対中戦争の前線基地として急速に強化される沖縄

独断・専横の岸田自公政権を全国の力で退陣させよう!

沖縄報告 4月8日

沖縄 沖本裕司

 4月6日(土)は、大浦湾の埋立工事現場が眼前に見渡せる瀬嵩の浜で、「民意・自治・尊厳を守り抜く沖縄県民大集会」(主催=オール沖縄会議)が3000人を集めて開催される予定であった。ところが前日、沖縄気象台から悪天候予測(大雨・雷と竜巻の可能性)が発表されたため、残念ながら急きょ中止と決まった。
 しばらくぶりの現地での3000人集会とあって、各地の島ぐるみをはじめ各団体は、大型バスなどを予約し参加を熱心に呼びかけて取り組みを進め、いよいよ明日、どれ程の規模とエネルギーの結集となるか!と気持ちが高まっていたところだった。実際、気象台の予報通り、前夜から断続的に雨が降り続いた。渇水が続く沖縄には少なからず恵みの雨となったようだ。仕切り直しの集会は日時を改めて近々開かれる予定だ。辺野古新基地建設NO!大浦湾埋め立てSTOP!の大結集を実現しよう!

陸自ミサイル連隊・電子作戦隊の配備

 3月下旬から4月上旬にかけて、基地沖縄の強化をめぐる動きはすさまじい勢いで進んできた。3月21日、陸自勝連分屯地に、「12(ひとにい)式地対艦誘導弾」を装備した第7地対艦ミサイル連隊の本部と一個中隊が発足し、勝連分屯地の定数はこれまでの90人から一挙に290人に増えた。勝連の連隊本部は、石垣、宮古、奄美、そして勝連の四つのミサイル中隊を統括する。「ミサイル配備から命を守るうるま市民の会」は当日、勝連分屯地ゲート前で抗議集会を開くなど、「戦争につながるミサイルいらない」と声をあげ続けている。
 陸自与那国駐屯地には、新たに40人の電子作戦隊が配備され、陸自定員は210人に増えた。電波情報の収集や妨害電波の発生を任務とする陸自電子作戦隊は、一昨年、朝霞駐屯地を本部に発足し、北海道から新潟、鳥取、対馬、長崎、熊本、鹿児島、奄美、沖縄まで、全国各地に配備されている。沖縄はすでに那覇駐屯地、知念分屯地に配備済で、2024年度には宮古島駐屯地にも配備される計画だ。奄美・琉球列島は、沖縄島(八重瀬に連隊本部、知念、白川、勝連、南与座に中隊)はじめ各島の地対空ミサイル部隊、長射程化が進行中の地対艦ミサイル部隊、さらに電子戦部隊が連携し配備される。
 4月1日、岸田内閣は、自衛隊や海上保安庁の利用を前提に特定の空港や港湾を優先的に整備する「特定利用空港・港湾」に、全国5空港11港湾を選び、2024年度の整備費として約370億円を計上することを閣議決定した。今回、沖縄では那覇空港(国管理)と石垣港(石垣市管理)の二カ所が選定されたが、日本政府は候補として、石垣・宮古・下地島・久米島・波照間・与那国の各空港、那覇・中城・平良(ひらら)・与那国新港の各港湾を指定している。まさしく「有事」への軍事的備えであり、米軍との共同利用が想定されている。12万人避難計画・シェルター建設という「住民保護」を口実とした戦争準備と軍備増強が与那国・石垣・那覇などの首長を取り込んで進められている。住民避難に関する政府のモデルケースの概要が最近明らかになった。それは多良間村である。住民約1000人を二日間で熊本県八代市に輸送、約一カ月間受け入れるという内容だ。こういう形で、沖縄を戦場にする軍事政策の外堀が少しずつ埋められていくのである。あたかも沖縄戦の悲劇が忘れさられたかのように。
 こうして、国会では自民党の裏金問題が議論され大きく報道される間に、南西諸島・琉球列島を対中戦争の前線基地とした日本の軍事化が急速にかつ着々と進んでいる。岸田自公政権の独断・専横にはとどまるところがない。

陸自訓練場新設・大浦湾埋立を断念しない岸田

 うるま市石川の陸自訓練場新設計画を巡っては、木原防衛相が4月2日、衆院安全保障委員会での屋良朝博さん(沖縄3区)への答弁で、「細長い敷地の中で、県立石川青少年の家に近い区域を住民にも開放する“交流の場”にしそれ以外の土地を訓練場にするという案がある」と述べた。地域ぐるみの猛反対に直面してもなお、旧東山(あがりやま)カントリークラブ跡地の取得を諦めていない。しつこい人たちだ。実際、沖縄での自衛隊基地の新設・拡張には、宮古でも石垣でもゴルフ場跡地が利用されてきた。用地買収が手っ取り早いからだ。防衛省は、石川での用地取得がどうしても困難になれば、陸自訓練場の新設を諦めるのではなく、別の経営不振のゴルフ場の買収に乗り出すに違いない。
 また、大浦湾埋め立ての捨て石・土砂について、沖縄防衛局は4月1日から、国頭村半地の奥間鉱山からも辺野古への搬入を始めた。次に狙われるのは南部である。平和創造の森公園の東京の塔や有川中将などの慰霊碑に隣接する熊野鉱山の採掘は進み、鉱山道路もできて、搬出が迫っていることを示している。南部の戦跡公園の破壊と辺野古への砕石搬出を止めなければならない。

