五、六月ごろ徴兵検査を受け、翌十七(1942)年の一月十日、熊本県の水前寺の近くにあった西部21ミギタ隊に入隊した。入隊は新川崔吉さんも一緒でした。熊本では三か月ほど厳しい訓練を受けた。やり方が悪い場合には、雪の上で一時間も腕立て伏せをさせられた。そのため、手にしもやけをする者が多数いた。
訓練を終えると満州に行くことになった。下関から大連に行き、大連から5日間汽車に乗って、五月三日、北満に着いた。五月だというのに、北満ではまだ雪が残っていた。
北満に行ったのは、野砲737吉野部隊で、十二個中隊で編成されていた。本部と指揮班を入れると十四個中隊でした。私は第4中隊に配属になった。……
その後、中隊長の当番兵になった。中隊長は中原中尉で、根性の悪い人でした。自分の金は出さないで飲食する人でした。そのため、師団副官から貰った私の小遣銭十四円も中原中尉の飲食代として消えてしまった。それで、私は人事係に申し出、中原中尉の当番兵を辞めた。中原中尉は怒ってしまった。
中隊長の当番兵を辞めた後、私はピーヤ(住人のほとんどが朝鮮人)に行った。そこでは一か月ほどトラックの運転練習をさせられた。運転練習は、いきなり道路でやったが、軍曹が助手席に座り、私がギヤーをギーギー鳴らそうものなら、指揮棒で頭を殴ったりした。
この訓練が終わるころ、配置替えがあった。私は、中隊長の当番兵の時、中隊長に憎まれていたので、私もすぐ転属になった。各部隊から何十人かずつ集めてひとつの部隊を編成し、国境線に派遣した。国境線では壕掘りが任務でしたが、ツルハシが折れるぐらい堅い氷が張っていた。それで、壕を掘る場所に薪を積んで燃やし、氷を少し溶かしてから掘るようにした。しかし、3尺(約90センチメートル)ほど穴を掘るとまた氷が張るという具合でした。壕掘り作業はあまり捗らなかった。そのころ、米軍が沖縄の慶良間列島に上陸しているとの情報が入った。それで、壕掘り作業を止め、町に戻った。……
ところが、我々の陣地が爆撃を受けるようになったので、そこも引き揚げざるをえなくなった。……
我々は、三日先に出発した先発隊に六日目に追い着いた。我々が追い着いたので、我々が通ってきた鉄橋などは工兵隊が爆破しながら退却した。退却の途中、敵機からの機銃掃射を受けると、将校たちは逃げてしまった。将校が逃げて二、三日後に武装解除になった。日本軍が武装解除になると満州人が暴れ出し、日本人は一人、二人では歩けなくなった。
その後、シベリアに連行され、強制労働を強いられた。労働というのは、山で木を伐採することであった。それもノルマがあり、そのノルマは100%達成しなければならなかった。しかし、私は兵隊に召集される以前から重労働には慣れていたので、木の伐採と言ってもそれほど苦にはならなかった。仕事に慣れてくると、私は池田さん(本土出身)の二人で一個分隊(13人)分のノルマを午前中で伐採したりした。その後から信用されるようになり、私は山中における木の伐採の監督になり、池田さんは兵隊たちの当番になった。そこには約一か年いた。
山中での木の伐採が終わったので、今度は町に出ることになった。……
町ではレンガ造りをした。あちらではレンガ造りが盛んで、大きなレンガ工場があった。ベルトコンベアなどを使った大掛かりなもので、沖縄のレンガ工場とは比べ物にならないぐらい大きなものでした。レンガ造りの次に、貨車に積まれた石炭を下ろす作業をした。……
あれこれやっているうちに二か年余が過ぎ、昭和二十三(1948)年十二月、いよいよ日本に引き揚げることになった。沖縄に帰ったのは翌二十四年でした。沖縄に帰ってみると、残りの家族は全員、戦争で亡くなっていた。
週刊かけはし
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