玉城知事支え、大浦湾は埋め立てさせない
国家による民意圧殺は許さない
沖縄報告 11月6日
沖縄 沖本裕司
11月5日 国による代執行を許さない!
デニー知事と共に地方自治を
守る県民大集会に1800人
会場となった北谷町運動公園のAgreドーム北谷には、ノボリやプラカードを手に全県各地からバスや乗用車の相乗りで続々と参加者が詰めかけた。子ども連れや赤ちゃんを抱いた若い夫婦も目に付いた。オール沖縄会議が大規模な県民集会を開催するのはほんとうに久しぶり。各島ぐるみと共に、全港湾、全水道、国交労、沖教組、自治労などのノボリも林立する。司会は仲宗根悟県議(おきなわ南風)。はじめに、主催者を代表して稲嶺進さんがあいさつに立ち「代執行は禁断の刃。みんなで知事を支えていこう」と檄を飛ばした。
加藤裕弁護士は「代執行訴訟で国は、県が公有水面埋立法に違反していると主張しているが、最高裁判決は県に国交省の裁決に従わないのは違法と言っただけ。国は横暴」と非難した。沖縄戦体験者としてマイクを取った横田チヨ子さんは、父と兄を亡くしたサイパンの体験を語り、「戦争は絶対ダメ。アメリカの言いなりになる日本は独立国か」と述べた。若者代表の神谷美由希さんは、知事選挙を想起しながら「玉城知事が当選して良かったとつくづく思う。知事を支え、知事と共に辺野古新基地を止めよう」と訴えた。自治体職員代表として発言した大城悟さん(自治労県本委員長)は「代執行は到底許せない。知事を支持する。自衛隊の配備、軍事費の拡大に反対、沖縄を戦場にさせてはならない。労組も奮闘する」と決意を表した。
国会議員は、衆院の屋良朝博さん、参院の伊波洋一さんの二人があいさつした。屋良さんは「ヌチカジリ(命限り)玉城知事を支えて頑張っていく。以前この辺りはハンビー飛行場だったが、このように発展した。基地がなければ沖縄はもっと発展する。幸せになる権利は沖縄にだけ許されないのか。沖縄が再び戦場になるというのは悪夢だ。辺野古の新基地は沖縄が豊かになる夢、幸せになる夢を壊してしまう。知事と一つになって闘い抜こう」と訴えた。伊波さんは「ハイサイ」と呼びかけ、「軟弱地盤を防衛省は隠してきた。軟弱地盤の工事はできないし、してはならない」と強調した。県議会与党会派を代表して仲村未央さん(立憲おきなわ)は、「知事を支えるわたしたちの出番だ。県議団あげて全力を尽くす」と述べた。
玉城デニー知事は演壇の前に立ち熱弁をふるい、参加者との一体感が大きく盛り上がった。「私が矢面に立つ。どんなに矢のような言葉が飛んできても受け止める。求めているのは対話だ。政府に対しても対話を求めたい。ウチナーンチュはここぞという時には一つになる。ワッター、マケティナイビランドー」とアピールすると、ひときわ大きい拍手と歓声に包まれた。
集会アピールは那覇市議の瀬名波奎さん(にぬふぁぶし)が読み上げた。閉会あいさつとガンバロー三唱は高里鈴代さん(共同代表)が行ない、参加者全員が「知事の不承認支持」のボードを高く掲げた。
2023.11.5 国による代執行を許さない!デニー知事と共に地方自治を守る県民大集会に1800人。
10・30城岳公園に300人
代執行訴訟で玉城知事が弁論「民意が公益」
大浦湾の埋立予定海域の大半を占める軟弱地盤の大規模地盤改良工事を行なわない限り埋立は進まない。最深90mに及ぶ軟弱地盤の「改良」はかつて国内のみならず国外でも施工実績はない。無理な工事は大浦湾の自然体系に回復不能なほどの大打撃を与えることは明らかだ。県民は埋立反対・美ら海守れ!という意思を変わりなく示し続けている。沖縄県は、防衛省の埋立変更申請を不承認処分とした。当然だ。しかし、国交相による「是正の指示」と「承認せよ」との裁決、県の訴えを顧みない最高裁の上告棄却と、国の諸機関は防衛省と連携して、沖縄の自治の押しつぶしに躍起になってきた。
岸田内閣が県に代わって埋立変更を承認するための代執行訴訟を福岡高裁那覇支部に提訴し、10月30日、その口頭弁論が開かれた。開廷前の城岳公園には約300人が集まり知事を激励した。玉城知事は意見陳述で次のように述べた。裁判長は、即日結審とした。判決日は未定。
玉城知事の意見陳述一部要旨
「沖縄防衛局は、多種多様なサンゴやジュゴンなど絶滅危惧種262種を含む5300種以上の海域生物が生息し、世界自然遺産登録地である知床や小笠原諸島等と比べて何ら遜色のない辺野古・大浦湾を、県民の意思に反して埋め立て、弾薬搭載エリアや係船機能付き護岸、二本の滑走路の新設など普天間に比べて拡大強化された新たな軍事基地を建設しようとしている。県の自主性および自立性を侵害する国の代執行は到底容認することはできない。私は特に次の三つを申し上げたい。
第一に、問題解決に向けて国と県との対話の必要性を強く求める。
第二に、国が「辺野古唯一」に固執することは県内移設ありきで、非合理だ。
第三に、沖縄県民の民意こそが「公益」として認められなければならない。
本土復帰から半世紀、SACO合意から27年になるが、全国面積の0・6%に過ぎない沖縄県に全国の米軍専用施設の70・3%が集中、一人あたりの基地面積は実に200倍にあたる。異常なまでの基地負担の上にさらなる基地負担を受け入れることは到底できない。裁判所におかれては、代執行という国家権力で踏みにじることをどうか容認されないよう、対話によって解決の道を探ることが最善の方法であること、県民の民意に即した判断を示していただきたい」。
その三日後、11月2日付の地元二紙は、沖縄防衛局がすでに2007年の段階で「軟弱地盤が広く厚く分布する。追加調査が必要」と結論付けていたことを明らかにした。政府防衛局はそのことを隠したまま埋立承認申請を行ない、仲井真知事から埋立承認を得たのである。どこまでも卑怯で無責任な政府!
