群馬の森・朝鮮人追悼碑撤去に抗議する

差別・植民地化・侵略の歴史を見据えよう
新たな戦争国家への道を許さない!

 【群馬】群馬の森にある朝鮮人追悼碑の撤去が山本一太知事の代執行命令によって1月29日朝から強行された。事前に1月28日5時半以降2月11日まで群馬の森を休園にして行うことが明らかにされていた。山本知事は碑の管理者である朝鮮人追悼碑を守る会だけでなく、労働者市民そして報道機関さえシャットアウトしてこの撤去作業を行った。
 この暴挙は朝鮮人追悼碑の存在を抹殺するためだけでなく、天皇制帝国主義が、アジア太平洋戦争として行った侵略の事実を抹殺し、アメリカとともに新たな帝国主義戦争に国民を統合し動員する体制作りの一環として行われたものと言わなければならない。
 群馬の森の朝鮮人追悼碑に込められた思いとはなんであったか。そしてその碑を建てた過程はどのようなものであったか。
 ちょうど戦後50年になる1995年ころから全国で労働者や市民によって今も残る戦争に関わる施設や労働現場の史跡の調査が行われた。
 アジア太平洋戦争の末期に日本にはアメリカの爆撃機が直接飛来し、空襲を行い、爆弾や焼夷弾で町ごと焼失させていき、兵器工場など兵器生産に係る施設が次々に破壊されていった。さらに工場を稼働させるための電力不足や資材の鉄の不足などにも追い込まれていった。そのために全国で兵器生産のための施設や工場の突貫工事が行われた。
 しかし、労働者は戦場に兵士として送り出され日本国内には余剰な労働力はなかった。そのため捕虜にされた中国人や、植民地とされていた朝鮮から朝鮮人を強制的に連行してこの突貫工事が行われたのである。
 戦争史跡の群馬県で明らかになったことは以下の通りである。
 群馬県では群馬鉄山を開発しそれを輸送するために吾妻線が作られ、沼田市の近くで、利根川の水をひいて発電する岩本発電所の建設が進められた。さらに太田市にあった中島飛行場が爆撃される中で水上町の近くに後閑地下飛行機工場建設が進められた。これらの群馬の突貫工事現場に強制的に連行された労働者は6000人に及んだという。そして、劣悪な飯場での食事や重労働、そして、病気、事故さらに爆撃などで、多くの労働者が亡くなった。
 この事実を示す資料は国や県にほとんど残っていなかつた。なぜなら、国や県が保有していた戦争に係わる文書がほとんど処分されてしまったからだ。
 だが、これを、戦後50年を機に全国的に行われた労働者、市民の調査がその実態をあきらかにしたのだ。
 調査を行った労働者や市民たちがその事実に基づき朝鮮人追悼碑を群馬の森に作る運動を始め県議会にも請願した。群馬の森は、明治百年事業として、戦争当時東京第2陸軍造兵廠岩鼻製造所跡地を県立公園としたものだった。

