投稿 新たな「生活賃金運動」を

「賃上げ」をめぐる資本の思惑と賃金格差の拡大

西島志朗

最低賃金2000円 ?

 1月1日の日経新聞は、経済団体トップの「2024年への抱負」を報じている。経団連の十倉は、社会保障制度を早期に改革すべきだとして、医療や年金を含めた制度改革を政府に強く働きかけていく考えを示した。経済同友会の新浪は、「賃上げを人への投資として、ノルム(社会通念)にしなければならない。ノルムに反する企業は評価されない環境づくりが大切になる」と強調し、最低賃金について「3年くらいで2000円まで引き上げるというのがめざすべき理想像だ」と述べたという。
 連合は昨年、最低賃金を2035年までに「1600~1900円程度」にする新たな目標を発表した。岸田首相が打ち出した「30年代半ばまでに1500円」よりも高い水準を要求する、ということだろう。新浪の発言は、連合の目標をわずか3年で上回る。新浪の真意はどこにあるのか ?

倒産、企業の新陳代謝


 昨年の企業倒産件数は、8690件(負債額1000万円以上)で、前年比35%増えた。その95%が、従業員20人未満の小規模企業だった。倒産の要因は、人手不足、物価高、デジタル化の遅れ、「ゼロゼロ融資」の返済困難化などである。日経新聞編集委員の水野裕司は、「人材需要が・・・衰退産業から成長性の高い産業へ、労働力を移していく好機と言える。デフレ脱却と経済の好循環実現に向けて、「労働移動」を後押しする政策に注力するときだ」(日経1月15日)という。水野によれば、労働移動を後押しする政策とは、「雇用調整助成金の見直し」「解雇の金銭解決の制度化」「解雇保険の制度化」だ。労働者の7割が中小企業で働いている。しかし、「業績不振の企業でも従業員を抱え込みがちになる構造を変える必要がある」というのだ。
 新浪は「ノルムに反する企業は評価されない環境づくりが大切」だと述べた。「生産性の低い中小企業は市場から退場させろ」ということだ。倒産は失業者を増やし、「労働移動」を促す。最低賃金を2000円に引き上げれば、低賃金で維持されている生産性の低い企業は淘汰される。「新しい資本主義実現会議」の構成員・冨山和彦はもっと率直に言う。「300万社を超える中小企業が半減する結果になるとしても、生産性の高い事業に企業や働き手を移すべきだ。新陳代謝を邪魔すべきではない」。
 2000年にはOECD加盟35カ国中トップだった日本の製造業の労働生産性は、2022年には18位になった。最低賃金の大幅引き上げによって、低生産性企業を一斉に淘汰し、総資本の平均生産性を引き上げること。新浪が代表する大資本の狙いはここにある。

「労働移動」、どこへ?


 労働移動は、「非正規」と「フリーランス」へ向かっている。「総務省によれば非正規は22年に2101万人いる。前年より26万人増えた。雇用者全体に占める非正規の割合は36・9%まで上昇した。シニア雇用の増加もあるが、「派遣切り」が社会問題化したリーマン・ショック直後の09年よりも3・2ポイント高い」(日経1月21日)。
 他方、「パートや派遣社員の正社員化が進まない。リクルートワークス研究所によると正規雇用を望む非正規のうちで2022年に正社員になったのは7・4%だった。調査を始めた16年から横ばいのままだ」(日経1月21日)。「人手不足」で売り手市場であるにもかかわらず、「非正規」はさらに増え続け、正社員は増えない。
 政府は「適切な職業選択を通じ、多様なキャリア形成を図っていくことを促進する」(厚生労働省)として、「副業」を推進している。しかし「副業」の主な理由の大半は、「収入を増やしたい」「1つの仕事だけでは生活できない」というのが実態である。「副業」を推進する政府の美辞麗句にも関わらず、「非正規社員」や「下層正社員」は、8時間勤務する「本業」では生活が成り立たず、仕事を「掛け持ち」せざるを得ない。
 クラウドソーシングサービス(*1)の大手、ランサーズ株式会社によれば、2019年から2021年にかけて「フリーランス」(*2)の割合は16・7%から22・8%に増えた。ランサーズは「フリーランス」を、「副業系すきまワーカー/複業系パラレルワーカー/自由業系フリーワーカー/自営業系独立オーナー」と定義して、総数は1671万人としている。「副業系すきまワーカー」や「複業系パラレルワーカー」とは、「日雇い」でさえない「時間雇い」、時間単位で労働力を切り売りする不安定雇用労働者である。
 資本が狙う「労働移動」とは、雇用条件の切り下げであり、「フリーランス」、「副業」、「複業」などの働き方を選ばざるを得ない労働者を増やし、労働基準法を基盤として形成された労働関係法規や社会保険制度の適用対象から外してしまうことだ。

