県の上告を棄却した9・4最高裁不当判決

判決に拘束力はない 辺野古反対の意思は揺るがない

沖縄報告 9月17日

沖縄 沖本裕司

 辺野古新基地建設のための埋め立てをめぐり、沖縄防衛局の埋立設計変更申請を不承認処分とした沖縄県に対し、国交相が不承認処分取り消しの「裁決」と承認するよう求めた「是正の指示」を行なったことにより、県と日本政府との間で争われていた二つの裁判で、最高裁は実質審議を行なうことなく政府を支持する判決を下した。県の不承認処分を国交相が取り消した「裁決」については8月24日、県の上告を不受理、県に埋立変更申請を承認するよう求めた「是正の指示」については、9月4日、県の上告を棄却した。「三権分立」は建前で、現実は政府によるあからさまな司法支配が明白になった。

最高裁判決に対する激しい抗議の渦


 地元両紙は9月5日付の社説でそれぞれ、「自治踏みにじる判決だ」との見出しで「辺野古埋め立てを巡る重要な論点がまったくと言っていいほど取り上げられていない」「反対する地元の民意を切り捨て、地方自治の視点を著しく欠いた判決だ」「司法は国の主張の追認機関のようになってしまった」(沖縄タイムス)、「沖縄の不条理を直視せよ」との見出しで「沖縄の基地集中を考慮しない形式的判断に終わった」「これでは、国と対立した場合、自治体は国に従うしかないということになる」「判決は地方分権改革に逆行する」(琉球新報)と述べた。
 最高裁の不当判決に抗議する行動が巻き起こっている。辺野古バスのメンバーと平和市民連絡会は8月末から、県庁前交差点でスタンディングを行い、「知事は承認せず頑張って~」と訴えた。埋め立て資材搬入のキャンプ・シュワブゲート前、埋立工事が進行する辺野古・大浦湾の海上、土砂搬出の現場となっている本部塩川港・琉球セメント安和桟橋、さらに、県内各地で街頭でのアピールが行なわれている。オール沖縄会議は判決翌日の5日夕方、県庁前広場で緊急抗議集会を開いた。集会には、各地の島ぐるみのノボリや「沖縄は不当判決に屈しない」「地方自治・民主主義・三権分立どこいった?」などのプラカードを持った参加者700人が結集した。8月28日の緊急集会の300人を倍する参加者の熱気が県庁前を埋め尽くした。発言者はそれぞれ、民意を無視する最高裁の不当判決を糾弾し、埋立変更不承認を貫く玉城デニー知事を支持する声を強くあげた。

2023.9.5 県庁前ひろば。最高裁の不当判決を糾弾し玉城デニー知事を支える県民集会に700人。

徳田博人教授を講師に八重瀬学習会


 また、最高裁判決の不当性を法律論の面から検討し学ぶ取り組みが広がっている。行政法専門の徳田博人琉大教授を講師に、「辺野古裁判と沖縄の誇りある自治―最高裁判決にどう対応するか?」と題した学習会が、各地で開催されている。9月11日那覇市、13日沖縄市に続き、16日には八重瀬町で開かれ、南城市や豊見城市からの参加者も合わせ三十余人が集まった。主催は島ぐるみ八重瀬の会。徳田さんは黒板に図を描いて説明しながら要旨次のように語った。紙野健二・本多滝夫・徳田博人編『辺野古裁判と沖縄の誇りある自治』(自治体研究社、2023年)参照。

 徳田教授の講演要旨

 日本国憲法第76条に司法権が規定されている。それは争いを最終的に解決するところの裁判である。公正な裁判が成立する条件は、裁判所が双方の当事者に利害関係を持たない公正な第三者であることだ。例えば、AがBに10万円貸したところ、Bは借りていない、契約書もないと返済を拒んだ場合、双方の主張、証拠などを第三者の立場で調査し結論を出すのがC(裁判所)の役目である。事実とルールに基づいて判断するのが裁判なのだ。しかし、沖縄県と国との対立において、裁判所は中身を何も判断しないことにした。
 これまで県と国とは、①仲井真知事の埋立承認に対する翁長知事の取り消し、②亡くなった翁長知事の意思を受け継いだ謝花副知事の埋立承認撤回、③玉城デニー知事の埋立変更申請不承認処分を巡って争ってきた。県知事の行政処分により埋立工事ができなくなる国は、行政不服審査制度を使って沖縄防衛局(防衛相)から国交相への審査申し入れ、国交相の県に対する「裁決」「是正の指示」を行なった。不公正な審査だ。県が国地方係争処理委員会へ審査を申し入れたのに対し係争委は却下した。また不公正な審査だ。翁長知事の埋立承認取り消しの時、「県と国との真摯な協議」を求めた係争委はもはや存在しない。
 その結果、県による提訴という形で、埋立承認撤回や変更申請不承認は裁判で争われてきた。2022年12月8日に出された最高裁判決は、県と国との対立の内身を何も判断せず、国を勝たせた。今回の最高裁判決も同じ。県が提起している軟弱地盤や耐震設計などの諸問題や地方分権問題を何ら検討していない。フェアではない。
 日本国憲法に新たに設けられた章は、第2章の戦争放棄と第8章の地方自治だ。最高裁判決は民主的な立憲主義をつぶしてしまった。その始まりは、1959年砂川事件で、安保・米軍基地など高度な政治性を持つ問題に関して裁判所が判断することは不能とした「統治行為論」にある。それが現在、基地に関することならすべて、住民の人権や地方自治もスルーされ判断不能とする事態になっている。辺野古裁判で法が自滅した。すると裸の権力が暴れまわる。
 最高裁判決が出たと言っても、辺野古に反対する民意は変わらない。知事選、国政選挙、県民投票で示された県民の意思に従うことが民主制の基盤である。埋立変更申請を承認する「機は熟していない」。国による代執行手続きまではいくつかの段階を経なければならない。闘いは続く。
 
