同志原田節を偲んで

5年8組の17回忌

 2009年4月2日、同志原田節さんが、最も愛した那須岳で雪崩により亡くなってから早くも17年が経過した。光陰矢の如しとは、まったくこのことだ。
 この遭難事故は同年1月に通いなれた那須岳山麓にある秘湯三斗小屋温泉へ向かう途中、凍死した番頭仲間Tさんを慰霊するために、明礬沢をつめて峰の茶屋方面へ向かう途中の出来事だった。
 この場所は、まず雪崩が起こらない場所。今思えば、文字通りありえない遭難だった。5人のパーティーのうち原田さんだけが、雪崩から脱出できず流されて雪に埋没。懸命の救出作業にも関わらず、帰らぬ人となった。享年五十九歳。後世を妻敦子さんとともに農業に懸けようと、東京から茨城県牛久に移り住んだ矢先のことだった。
 原田さんの遭難死を地元のラジオニュースで、いちばん初めに聴いたのは、たぶん私だと思う。原田節の節を読めずにアナウンサーが「はらだせつさんと読むのでしょうか」と報道するのを聴いて、これは原田さんに違いないと確信した。この事実をすぐさま新時代社に電話したことを昨日のことのように覚えている。
 そんな原田さんの霊を慰さめるため、彼をよく知る仲間4人が新宿に集まって17回忌をやることに決めた。うち3人はささやかながら15回忌、16回忌を行ってきたが、もうみんな前期高齢者になり、この先はもう集まることも難しいと結論づけ、彼を知る5年8組の仲間を中心に、17回忌開催の案内を出すことに決めた。
 5年8組とは、77年の三里塚5・8闘争被告たちを意味する。岩山大鉄塔が権力の不意打ちにより倒され、野戦病院の東山薫さんが機動隊によるガス銃の水平撃ちによって虐殺された。この権力の横暴に、支援、農民は怒りに燃え、機動隊と火炎瓶、鉄パイプを武器に対峙した。原田さんはこの闘争で逮捕されたが、東山さんの水平撃ちを目撃していたことから、被告の身で証人として証言台に立った。そしてその結果、機動隊の水平撃ちが死因だと断定されたのだ。
 ここに一枚の写真が残されている。茨城県の仲間にお願いして送ってもらったものだ。写真には、「共青同」と染め抜かれた旗と、まだ若かった原田同志(写真中央下)とその仲間たち。そして、そこには私の姿もあった。遠い記憶をたどれば、たぶん茨城県の袋田で開催した「栃木・茨城反戦青年サマーキャンプ」のひとコマであると思う。今から四半世紀も昔、彼が三十五歳、私が二十四歳ごろのことだ。
 その後、彼は東京へ戻り、柘植書房の編集者など出版関連の仕事に携わり、電子部品、エコ関連会社を経て、農業に生活の場を見いだした。柘植書房以後は会う機会も少なくなったが、何かの集まりがあるたび、その活躍ぶりが話題に上り、「いつでもどこでも、奴らしく元気にやっているんだな」と微笑んだものだ。
 17回忌は、いま名古屋に住む敦子さんも駆けつけ水道橋の中華料理屋で、賑やかに行われた。開催日まで短期間の呼びかけだったが、18人が集まった。そこには、現役のメンバーをはじめ原田さんを知る仲間が集まり、酒を酌み交わしながらそれぞれが、かつての思い出を語り合った。このグループホームはいつまで続くだろう。17回忌と言わずに、原田さんを摘まみに後期高齢者になってもこの会を続けていきたいものだ。        (雨)

前列右から2番目が原田節同志

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