 最低賃金が引き上げられれば、企業は労働コストを引き下げるために、「正規雇用」を減らしてさらに「非正規」を増やし、「フリーランス(偽装委託)」を増やして、労働コストを外部化するだろう。新浪が代表する大資本のもう一つの狙いがここにある。
 (*1)クラウドソーシングとは企業がインターネット上で不特定多数の労働者に、業務を発注する業務形態。仕事を受けたいフリーランスと、仕事を依頼したいクライアントをマッチングするサービス。
 (*2)「フリーランス」の定義は様々であり、調査機関によって大きな差があるが、内閣官房は2020年のフリーランス人口は約462万人としている。内閣官房の定義は「自分で事業を営む/従業員を雇用していない/実店舗を持たない/農林漁業従事者ではない」というもの。ランサーズの定義の方が、実態を反映していると言えるだろう。

「人手不足」、賃金は上がり始めた


 中小企業の賃上げがなかなかすすまない中でも、「人手不足」の圧力を受けて、時間当たりの賃金は特に都市部で、収益力のある業種と企業で上がり始めた。人材サービス大手のエン・ジャパンによると、2023年12月の派遣社員の募集時平均時給は、三大都市圏(関東・東海・関西)で前年同月比38円(2・3%)高い1684円だった。オフィスワーク・事務系は、1629円。IT・エンジニア系は2616円。営業・販売・サービス系は1590円となっている。会員制スーパーマーケットのコストコはすでに22年5月から、全国一律で採用時の時給を最低1500円としている。すでに都市部では、一部の職種で、1500円ないし2500円程度の時間給を前提にしなければ、必要な人材を集めることができなくなった。
 「厚生労働省によると23年11月のパートタイム労働者の時給は1301円だった。コロナ前の19年同月と比べると10・3%伸びた。(求人検索サイトのインディード・ジャパンによれば)希望時給はコロナ流行前の19年12月は平均1284円だったが、足元は1470~1480円台で推移する。コロナ前と比べると最新の23年12月は15・9%上昇した。コロナ禍を経てサービス業を中心に人手不足が強まったことなどが背景にある」(日経1月29日)。パート労働者は、ほぼ時給1500円の仕事を希望しており、すでにその水準の求職が求人サイトに出ているということだ。
 実のところ、新浪のいう「3年以内に最低賃金2000円」は、大企業にとっては決して過大な目標ではない。そもそも男性正社員の平均年収を時給に換算すれば2500円程度であり、「正規」と「非正規」の格差の「根拠」は、男女の「性別」と「パートさん」の「身分」だけだ。「2500円」と同じ業務をになう社員に「2000円」払うと言っているだけなのである。
 大企業は「価格転嫁」(インフレ)を進めて、利潤率を回復しつつある。それは最近の「株価バブル」にも反映されている。下請けや孫請けの中小企業に対しては、原材料コストや労働コスト上昇分の「価格転嫁」を可能な限り抑え込んで「淘汰」し続け、「フリーランス」や「ギグワーカー」として、労働コストを外部化(偽装委託)すれば、2000円でもまだ「余裕」だろう。
 労働市場は、空前の「売り手市場」である。連合の「2035年までに1600~1900円程度」などという最低賃金の要求は、労働市場が「自然に」実現するレベルであり、闘いの目標ではない。

グローバル化とIT化、拡大する賃金格差

 大手総合商社5社の平均年収は1513万円、労働者の平均年収443万円(国税庁民間給与実態統計調査2021)の実に3・4倍である。総合商社は多数の海外子会社を持ち、本社主導で多様な投資活動を行う。好業績の恩恵は本社の莫大な利益となる(海外子会社からの配当金収入はほとんど非課税だ)。世界中で活動し、すでにグローバルな人材獲得競争に巻き込まれている総合商社は、莫大な利益の一部を賃金の引き上げに投入しなければならないし、それができるのである。
 資本は、産業用ロボットの導入とIT化の推進によって、生産性をグローバル水準に引き上げようとしている。それは、IT技術者をはじめ特別な技能を持つ専門職を、外国人材も含めて確保することを必要とする。資本が、生産過程の大規模な組織的・技術的な変化をもたらす技術革新を導入する際には、特定の技能を持つ「熟練」労働者の不足に直面する。それが賃金上昇の圧力となり、少数の高所得労働者が生み出される。その対極で、正社員の削減がすすめられ、まさにその技術革新の目的である「熟練」の解体によって、マニュアル化された単純労働を担う低賃金労働者が生み出される。
 こうして、グローバル企業やハイテク関連職種の「上層正社員」と「下層正社員」の格差が拡大し、価格転嫁(インフレ)の中で利潤率を回復した大企業と価格転嫁を抑え込まれる中小企業の賃金格差が拡大する。「売り手市場」で、パートの時給は上昇しつつあるが、「下層正社員」の賃金は抑え込まれている。そして、その外側には「ギグワーカー」などの雇用から外された「偽装フリーランス」の大群が形成される。
 このような「雇用の重層的差別的構造」を打ち破るためには、最低賃金の男性正社員並みの時給水準への引き上げが不可欠であり、同時に、上昇する「労働コスト」の「外部化」を許さず、「偽装フリーランス」の正規雇用を求める社会的な運動の構築が喫緊の課題だ。