当時の小寺知事と県議会は公共の県立公園に「記憶 反省友好の碑」

 追悼の碑を建立することは日朝、日韓の交流とアジアの平和に資すると合意し、朝鮮人追悼碑が群馬の森に2004年に設置された。この背景には、1998年に、群馬県出の小渕恵三首相と韓国のキム・デジュン大統領が日韓共同宣言に痛切な反省と心からのお詫びを明記したことがある。
 強制連行に関連した史跡は、全国に点在するが、その存在を碑として公共の公園に建立することは初めてであった。この碑は、設置許可期限の10年間の2014年まで存在し、またその後10年間延長されるはずだった。
 ところが、2014年の追悼碑の延長を前に第2次安倍政権が成立した頃から政治状況が変わった。アジア侵略戦争の中で起きた人道にもとる加害の事実、強制連行や慰安婦などは存在しなかったという歴史修正主義を叫ぶヘイト・右翼団体の行動が活発化した。これは再び憲法を改正し、自衛隊を軍隊として再組織し直し軍事力を持った帝国主義として国際社会に出ていくという安倍首相の強い国家主義に呼応するものだった。
 これらの右翼団体は、朝鮮人は日本から出ていけなどのヘイト活動を強化する一方、強制連行や慰安所設置などは実際にはなかったと攻撃を広めた。そして全国に調査を通して確認された日本に残る侵略戦争の誤りを具体的に示す歴史的事実を消し去るための行動に出た。
 この攻撃によって長野県の松代大本営跡地にある強制連行という文字が隠されたり、奈良の天理・柳本飛行場跡地に建てられた朝鮮人の強制連行や朝鮮人女性の慰安所があったという銘板が撤去されるということが起こった。
 とりわけ、女性団体そよ風という団体は群馬の森朝鮮人追悼碑が、2014年に10年間の公園設置許可の期限が再更新される期間になることに着目。この機に、朝鮮人追悼碑を延長不許可にして撤去させる行動を起こした。
 2012年5月15日付朝鮮新報が、群馬の森の朝鮮人追悼碑のそばで追悼式が行われたと報道したが、この後撤去を群馬県に求める行動を始めた。抗議メールや電話、高崎駅前、群馬県庁、そして群馬の森で強制連行などの宣伝が行われ、県への撤去せよという圧迫が強まった。
 結局、地方自治体の群馬の森に追悼碑を建てることに満場一致で賛同した自民党の県議たちがそよ風などのヘイト団体の側に屈服するのは早かった。自民党の県会議員は群馬の森の朝鮮人追悼碑は撤去せよというそよ風から出される請願の紹介議員になり、その請願に対する賛成意見を述べ成立させてしまったのだ。
 安倍首相が唱える軍備増強による強い国家づくりが、地方自治体にも押し寄せたのだ。これを受けて当時の大澤知事は群馬の森の朝鮮人追悼碑の設置許可更新を不許可としたのだ。

その理由は朝鮮人追悼碑許可の条件として

 追悼碑のそばで、除幕式や追悼式が開かれそこで強制労働などの政治的発言が行われたがこれは追悼碑のそばで、宗教行事や政治的行事は行わないという許可条件に違反したというわけだ。県の更新不許可理由はそよ風が求める撤去理由と違っていた。そよ風の請願趣旨は、追悼碑文自体が、でたらめだというものであった。しかし朝鮮人追悼碑撤去を求めることには違いはない。政治的行事はしないという設置の条件への違反という理由は、後に予測される訴訟の対策として、知事と幹部職員が自民党と相談して、後出しで考えたものだろう。しかし、これは地方自治体の長が、ヘイト右翼に屈したことを表すものでしかない。
 この結果、朝鮮人追悼碑を守る会は10年間の設置許可更新不許可処分の取り消しを求めて前橋地裁に提訴した。前橋地裁は2018年に判決して、その中で許可条件に反して強制連行に対する発言があったことを認めたが、そのことで追悼碑が政争の具になったことはないという事実を示し、そよ風が許可更新期間を前に2012年頃から、群馬県庁にメールや電話で抗議を集中したのは、過去なされた追悼式における強制連行を批判する発言に対してではなく、主に追悼碑の碑文そのものへの攻撃だったということを記した。そして10年延長期間の群馬県に裁量権があるとしても裁量権を逸脱して行われた違法な処分だと判決した。
 この判決は群馬の森の公園の静謐を毀したり、公園管理職員ともめたそよ風の暴挙を、朝鮮人追悼碑やその監理団体朝鮮人追悼碑を守る会の追悼碑横での追悼式典での強制連行発言が政争を引き起こし、朝鮮人追悼碑が群馬の森に存立する効用を失ったという群馬県側の主張と区別した。これは歴史戦として地方自治体を攻撃するそよ風などのヘイト団体に群馬県側に毅然とした対応を促しているように思える。
 しかし、司法判断はここで止まらなかった。群馬県はただちに一審と同じ理由で控訴し、2021年に高裁は追悼碑の存在自体が政争の対象になり、都市公園にある施設としてふさわしくなくなったとして群馬県の10年延長を取消した処分を適法とした。そして、2022年最高裁は追悼碑を守る会の上告を棄却し、高裁判決が確定することになった。この高裁判決、最高裁の棄却に共通の問題がある。