 質疑・意見交換の中で、会場から「三権分立が崩壊している。止めるためにどうすべきか」「知事は新たに変更申請の不承認処分を!」などの意見が出された。徳田さんは「抑圧されているものは学ぶ。危機の時代において主人と奴隷の関係は逆転する。学びながら運動する。そしてさらに強くなる」と述べて、講演をまとめた。最後に事務局から、当面の行動が提起され、2時間に及ぶ学習会の幕を閉じた。

2023.9.16 八重瀬町中央公民館。「辺野古裁判と沖縄の誇りある自治』学習会に三十余人。

玉城デニー知事が国連人権理事会に出席


 最高裁判決を受けて、自民党県連は「わが国は法治国家であり、玉城知事は判決に従いすみやかに承認すべし」とのコメントを出した。「法治」を壊している当事者が「法治」を言うパラドックス。欺瞞の法治国家。知事は決してこういう圧力に負けて埋立変更申請を承認するようなことをしてはならない。沖縄県民の声に全く聴く耳を持たない日本政府・裁判所に対し根気強い闘いを持続する一方、国連人権理事会の場で世界に向けて沖縄の声を届けるために、玉城デニー知事は9月17日午後、那覇空港からジュネーブへ向けて出発した。軍事基地が沖縄を占領している現状、県民意思に反した辺野古新基地建設、PFASなど様々な基地被害を訴えると共に、専門家との対話や一般講演会を開く予定だ。沖縄県知事が国連人権理事会に出席するのは、2015年の翁長雄志知事以来8年ぶりである。県民は玉城知事の活躍を支持する。

沖縄の自治・自立をめざし市町村議員の会が発足


 また、9月16日、県内各地の市町村議員が結集して、「辺野古新基地建設に反対し、沖縄の自治の底力を発揮する自治体議員有志の会」を立ち上げた。発起人は、いずれも無所属で一年生議員の、読谷村議の與那覇沙姫さん、北谷町議の仲宗根由美さん、名護市議の多嘉山侑三さんの三人。28市町村の107人が参加している。今後さらに賛同の輪を広げる活動を進めるという。基地のない沖縄、東京に支配されない沖縄へ向かってさらに強く大きく前進することを願う。

検見川事件の現場で100年目の慰霊祭


 1923年9月5日、関東大震災の朝鮮人虐殺の嵐が吹き荒れる中で、千葉県で秋田・三重・沖縄出身の三人の青年が地元の自警団のすさまじい暴力により殺された検見川(けみがわ)事件については前回の沖縄報告で書いた。100年目の今年9月5日、伊江島出身で東京都葛飾区在住の島袋和幸さんが中心となって、事件現場で三人の受難者を慰霊する行事が開かれた。わたしは、京成電鉄検見川駅から徒歩で5分ほどの現場に、朝9時半ごろ訪れ、正午からの慰霊祭を準備している島袋さんにお会いしお話をうかがった。
 当時の花見川は埋め立てられサイクリングロードになっている。惨殺された三人の青年が投げ込まれた橋のあったところは道路になり、橋のたもとの巡査派出所跡は更地になった。大きな木の根元にブルーシートを広げ、持ち寄った花束・お菓子・泡盛などのお供えを置いて、慰霊祭で読経が行なわれた。新聞社7~8社の取材もあったという。「これまで一人で行ってきた慰霊祭が今年は30人ほどで開くことができた」と、島袋さんは喜んだ。とくに、沖縄の人々に検見川事件を知ってもらい、殺された県出身の青年・儀間次助さん(当時22才)に関心を持ってほしいと述べた。

2023.9.5 検見川事件の現場で殉難者慰霊祭。長年、事件の研究と慰霊を続けてきた島袋和幸さん。

2023.9.5 検見川事件の現場で殉難者慰霊祭。事件の研究と慰霊を続けてきた島袋和幸さんによって準備された。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(92)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する西原町の城間さんは、1936年に徴兵検査で甲種合格し翌年ノモンハンに派兵された。1940年に沖縄に帰還したが、那覇港での下船にあたって憲兵から箝口令により口止めされたことを証言している。その後、防衛隊に召集された沖縄戦についても語っている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『西原町史』第3巻資料編2「西原の戦時記録」(1987年)

