県内市町村の中国での戦争体験記を読む(94)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野座村(ぎのざそん)の仲吉さんは、1943(昭和18)年、青年学校長の勧めで満蒙開拓青少年義勇軍に入り戦後帰還するまでの体験を証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。

『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)

仲吉幸雄
「青年学校から満蒙開拓青少年義勇軍へ」

 私は、昭和十六年(1941)三月に、宜野座尋常高等小学校の高等科を卒業しました。卒業後、四月からは宜野座国民学校と改められ、昼間は学校の小使いをしながら、金武の青年学校へ一週間に一、二回程通っていました。
 当時、宜野座からの青年学校生は徒歩で金武(きん)まで通っていましたが、午後から授業があったと覚えています。宜野座国民学校の小使いの給料は八円でした。小使いの仕事は、主に先生方の世話をすることで、お茶くみをしたり、また、学校近くのハイカーという所から、学校の飲み水をくんできて、学校の水かめを一杯にしました。水道もない頃ですから、坂道の登り降りしての水くみの仕事は難儀でした。……
 私の父、仲吉亀七はフィリピンのミンダナオ島に昭和十二(1937)年に移民しており、お盆や正月の時には、100円の仕送りがありました。しかし、当時はどこもそうですが、家族が多く、農業だけでの生活はたいへんでした。
 昭和十八(1943)年三月、当時、金武青年学校校長の宜野座清英先生から、私に満蒙開拓青少年義勇軍へ入隊を勧める話がありました。茨城県の内原にその訓練所があって、そこへ行くよう勧められました。その頃、私は一度は外地に出たいと夢を抱いていたので、行くことにしました。宜野座先生の話では、そこで訓練を受けて満州へ行けば、十町歩(約三万坪)の耕地が移住者に割り当てされるとの事でした。
 昭和十八年四月、家族に見送られて、漢那から歩いて金武まで行き、金武からバスに乗って那覇に行きました。その時の旅費はすべて県費で金武村からは私一人でした。私たちは県庁の職員に引率されて、那覇港から鹿児島へ行き、そこから汽車で東京に行きました。さらに、東京から汽車で二時間かかって茨城県の内原訓練所へ行きました。そこには全国から、十六歳ぐらいの青年たちがきており、共同の訓練生活が始まりました。そこでは地方ごとに隊編成がなされ、私は第30中隊(隊員300人)に編入されました。その中隊は、熊本県、長崎県、佐賀県、沖縄県の四か県からの青年たちで編成され、沖縄県からは55人の青年が来ていました。宿舎は日輪兵舎といって円形の二階建ての造りで、60人の隊員がそこで寝起きしました。食事もそこで当番制で作りましたが、ごはん、みそ汁、つけ物といった簡単なものでした。
 しかし、内原での訓練は時代が時代だけに、軍事訓練と農家の勤労奉仕が主だったと思います。寒い満州国へ行くための体の鍛錬と軍事訓練、そして北海道の農家へ行き、そこで小麦などの収穫の勤労奉仕などを行ないました。内原訓練所には約一年間いました。
 昭和十九(1944)年三月、内原訓練所での訓練を終え、ほとんどの訓練生は満州国へ渡って行きました。茨城県から福岡県へ行き、博多港から朝鮮の釜山(プサン)港に船で渡り、釜山からは汽車の旅でした。ピョンヤン、ハルピン、吉林を経て、浜江〔ビンジャン〕省珠江県一面波の義勇隊訓練所に入隊しました。道中、汽車の窓からまわりを見渡しながら、実に広大な所へ来たなあーと実感しました。
 満州へ来てからも、内原訓練所と同じく、共同生活が待っていました。そこではもっぱら農業に従事していました。そこで三か年辛抱できたら、念願の十町歩の耕地が割り当てされると期待して、来る日も来る日も精一杯がんばりました。初春とはいえ、満州の寒さは骨身にこたえました。そこでは主に、トウモロコシと家畜飼料のコーリャンを栽培しました。満州では、四月から十月までしか農業ができず、十月から三月まではきびしい寒さなので、その農閑期を利用して軍事訓練がありました。あまりの寒さに何度沖縄へ帰ろうと思ったか知れません。
 昭和二十(1945)年の初め頃、徴兵検査の通知が届き、ハルピンで徴兵検査を受け、第一乙種合格でした。年齢繰り下げの検査だったと思います。徴兵検査後、すぐに黒龍江省の孫呉〔スンウー〕にあった関東軍の上西中隊に入隊しました。その中隊はトラックで各部隊への軍需物資の輸送が主な任務でした。孫呉はソ満国境寄りの町で、双眼鏡でソ連軍の動きが見える程、ソ連に近い国境の町でした。
 昭和二十年六月頃、どういう訳か、部隊の移動があって、満州から福岡県博多を経て、佐賀県の桃川という村にあった原隊に戻ってきました。結局、終戦を満州ではなく、日本で迎えることができたのは幸運だったと思います。しかし、沖縄は玉砕になったという事を聞き、非常にショックを受けました。……

【訂正とおわび】前号(4月1日号)5面、東京・荒川で恒例の反戦集会の記事、講演の3段目右から4行目「10月7日に考えた最悪の辞退、それは核兵器を使うことだ。核兵器は砂漠ではその威力が数倍し効率的に被害をもたらす」を「10月7日に考えた最悪の事態、それは核兵器を使うことだ。砂漠が多いせいで人口が都市部に集中。核兵器の威力が数倍し効率的に被害をもたらす」に、講演の5段目左から10行目「国連は、国際社会の権力関係の繁栄の産物である」の「繁栄」を「反映」に、6段目左から4行目、「共生を拒むもの「敵」を見定め」の「もの」を削除し、訂正します。3月25日号、4面沖縄報告の上段の写真は違う写真で間違っていました。おわぴします。HPには正しい写真を掲載しています。

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