県内市町村の中国での戦争体験記を読む(96)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野座村の仲間さんは、1941(昭和16)年の徴兵検査、重機関銃隊への配備、満州への出兵、ソ連軍の捕虜となり3年間、シベリアでの強制労働に就いたのち帰還した経過を証言している。引用は原文通り、補充は〔 〕、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)
仲間徳栄
「私の戦争体験」
私は昭和十六(1941)年、名護国民学校において徴兵検査を受けました。結果は即日判明、甲種合格でした。司令官の前で「仲間徳栄、甲種合格」と報告したものです。検査の内容は、身長、体重、内診、梅毒検査がありました。徴兵検査は村内の同級生全員が受けました。
昭和十七(19421)年一月十日、佐賀県の西部第67部隊(歩兵重機関銃隊)に入隊することになり、同じ惣慶の翁長林亀、中山政一氏(仲栄真)と共に当時、金武村役場兵事主任の仲田勘市氏に引率されて行きました。……私たちは当初から満州へ行くことになっていました。惣慶の三人は部隊は一緒でしたが満州では別々になりました。……
昭和十七年四月、三か月の訓練を終えた後、満州国境守備隊要員として、門司を出港し釜山港に上陸しました。……同年七月に一等兵に進級しました。歩哨に立つには一等兵でなければならなかったのです。そこでは歩哨の外陣地構築などを行いました。……
昭和十九(1944)年三月、〔東北地区北部、黒竜江省の川〕嫩江(ノンジャン)の第242飛行大隊へ転属となりました。そこの飛行場は名古屋にあった飛行訓練場が移駐して来たものでした。そこでは飛行場の警備にあたりました。……
ソビエトは日ソ不可侵条約(1941年4月13日、日ソ間で相互の領土尊重、不可侵、中立を約束した条約=期限は五か年)があるにもかかわらず、一年の期限を残したまま昭和二十(1945)年八月九日、一方的に宣戦布告をしてきたのです。……
自首した元日本兵はあちらこちらから集められ収容所に収容されました。その後約一か月間、関東軍の食糧倉庫から、汽車へ食糧積みをさせられました。積み込まれた食糧はソ連へ送られました。それが終われば本国へ帰すといううわさがありました。いよいよ食糧積みが終わり、日本へ帰れると誰しも思っていました。ところが汽車に乗せられて着いた所が日本ではなくイルクーツクだったのです。……
イルクーツクでは第一収容所に収容されました。九月二十二日でした。そこの収容所では約二か年、れんが積み、丸太運び、雪解けになるとジャガイモ植え付けなどを行いました。約二千人の日本捕虜がそれに当たりました。……ものすごい寒冷地で零下三十度までは働き、それ以下は休みでした。栄養失調や事故での死亡者も出ました。……
私は三か年の強制収容の後、イルクーツクから汽車で三日ほどかかつてナホトカに着きました。……昭和二十三(1948)年九月三十日に京都の舞鶴にアメリカの船に乗って復員してきました。
(紙面の都合で、94、95を飛ばして、96を掲載しました。今後、沖縄報告の掲載のない場合も掲載の予定)
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