10・20~24 南京平和友好訪問団(上)
沖縄と南京をむすぶ民間交流の確かな一歩
沖縄報告 11月20日
沖縄 沖本裕司
北京で日中両国の研究者たちが集う交流フォーラムが開催されたのと同じ時期に、10月20~24日、沖縄を中心に福岡・愛知・宮城在住メンバー14人による南京平和交流ツアーが実施された。主催は南京・沖縄をむすぶ会。4年前の2019年10月、南京市の日本語通訳ガイド・戴国偉(タイ・グォウェイ)さんが沖縄を訪問したことをきっかけに結成された南京・沖縄をむすぶ会は、当初から南京訪問を行動方針の柱としていた。(詳しくは、沖縄報告2019・10・20)。しかし、コロナの蔓延による国境の閉鎖・交流の途絶が長く続き、ようやく団体ビザによる訪問が可能になったのを機に、今回の南京ツアーが実現したものである。
私が中国を訪問するのは福州に続き二回目、南京は初めてだ。戴さんの丁寧かつ充実したガイドの下に、①南京市の城郭の中山門・中華門・光華門や燕子磯・草鞋峡・下関など揚子江沿岸、および国際安全区などのフィールドワーク、②南京民間抗日戦争博物館、南京利済巷慰安所旧跡陳列館、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の三カ所の施設訪問、③南京の被害者二世・曹玉莉(ツァオ・イーリー)さんの証言会合、および、犠牲者に対する献花・黙とう、を行った。以下、フィールド・ワークを主にその報告を行いたい。
南京到着
那覇から上海行きの中国東方航空МIU2086便は、14:30発の予定であったが、すでに上海から航空機が到着しているにもかかわらず、なぜか「管制塔からの指示」で17:00に延期された。そのため、税関健康申告や入国審査を終え上海空港の到着ロビーに出たのが現地時間の20:00頃(中国は日本と1時間の時差)。全員がそろいまず無事到着のしるしとして、到着ロビーの片隅で横幕を掲げて記念撮影。行きかう人々も足を止めて珍しそうに見ている。「南京平和友好訪問団一行 日中友好恒久不戦 南京・沖縄をむすぶ会」の文字が少なからずアピールしたのであろう。
上海から南京まで約300キロ。1937年、日本軍が侵攻して行ったルートの一つを高速バスで約4時間、宿泊先の南京鐘山賓館に到着しチェックインを終えたのは午前2時頃。ついに南京に来た! 疲れている筈なのにいろんなことが頭を巡りなかなか寝付けなかった。
フィールドワーク
朝食のビュッフェを食べて9:30、専用バスでフィールドワークに出発。南京に特有のプラタナスの並木を走るバスの中で、戴さんがマイクを持ってあいさつし、行動予定を説明した。南京に生まれ育ち南京をこよなく愛していることが伝わってくる。
中華民国の首都・南京は総延長35キロに及ぶ城壁を有し人口100万人を越える城塞都市だった。1937年11月、上海方面から南京へ向けて包囲するように進軍した日本軍は、中華門に主として熊本の第6師団が攻撃した。沖縄からの兵士たちもここに加わっている。光華門に金沢の第9師団、中山門に京都の第16師団が向かった。日本軍の総攻撃を前に国民党政府は首都を重慶に移し、頑強な抵抗を続けていた国民党軍にも撤退命令が出され、12月13日、南京城はついに陥落した。12月17日には、松井石根(中支那方面軍司令官)や朝香宮鳩彦(上海派遣軍司令官)等の入城式が予定されていた。投降した中国兵、民間人、女性、子供に対する日本軍の殺害、放火、略奪、強姦など南京大虐殺のすさまじい暴力が主に6週間にわたって吹き荒れた。
日本軍による暴力がいかに残忍・冷酷で非人間的だったかは、多くの日本軍兵士たち、および被害者たちの証言がある。いくつか列記すると、
森山康平『証言記録 三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』(新人物往来社、1975)
南京市文史資料研究会編『証言・南京大虐殺』(青木書店、1984年)