辺野古埋立の無理に無理を重ねてきた行政に終止符を!
岸田政権は代執行訴訟を取り下げ、辺野古・大浦湾埋立を中止し、新基地建設を断念せよ!
2023.10.30 城岳公園に300人。代執行訴訟の弁論で玉城デニー知事が意見陳述。「民意こそ公益」
戦没者の尊厳を守る! 辺野古新基地は造らせない!
10・21 戦没者の遺骨を辺野古の 埋立に使うな!県民集会
沖縄戦で犠牲になった県民、日本軍兵士、強制動員された朝鮮人の遺骨はほとんど帰ってきていない。戦没者の遺骨が混じりその血と肉のしみ込んだ土砂を辺野古の埋立に使うことは絶対に許されない。こうした危機意識を背景に、オール沖縄会議が主催した摩文仁の県民集会に、戦跡公園内の土砂採掘作業が行われている糸満市・八重瀬町をはじめ南部地域はもとより、辺野古新基地建設の名護市・本部町など北部地域、弾薬庫建設やミサイル部隊配備がすすむ沖縄市・うるま市など中部地域からも合わせて約650人が結集した。
集会は、平和の礎に刻銘されている沖縄戦の24万余の戦没者への黙祷で始まった。はじめに、稲嶺進さん(オール沖縄会議共同代表)が「遺骨混じりの土砂を新基地建設に使わせることは言語道断。二度と戦争をしてはいけないという思いを私たちがやらないと次の世代に引き継ぐことができない」とあいさつした。続いて、ガマフヤーの具志堅隆松さんは、「遺骨が海に投げ入れられることに、遺族がどれだけ心を痛めるのか」と訴え、「沖縄が再び戦場になることを止めよう。防衛局は土砂調達先は決まっていない、土砂採取地は業者が決める、などと業者の責任に転嫁している」と防衛局の無責任を批判した。
玉城知事からも「代執行裁判には沖縄県民の民意を背景に闘う。勝つことは諦めないこと」のメッセージが寄せられた。琉球大学の徳田博人教授は「県は対話による解決を求めているが、国は権力的手段に訴えている。しかし、代執行で普天間飛行場の即時返還、危険性除去にはつながらない。南部の土砂を使おうとするのは、沖縄の歴史を省みていないからだ」と、国のごまかしを明らかにした。その後、沖縄選出国会議員団、県議団与党会派から、それぞれ玉城知事を支えて共に闘うとの力強い表明が行なわれた。
集会宣言に立った平田愛海さんは、「昨年、初めての選挙で玉城知事を支援した。遺骨が眠る南部の土砂を辺野古新基地建設に使うことに私は絶対に反対。私たちにできることは二度と戦争を起こさないこと」と、くぬ美ら島(この美しい島)うちなぁー(沖縄)を守る決意を込め、宣言を朗読した。
2023.10.21 糸満市摩文仁。戦没者の遺骨を辺野古の埋立に使うな!県民集会に650人。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(93)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野座村の嘉手納さんは、盧溝橋事件の1937年に徴兵検査を受けてから、入隊、軍属としての海南島での労務、満州への出稼ぎ、上海の海軍施設での軍属勤務、現地召集、敗戦ののち28年を過ぎた帰還など戦争に翻弄された人生を証言している。その中で、海南島の軍施設建設の現場で、日本軍慰安所があり、14~5人の女性がいて、朝鮮や沖縄の女性も何名かいたと述べている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)
嘉手納良清「海南島出稼ぎと中国大陸での戦争体験」
昭和十二(1937)年、日中戦争の勃発した年の初め頃、私は名護の学校で徴兵検査を受けました。結果は乙種合格ということで、第二補充兵に回されました。体格は充分甲種合格出来る程だったのですが、子供の頃に相撲をとって脱臼した手がずっと曲がったままになっていたのが、乙種合格になった理由でした。
それでも翌年の昭和十三(1938)年早々には、召集令状をもらい、一月七日に大分47連隊に入隊しましたが、左手が曲がっていることを理由に、入隊後三日で除隊させられました。