 城間精徳
  「私の十五年戦争」

 私は人生で最も大事な時期である働き盛りを戦争によって翻弄された。昭和十一(1936)年、徴兵検査を受け甲種合格した。翌年の一月十日、久留米第48連隊3中隊に入隊した。その後、私たち三年兵だけは北海道部隊に転属になった。北海道部隊の留守部隊はチチハルに駐屯していた。旭川第26連隊である。……
 ノモンハン事件(満蒙国境で日ソ両軍衝突)は五月から勃発していた。私たちが現地に着いたころは小康状態で、日ソ両軍が対峙していた。ハルハ河という川をはさんで何十万の日ソ両軍が対峙していた。日本の地図ではハルハ河が国境になっているが、ロシアの地図ではハルハ河を越えて満州領内に国境線が引かれていた。……
 最初、ロシア兵がハルハ河を越えて満州領内に進攻してきたので、わが日本軍は応戦してハルハ河まで追い返した。そこで、ハルハ河を境に両軍が対峙することになった。川向う側にソ連軍が陣地を構え、こちら側には日本軍と満州軍が陣取っていた。
 八月に、ソ連軍は再び領土を取り戻そうとして進撃してきた。私たちは、この戦争に参戦した。私は七月から参戦したので、六月の応戦(ソ連軍をハルハ河向うに追い返す戦い)には参加していない。その時、日本軍は甚大な損害をこうむったので、その兵員の補充として我々が呼ばれたのである。
 八月にはソ連軍が進攻してきて、日本軍は再び壊滅的打撃を受けた。ソ連軍の戦車は蟻が群がっているようであった。その戦車部隊の総攻撃を受け、友軍(日本軍)は全滅させられた。……
 その時、外務大臣がモスクワに飛び、停戦協定を結んだ。昭和十四(1939)年九月十六日午前七時、停戦協定が下された。ノモンハン戦は止んだ。……
 停戦成立後、日ソ両軍の捕虜交換が行われた。また、両軍の戦死者の収容が行われた。元の陣地に行って置き去りにした負傷兵や戦死者を収容してきた。この収容作業は、ソ連軍の立ち合いのもとで行われた。停戦協定はソ連軍が進攻した線を国境とする案であった。
 停戦後、ノモンハンで一か月ほど警備につき、その後チチハルへ行った。昭和十五(1940)年三月末頃、チチハルから北海道に移った。北海道の小樽港に着き、そこから汽車で旭川に行った。……その時、旭川連隊で満期になり除隊となった。昭和十五年四月のことである。その足ですぐに、故郷沖縄に帰って来た。
 私が乗っていた船が那覇港に着くと、誰も下船させないで憲兵が船に上がって来た。下船するため、みんな甲板に出ていた。各部隊から満期兵らも多数この船に乗っていたので、憲兵から満期兵だけは一か所に集合するよう命令された。
 二、三十人の除隊兵が集合した。そこで、憲兵が「その中にノモンハン帰りがおるか」と言った。私と別の人の二人が手を挙げた。憲兵が「よし、あんたたち二人はここに残り、他は解散してよい」と言った。私は何かなと思ったら、憲兵から、ノモンハン戦のことを口止めされた。家に帰って、銃後の国民にノモンハン戦のことを絶対に話してはならない。その戦闘状況は極秘になっているから、家族にも口外してはならないということであった。
 私は満期になって帰った後、再び農業に従事した。私の家族は出征する前、両親と私の三人であった。父親は城間加那、母親は城間カナである。昭和十二年、私が兵隊にとられて半年後、四月に父親が亡くなり、それから一年後の十三年七月には母親も亡くなった。私が家に帰るまで家には誰もいなかった。妻とは私が満期になって帰る前に、手紙などで連絡しあって婚約していた。妻は那覇港まで迎えに来てくれた。帰郷後、結婚した。 ……
 昭和二十(1945)年三月上旬頃、防衛隊に召集され、与那原に駐屯していた球部隊に配属された。現在の与那原テック跡付近に、友軍の海上特攻隊があり、そこに配属された。
 その山から海岸までトロッコ用のレールを敷き、トロッコに特攻艇を乗せ与那原海岸まで運んだ。そこから敵の艦船を攻撃する予定であった。しかし、一隻も出撃しないうちに破壊されてしまった。……
 私は三月に防衛隊に召集されてから家族とは全然連絡がとれなかった。妻は、旧五月五日に真玉橋付近で砲弾の直撃を受けて即死したことを後で親戚の人から聞いた。終戦後、妻の遺骨を取りに行った。

週刊かけはし

購読料
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009  新時代社