社会の崩壊を食い止める
最低賃金を


 時給1000円ないし1500円程度の低賃金で働く「下層正社員」「非正規社員」の大半は、社会を支える「エッセンシャルワーカー」である。「生産性」が高く、収益力のある産業と職種では賃金が上がり、「生産性」の低い「エッセンシャルワーカー」の賃金はなかなか上がらない。高齢者と女性の労働参加率を引き上げる政府の政策は、「エッセンシャルワーカー」の賃金を下押しし、「偽装フリーランス」の増加はそれをさらに下押しする。
 賃金の水準を、企業の収益力や経済成長に依存させ続ければ、賃金格差はますます広がり、社会は崩壊へ向かう。保育士も介護職員も、トラックドライバーや路線バスの運転手も不足している。すでに「人手不足」による介護施設の倒産や廃業が増加し、バス路線の廃止や物流の停滞が発生し始めた。
 「2023年の「老人福祉・介護事業」の休廃業・解散は510件(前年比3・0%増)で、調査を開始した2010年以来、過去最多を更新した。人手不足などで経営が悪化し、倒産する前に早めに事業継続を断念した介護事業者が多いとみられる」(東京商工リサーチ1月17日)。
 「社会的必要性」に応じて労働力が確保されず、社会が崩壊していく危機的状況を反転させる方法は、この社会を「底辺」で支えている労働者の賃金の抜本的な引き上げしかない。

 厚生労働省が2023年2月に発表した「毎月勤労統計調査」では、一般労働者の月平均残業時間は13・8時間(パートタイム労働者の月平均残業時間は2・2時間)だった。出勤日数の平均が19・4日であり、1日あたりの残業時間は40分程度となっている。しかし、この調査は実態を反映していない。
 企業のクチコミをリサーチしている「Open Work」の調査によると、月平均残業時間は約47時間であり、20時間~40時間が多く、合計で41・2%となっている。100時間以上が12%もあった。OECDの資料でも、日本の男性正社員の週労働時間は53時間であり、月あたりの残業時間は52時間となる。OECD諸国の中で最長であり、平均よりも48時間も多い。
 長時間労働を前提として、「生活」が成り立っているということだ。最低賃金の要求は、この状況を変えうるものでなければならない。
 最低賃金の基準について考える時、下記の2つの基準を最低基準とすべきである。
① 「完全週休二日制と残業ゼロ」で、「十分に人間らしい生活」ができる賃金=「生活賃金」となること。
② 「1人親世帯」(シングルマザー世帯)の「生活賃金」であること。
 これはあまりにも「実態」とかけ離れた空想的な基準だろうか? 実現不可能だろうか? この基準は、将来しかるべき時に要求すべきもので、今は「全国一律1500円」で十分とすべきなのだろうか?
 そうではない。長時間労働によって手にする残業代で、ようやく確保できる「普通の生活」や、いくつも仕事を掛け持ちして、やっとのことで手に入る「最低限の生活」が、社会を支える労働者の「目標」であってはならない。2000万人が、「相対的貧困ライン」以下の収入で生活することを余儀なくされているのである。インフレの中で、日々の労働と生活に追われる「アンダークラス」の心に響く「生活賃金運動」が必要である。明日の食料を心配する人々に、「2035年までに1600~1900円程度」などとどうしていえるのだろう。働いて稼ぐ収入で「人間らしい生活」ができてこそ、働くことに「誇り」を持つことができる。必要なのは「貧困層の救済」ではない。胸を張れる賃金であり、趣味に打ち込む余暇であり、家族と共に過ごす週末である。
 「男性正社員の長時間労働」こそ、「男は外で働き女は家庭を守る」という「社会規範」を再生産し、働く女性の賃金を「家計の補助的収入」に押し下げ、「家事」という無償労働の負担を女性に一方的に担わせてきた社会構造の根源である。「雇用の重層的差別的構造」は、この社会構造と不可分一体であり、「男性正社員の時間給」と同等の賃金、「最低賃金2500円」を要求することは、ここに挑戦する闘いの第一歩である。
 中小企業や生産性の低いサービス産業には、本当に「賃上げの原資」がないのだろうか? グローバル企業と「価格転嫁」をすすめる大企業が莫大な収益を上げ、だぶついた「マネー」で「株価バブル」が膨張し、金融やハイテク、商社などで働く年収2000万の「パワーカップル」が、東京の「億ション」を購入している。上場企業は500兆円を超える「内部留保」をため込み、「個人金融資産」は2000兆円を超える。「賃上げの原資」は、個別の中小企業にはないが、社会全体にはあふれている。
 「企業別組合」の「個別の労使交渉」でこの構造を克服することはできない。「最低賃金2500円」を求める社会的運動が、「エッセンシャルワーカー」である「アンダークラス」を社会の前面に、街頭に、ピケットラインに登場させることによってこそ、この構造を破壊する可能性が開けるのである。それは、大資本の経済権力に対抗して、「壊れていく社会」を再生するこの階級の力を明らかにするだろう。