宜野座から出て来た時には地元の人たちから盛大な見送りを受けていたので、帰るのが恥ずかしくてとてもつらい思いをしました。その後、宜野座に帰って農業に従事しておりましたが、昭和十六(1941)年になって金武村役場から海南島への出稼ぎ労務者の募集の連絡があったので、私は同じ大久保の幸喜徳昌と共に応募しました。仕事の内容は海南島で軍事施設を造るための土木作業で、身分は軍属という事でした。宜野座から海南島へ出稼ぎに行ったのは私たちが一番最初だったと思います。
昭和十六年の夏、私たちは日本軍の駆逐艦に乗船して那覇港を出港しました。海南島へ出稼ぎに行く人は全部で七、八十名は乗っており、大宜味村や恩納村出身の人が多かったです。
私たちは何の連絡も受けていませんでしたが、船はそのまま奄美大島の古仁屋に行き、そこで命令され約二か月間、砲台に通じる道路の建設作業をさせられました。この二か月間は給料は全くありませんでした。
その後、軍の貨物船で古仁屋港を出て中国大陸の沿岸を約十八日かかって海南島の三亜港に着きました。
私は三亜の第13基地で働くことになりました。海南島には三亜の他、海口にも軍事基地がありました。私たち出稼ぎ労働者は工員と呼ばれていて、私たちの基地だけで約3800名の工員が全国から集まってきていました。工員は各班二十名ずつに分けられて、宿舎や飛行場建設の作業をしました。私は輸送班に配属され、ガソリンなどの燃料や材木などの建築資材をトヨタの四トントラックに積んで運ぶ仕事をしました。材木は現地調達して賄っていましたが、その他の資材は日本から貨物船で運ばれて来ました。
朝は七時起床して、八時には毎朝、朝礼がありました。全員各班ごとに整列して国旗掲揚と体操をした後、軍の偉い人の訓示がありました。その後、外に出て作業に行き、午後の五時には作業が終わりました。夏場はとても暑くて真昼には仕事が出来ないので、昼休みが三時間もありました。作業が終わると宿舎に帰りました。宿舎の周囲はばら線で囲まれていて、常時兵隊が警備していて勝手に外出はできませんでした。……
基地内には女の人は一名もいなくて、事務員も炊事係も全部男がやっていましたが、慰安婦は全部で十四、五名いて、その中には朝鮮人や沖縄出身の人も何名か交っていました。そこは毎日人がいっぱいで、列を作って並んでおり、慰安婦は多い時は一名で一日に四十名ぐらいを相手にしていたそうです。
慰安所に行く時は、その前に軍の警務室に行って「上陸します」と言って札をもらい、その札を持って行き、慰安婦に渡さなければなりませんでした。慰安婦の宿舎は別の場所にあり、慰安婦たちは週に一回、近くの海軍病院で検査を受けていました。……
沖縄に帰って来てからはしばらくまた、宜野座で農業をしていましたが、金武村役場から今度は満州の昭和製鋼所への出稼ぎ募集の連絡があったので応募しました。大久保から山田亀助、渡久地政雄、城田世福、比嘉平三も一緒に行く事になりました。……
入社して二か月後、私は満州の寒さが身にこたえたので昭和製鋼所をやめて単身で長崎県の佐世保に行き、そこで海軍施設部に軍属として採用されました。採用されて十二日後に上海に派遣され、炊事係として働くことになりました。上海に着いて七、八か月後の昭和二十(1945)年の初め頃、現地採用されて南京の陸軍部隊に入隊しました。その後、三か月の訓練を受けた後、南京から内陸の漢口まで、馬を輸送する命令を受け、一個師団全員と共に馬を手に引いて行軍しました。
漢口に着いて間もなく終戦を迎え、部隊解散の命令が出て、各自、自由行動となりました。私は何名かの戦友と一緒に上海に行くことにしました。日本人は客車には乗せてもらえなかったので、石炭を積んだ貨物車の上に乗って漢口を出発し、途中は歩いたり汽車を乗り継いだりしながら一か月半くらいかかってようやく上海に着きました。
上海に着いた後、近くの昭南島という所にあった日本人捕虜収容所に入れられました。そこに約十か月間収容されました。昭和二十一(1946)年の九月頃に日本に引き揚げが出来ることになり、上海を出港して二日かかって長崎港に着きました。
長崎に着いてから一緒に引き揚げてきた戦友と共に熊本県に行きしばらくそこに落ち着いていました。沖縄に帰れば、戦争参加者はハワイの捕虜収容所に連れて行かれるといううわさがあったので熊本に留まることにし、結局、その後二十八年間本土で生活することになりました。
週刊かけはし
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