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館『「南京大虐殺」生存者証言集』(星雲社、2000)
松岡環編著『南京戦~閉ざされた記憶を尋ねて』(社会評論社、2002年)
松岡環編著『南京戦~引きさかれた受難者の魂』(社会評論社、2004年)また、小説にもなった。
石川達三『生きている兵隊』(中央公論1938年3月号。戦後、伏字復元版)が、日本軍の中から見た戦争の実態のドキュメントであるとすれば、阿〇(土偏に龍)著、関根謙翻訳『南京慟哭』(五月書房新社、1994年)は、南京防衛に従事した中国軍の側から描写した戦争文学であると言える。石川達三の小説を読み日本軍の暴力の実態を目の当たりにした人はかなりの数にのぼるであろうが、中国側から南京をとらえた小説に目を通した人は少数であろう。日中ふたつの戦争文学を読み比べるのも有意義だ。実際、どのような大事件であっても、歴史的事実は知られなければやがて歴史の彼方に消えていく。しかし、日本と中国の近代史が交わる南京事件は決して忘れられてはならない歴史的事実である。
東郊叢葬地
最初の訪問地は、中山門方面、紫金山近くの集団埋葬地である「東郊叢葬地紀念碑」。旗布を掲げて追悼行事を行っていた学生たちが去ったあと、碑がある台にのぼり、後ろ側に書かれてある説明文を読んだ。それによると、碑は南京市人民政府が1985年に建立、1938年末までに周辺一帯から3万5千体以上の遺体を収容したとある。沖縄でいえば、魂魄の塔のようなものか。
第16師団第20連隊に所属して南京攻撃に加わった東史郎さんは、従軍中つけていた日記をもとに、『わが南京プラトーン―召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987年)を出版し、自分の部隊が行った残虐な蛮行の数々を具体的に書き告発した。そして東さんは1987年12月、この東郊集団埋葬地を訪れ、ひざまずき涙を流して受難者に対する謝罪と追悼を行った。戴さんは、この時のことが中国で大きく報道され、「日本にも良心的な人がいる」と話題になったと説明した。一行も碑の前で一分間の黙とうを捧げたあと横幕を広げ記念撮影をした。周辺は今大きな緑地公園となっていて、家族連れ、若者、グループたちで賑わっていた。
燕子磯
揚子江に面した燕子磯もまた、集団埋葬地の一つである。福島の第13師団第65連隊(山田支隊)が、燕子磯から幕府山・草鞋峡にかけて揚子江沿いに進軍した。現在は「党史教育基地」として、揚子江が一望できるハイキング・コースの公園に整備され、地元の老若男女が足を運んでいる。一行は市民たちと行き交いながら丘の頂上へのぼった。泥色の川が右手の河口へ向かってゆったりと流れる中、様々な貨物船がひっきりなしに往来している。中国文明を支えた大河。大虐殺の遺体が一面を覆いつくし血に染まった河。「燕子磯同胞紀念碑」は南京市人民政府が他の集団埋葬地の追悼碑と共に1985年に建立したもので、後ろの説明文には「武装解除した兵士3万と平民2万、計5万人以上」が犠牲になったと記されている。
草鞋峡・幕府山
海軍は南京に対する空襲をくり返していた。柳川平助中将を司令官とする第10軍は大本営が設定した制令線を無視して独断で南京攻撃へ向かうことを決定。12月1日、大本営は正式に南京攻撃命令を下した。「南京さえ落とせば日中戦争に勝って終結することができる」と各部隊は先を争って進軍した。広島の第41連隊(国崎支隊)が長江の対岸を南西から浦口へと向かった。日本軍は「捕虜を取らない」すなわち「捕虜は始末する」ことを方針としていた。隣接の魚雷営・煤炭港を含め長江沿岸の一帯は組織的な大量虐殺の舞台となった。幕府山ふもとの草鞋峡集団埋葬地の碑文には、「難民および武装解除した兵士あわせて5万7千人が機関銃で射殺され残骸が揚子江に投げ込まれ山河が血に染まった」とある。
下関(中山埠頭)