続く「低成長」、「好循環」はどこへ?

 日銀は、1月23日に開いた金融政策決定会合で大規模な金融緩和策の維持を決めた。同日公表した「経済・物価情勢の展望(展望リポート)」では、実質国内総生産(GDP)について、23年度を1・8%と前回(2・0%)から下方修正した。24年度は1・2%と前回(1・0%)から上方修正した。25年度は前回と同じ1・0%で据え置いた。


 
 「失われた30年」のGDP平均成長率は0・8%だった(1992年から2022年まで)(1992年から2022年まで)。1956年から73年のそれは、9・2%。74年から90年は4・1%である。日銀が予想する3年間の成長率は、過去30年間とさして変わらない。そして、消費者物価の上昇率はそれを上回り続ける(食料品等生活必需品の価格上昇率の実態とはあまりにも乖離しているが)。
 「物価上昇を上回る賃上げで、経済の好循環を」。政府も野党も、経団連も連合も、そして日銀も、口をそろえて今春闘での「物価上昇を上回る賃上げ」に期待している。可処分所得が増えて消費が拡大すれば、「賃金と物価の好循環」が生まれる。賃金が上がれば一層の「価格転嫁」(インフレ)が可能となり、利潤が拡大する。「好循環」とは新たな経済成長だ。適度なインフレ(2%?)とそれを上回る継続的な賃金上昇、消費の活性化、経済成長の継続・・・。しかし、この予定調和的な「好循環」に期待する日銀の「展望リポート」で、25年度の成長率はわずか「1%」だ。「デフレからの脱却」とは言い難い「展望」である。だから日銀は、「マイナス金利」を見直すとしても、「緩和的政策」は継続せざるを得ないだろう。
 GDP成長率の低空飛行は、利潤率の低迷を反映している。資本は、1970年代中期以降の長期にわたる停滞から脱することができていない。株価は「バブル」状態でも、実体経済は成長していない。「物価上昇を上回る賃上げ」が実現しても、それだけでは「新たな経済成長」は実現できない。
 自民党国会議員の「政治資金私物化と脱税」問題で、岸田政権は混迷の海を漂っているが、資本は必要な「改革」を強く求め続けている。24年から25年にかけて、「年金制度改革」や「消費税増税」が焦点になるだろう。
 経団連の十倉は新年のインタビューで、「社会保障制度を早期に改革すべきだ・・・医療や年金を含めた制度改革を政府に強く働きかけていく」と述べた。女性と高齢者の労働参加率の一層の引き上げが可能となる方向へ、制度改革が動き出すだろう。「国債」の利払い費が次第に増大していけば、「財政健全化」を口実に福祉関連予算をさらにカットするだろう。同時に、「働き方の多様化」を口実に、「偽装フリーランス」と副業・複業のギグワーカーをさらに大量に作り出すための労働法制改革も俎上に上るだろう。中小企業の「淘汰」と「労働移動」を促進するために、「雇用調整助成金の見直し」「解雇の金銭解決の制度化」「解雇保険の制度化」なども検討されるだろう。大資本は、さらなる「法人減税」を要求し、その穴埋めに消費税の増税を求めるだろう。大企業の設備投資や研究開発への補助金の大盤振る舞いと軍備拡大の費用を賄うためにも増税は避けて通れない。
 消費税増税のためには、「強力な政府」が必要だ。大資本と国会で「論戦」している政治家たちが、崩壊寸前の岸田政権に代わる政府をどのようにして作り出すのか。それは現時点ではわからない。左派労働運動は、「強力な政府」の出鼻をくじく「アンダークラス」の反撃を準備しなければならない。
1月30日

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