安倍政権に追随した司法の実態

 それは高裁判決が、群馬県の主張に対して一審の前橋地裁判決が群馬県の群馬の森の朝鮮人追悼碑の設置延長不許可処分を職権乱用とした点の根拠をすべて消し去ったことである。強制連行という発言を追悼式を追悼碑の傍らで行ったことで、追悼碑の政治的中立性が失われ、追悼碑が政争の具になったことで公園に存立する効用を失ったという高裁の判決だ。
 この判断は明らかに間違っている。そよ風による群馬の森の追悼碑への撤去要求は、朝鮮人追悼碑を群馬県が群馬の森に設置したことそのものから起こったことなのである。一連の群馬県へのメールや電話の抗議、そしてプラカードを、公園内に持ち込もうとして起こったトラブルも強制連行発言を守る会が追悼式で行ったことで起こったことではない。この点は、前橋地方裁判所が指摘したことである。それで高裁は政治的行事をやって約束違反をしたために追悼碑の政治的中立性がなくなったという奇妙な論理に切りつめたのだ。
 朝鮮人追悼碑の設置を自民党が一度は認めたのに、自民党の最高権力者が、安倍晋三になり、歴史的修正主義の観点からして許容できなくなったために、追悼碑を撤去しようということなのだ。
 強い帝国主義国家構築を望む安倍晋三が、内閣、国会、司法の統合を望むとその意志に一体化して行く司法の現状が明らかになっているのだ。

右翼に追随する山本県政の暴挙

 こうして地方自治体群馬の山本一太知事が、追悼碑撤去の前面に出てきた。山本知事は、守る会と話し合うと言いながら撤去の姿勢を崩さず、守る会に対する自主的取組は撤去を迫る命令を迫るばかりであった。この中で、撤去反対の声が上がった。
 6月に入るとそよ風などと対峙し行動してヘイト団体と対峙し闘ってい人たちが、山本一太知事の暴君ぶりを東京アルタ前で明らかにするスタンディングをやったりすることによって群馬の森追悼碑撤去の問題は、全国に知られることになつた。追悼碑を守る会も群馬県庁前や、高崎駅前で、連続スタンディングをして撤去反対を訴えた。
 さらに5月21日には、群馬県庁近くの教育会館で、19回追悼集会が開かれた。
 撤去反対の声の高まりの中、山本一太知事は遂に、昨年10月25日、追悼碑を守る会に戒告書を送りつけ、4月27日に、追悼碑を撤去し、原状回復を命じ、その履行を催促したが、この義務が履行されなかった。
 したがって12月28日まで、履行しない場合は撤去及び原状回復を執行するという警告書を送りつけてきた。
 ここに至っても執行日を明らかにしなかった。追悼碑を破壊するという暴挙を隠して行なうという山本一太に対する怒りは、全国に広がった。それは報道機関もそうだった。そして自分の問題として受けとめた人々が、破壊をとめようと全国から集まった。さらに、山本一太知事への撤去をやめてという個人、団体のメールが集中した。その中で、やっと記者会見に応じ、1月28日の夜から2月11日までの間群馬の森を休園して、現場の立ち会いを認めず、代執行を行うことをあきらかにした。
 追悼碑を守る会は、1月の15日から19日まで、連続スタンディングをして、20日には、群馬県庁前の教育会館で、撤去反対の集会を持った。この集会にはいままで最大の250人が集まり、集会後県庁前で、山本一太知事への怒りの声を上げた。この行動には、朝鮮の農民が鐘と太鼓を打ちながら踊るサムルノリの人たちも参加した。
 そして、撤去工事が始まる前日追悼碑前は、たくさんの報道陣、全国から、破壊される前の追悼碑の姿を目に焼き付けようと集まった人と、韓国からを含めた報道人など200人を超える人々で埋まった。これに対して、集会に必ず突入する右翼も現れたが、追悼する人々のところまで突入することはできなかった。
 1月29日に追悼碑の台座は、粉々にされ運ばれた。これを命じた山本一太知事の暴挙は、多くの人の心の中に追悼碑を再び蘇らせるという気持ちとともに記憶されていくだろう。
        (磯崎茂)

朝鮮人強制連行の歴史的犯罪を否定するな!と県庁前で抗議のアピール(1.20)

撤去の報を聞き各地から多くの人が献花に訪れた(1.28)

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