河辺に石が敷き詰められているこの辺りは、かつて一面のアシ原だった。避難することができず南京にとどまらざるを得なかった住民たちは、日本軍の略奪・強かん・殺害から逃れようと、アシ原に身を隠し、食べ物も飲み水もない中で息を殺していた。土手を行き来する日本兵は少しでもガサガサといった音がすると銃を撃ち銃剣で突いた。このアシ原で傷つき殺された人々も多い。今回証言していただいた曹玉莉さんのお母さん、張翠英さんもその一人である。
日本軍が南京を攻撃した1937年はたいへん寒い12月だったという。張翠英さんは当時6~7才。逃げるのに間に合わなくて、4才の弟と一緒にお母さんに連れられて揚子江の河辺のアシ原に隠れていた。食べ物がなくてアシの葉っぱや木の根っこなどを食べていた。その時、銃剣で突き刺され左足に傷を負ったが、治療をすることができず腐っていき、終生、正常な歩行ができないだけでなく、精神的に大きなダメージを持ったまま、2018年、88才で一生を終えた。毎日イライラして精神的に不安定、とくに「日本」という二文字を聞くとカッとなり、晩年は精神が不正常な状態が続いたという。
河辺は現在整備され、市民が集う憩いの場に姿を変え、揚子江に生息する河イルカの観察地にもなっている。週末の夕方だったせいか、あちこちにくつろぐ家族連れやカップルたちの姿を目にすることができた。向かって右手の大きい橋は「第1鉄橋」。1960年代、中ソ対立の激化からソ連が技術者を引き上げたあと、中国が独力で造り上げた鉄橋で、国の独立と自尊心の象徴だったとのことだ。
挹江門(ゆうこうもん)
南京城内の中山北路を北へ進むと挹江門に至る。下関(シャークァン)埠頭に出る通路であり最後の門だ。当時左右と真ん中、3つの門のうち2つが麻袋で封鎖され、ひとつしか通行できなくなっていた。当初南京死守の方針を取っていた国民党軍は、日本軍が南京城に迫った12月12日夜になって、撤退命令を下したが、指揮命令系統の混乱の中、門を死守しようとする部隊と撤退しようとする部隊との間で激しい武力衝突が行われた。南京防衛軍の司令官はいち早く船に乗り逃亡したが、その際他の船をすべて破壊した。南京の軍民は、埠頭にたどり着いても対岸に渡るすべがなく絶望的に右往左往するしかなかった。また、太平門では中国軍が日本軍の囲みを破って集団的に逃亡することに成功したという。
挹江門外の緑地公園には、崇善堂や紅卍字会などの慈善団体が周辺から集めた5100体の遺体の集団埋葬地の碑が立っている。
光華門
光華門には第9師団が攻撃した。現在城門はない。城壁に沿って作られた大きな堀を囲むように整備された緑地公園入口では、トランプを楽しむ人々の姿があった。公園入口の壁に「光華門堡塁遺跡」の石造版が立てられ、当時国民党軍が築いた陣地跡が重要文化財として保存されている。宮内陽子さん『日中戦争への旅―加害の歴史・被害の歴史』(合同出版、2019年)に、敗戦前後の南京で赤十字社の看護婦(当時)として勤務していた上田政子さんについての記述がある。上田さんたちは研修が終わった後、野外に遊びに行き弁当を食べるために座ったところ、お尻に何か固いものが当たり、何だろうと掘り出したところ白骨が出てきたという。戴さんによると、上田さんの友人たちも同じ体験をし戦後長らく誰にも言えずにいたと言い、のちにその場所を確認しようとしたが、はっきりした場所の確定はできなかったという。光華門周辺で倒れた中国兵か民間人か、それとも子どもの骨だったのだろうか。
文献や資料にあたり認識を深めることはもちろん重要だが、やはり現場に足を運び、現場の景色を見て、現場の空気を吸うことが何より大切だということを改めて痛感した今回の南京訪問だった。
「南京大虐殺は中国人のでっち上げ」「大虐殺はなかった」などという趣旨の主張が様々な政治家や有名人から繰り返されるのは、端的に言って、日本社会が南京を知らなすぎるからだ。日本軍による南京攻撃の現場のいくつかに立ち少しでも歴史に思いをはせれば、「虐殺は幻」などという言葉が出てくる筈がない。私は、かつての日本軍による南京攻撃と大虐殺が、すでに1万人以上の犠牲者を生み出しパレスチナ人社会を廃墟と化しているイスラエル軍によるガザ攻撃にオーバーラップするのを禁じ得ない。
南京民間抗日戦争博物館
建物の2~3階が展示室、4階が書庫、会議室、館長室となっている。門の前まで出迎えて案内いただいた呉先斌(ウー・シアンビン)館長は、「みなさんがコロナ以来初めての日本からの訪問客です。たいへん歓迎します」と述べた。開館は2006年。その前から少しずつ資料を集めはじめ、現在4万点の物的資料と1000人の聞き取り調査の内容を保有しているという。驚くことに、この博物館は館長が個人で運営しているとのことだ。第1部は、中国の人々が日本の南京侵略にどう戦い抜いたかという史実に関する展示、第2部は、日本軍による南京に対する暴行に関する展示、という構成になっている。
義勇軍のレリーフが正面にすえられた二階は、次のような前書きから始まる。
「南京を守れ、中国を守れ、そして中華民族を守れ。
1937年7月7日、抗日戦争が勃発した。8月13日から、中国軍は上海で日本軍と4か月間も苦戦して、日本軍の“3か月で中国を滅亡させる”をいう夢を粉砕した。……12月1日、日本の大本営は南京攻略を命令した。そして12月10日に日本軍は南京の城下に迫った。……
南京の守備部隊は血まみれの土地で、自分より数倍の日本軍と死闘した。……南京防衛戦は結果として失敗したが、都市の防衛に参加した兵士と市民の抵抗精神は我々に銘記されるべきである。……」
中国の古都・南京は、1927年に国民政府が首都と定め、政治・経済・文化上の重要な位置を占めて発展し、人口も100万人を越えた。展示は、占領前の南京の様子、日本軍および中国軍の陣営、攻撃ルート、当時の新聞紙面、破壊された南京の姿などと続く。機関銃を射撃する中国守備隊、匍匐前進し日本軍に手りゅう弾を投げつける中国兵、カモフラージュした高射砲陣地や迫撃砲陣地など、戦場の中国軍の姿がリアルに描かれる。そして、廃墟となった南京の写真の数々のあとに、「南京保衛戦」と題する壁一面の大型油絵(南京芸術学院の王浩輝教授)がひときわ目を引く。南京城の城門を背景に日中両軍兵士の死体が累々と横たわる中、一人の兵士が左手に青天白日旗、右手に手りゅう弾のような火器を手に叫んでいる。強い印象を与える絵だ。そして、犠牲となった兵士の名が壁一面に記されている。
第2部は「侵華日軍南京暴行」と題する展示。ここで特に注目されたのは、第6師団に所属して南京攻撃に参加した熊本出身の兵士の軍関係の遺品とその息子による謝罪の手紙を展示したコーナーであった。手紙の文面は次のように綴られている。
「私の父武藤秋一が日本軍第六師団の兵士として南京人民に対して行った侵略加害行為について心から反省し謝罪します。
2017年12月10日 為日中友好 日本熊本県 田中信幸」
この展示は、戴さんが2016年熊本証言集会で田中さんに出会ったことがきっかけで実現したという。田中信幸さんは、父親が残した従軍日記を紹介し日本軍の一員として父親が犯した戦争犯罪を明らかにするとともに、その戦争責任を一緒に背負っていくことを決意して活動を続けている方である。
館長の個人的努力で維持されているこの奇跡的な博物館は、訪問客にとって、日本軍の南京攻撃に対し南京の人々がどのように戦いどのような被害を受けたかを侵略された側に身を置いて知り感じ思索する空間だと言える。 (つづく)
●2023.10.21 紫金山近くの集団埋葬地。周辺から35000の遺体を収容したとある。
●2023.10.21 下関(中山埠頭)で、揚子江をバックに、戴さんの説明に耳を傾ける。
●2023.10.22 南京民間抗日戦争博物館。大型油絵「南京保衛戦」(制作=南京芸術学院の王浩輝教授)
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