 台湾花蓮市で起こった大地震に対し被災者救援に即座に取り組んだ台湾政府に比べて「日本でどうしてできないのか」とテレビのワイドショーでも話題にされたように、日本の政治の「後進性」が様々に明らかになってきている。自公政権を支える政治家・官僚たちはそもそも国民を第一に考える政治をしようとしていない。日本は歴史的に、国民の命と権利を最優先するという価値観を全社会的に共有したことがない。憲法に明記されている「主権在民」「国民主権」は絵に描いた餅。米国・米軍に迎合し軍需産業・原発産業など大資本の利益を守り国民の命と生活を危険にさらし続けている自公政権に終止符を打つことがすべての始まりだ。新しい日本の形の模索はそこから始まる。

世界三階級制覇の中谷選手がチビチリガマ訪問

 フライ級、スーパーフライ級、バンタム級の世界タイトル三階級を制覇した中谷潤人選手をご存じだろうか。琉球新報(2024年4月5日)によると、彼は、2012年5月、三重県の東員(とういん)第二中3年生の時の修学旅行で、読谷村のチビチリガマを訪れた。地元のガイドの方から沖縄戦とチビチリガマの惨劇の話を聞いて、「命こそ宝という言葉に心を打たれた」「命を投げ出さざるを得なかった人たちがいる中で、今こうして生かしてもらっていることに感謝しないといけないと強く感じた」という。4月4日、中谷さんは家族と共にチビチリガマを訪れて当時のガイドの方と再会し、三階級制覇を報告した。
 チビチリガマでは、85人が「集団自決」(強制集団死)に追いやられた4月2日前後に毎年、慰霊祭を行なっている。今年も4月5日に、遺族会の方々や知花昌一さん、金城実さんらが出席して戦後79年の慰霊祭が行われた。読谷村文化財に指定されているチビチリガマは、人の命を顧みない天皇制教育・軍国主義教育の誤りを告発し続けている。機会があればぜひ、チビチリガマをはじめ、恨之碑、掩体壕、シムクガマなど村内の戦争遺跡に足を運ばれたい。
 チビチリガマについては、長い沈黙を経て、当時の地元の若者と共に体験者の証言を掘り起こしていった下嶋哲朗さんの労作がある。それは次の二冊だ。『南風の吹く日―沖縄読谷村集団自決』(童心社、1984年)、『生き残る―沖縄・チビチリガマの戦争』(晶文社、1991年)

ジュゴンが琉球列島の広範囲に生息している

 嬉しいニュースもある。県環境科学センター総合研究所と龍谷大学先端理工学部の研究チームは、4月5日、一個体が今帰仁村で死んで見つかった2019年以降に沖縄周辺では絶滅した可能性が高いと考えられていたジュゴンが「沖縄本島や宮古島諸島、八重山諸島など琉球列島の広い範囲で生息している可能性がある」との研究論文を発表した。新報、タイムス両紙が報道した。
 国際オンライン専門誌『Scientific Reports』に掲載された研究論文は、2019年9月26日付のドローンによる伊良部島沿岸でのジュゴンとみられる写真も添付している。また、名護市久志と宮古島などで採取されたフンからDNAが検出され、母子と思われる個体の遊泳も確認されており、現在もジュゴンが繁殖していると推察している。調査を統括した研究所の小澤宏之所長は「餌場となる海草藻場の保全に取り組んでいく必要がある」と語った。
 「ジュゴンは絶滅した」とイギリスの科学誌に投稿したり、「辺野古で確認されていないので調査は縮小していい」などと「助言」したりした防衛省の御用学者たちは恥を知るべきだ。研究者としての良心をうしない国家権力に追従するくらいなら、むしろ沈黙せよ!
 ジュゴンが再び辺野古・大浦湾の海域に戻ってくることができるように、大浦湾の埋立工事を中止し、辺野古新基地建設を白紙撤回させなければならない。それが次の時代の希望になる。

沖縄県の地域独自外交のさらなる発展へ

 沖縄県の池田竹洲副知事は、済州道の4・3平和公園で開催された「済州4・3犠牲者追悼式」(韓国政府行政安全部、済州特別自治道主催)に、沖縄県幹部として初めて参列した。済州道の呉怜勲(オ・ヨンフン)知事とも会談した。両者は「沖縄と済州が協力して東アジアの平和と安定に寄与したい」と話し合ったという。昨年6月23日の沖縄全戦没者追悼式には、済州4・3平和財団の理事長らが参列した。沖縄県は、済州道が呼びかける都市間ネットワーク「グローバル平和都市連帯」に加盟し、今後、共に平和交流を推進する考えだ。
 沖縄県は3月末、「沖縄県地域外交基本方針」に対するパブリックコメントの結果を発表した(地域外交室HP)。それによると、期間内に116件の意見が寄せられ、県の考え方が個別に添えられている。私も「策定に向けた考え方」「戦略・取組」の章で、簡単にまとめていくつか意見を提出したが、核心的な点は、沖縄が「21世紀の万国津梁」になるためには、世界的にも類を見ない基地の島の非軍事化・非武装化が求められる、ということにある。日本は、そして沖縄は決して、再び中国・アジアに対して武器を向けるようなことをしてはならないのだ。沖縄県の地域外交は、アジアにおける中国・台湾・韓国・朝鮮との軍事力によらない共存共栄の平和外交と共に、軍事基地と武器の塊となってしまっている沖縄の現状打破のために辺野古新基地ストップ・自衛隊ミサイル基地反対などを同時に進めていかなければならない。

2024.3.27 本部塩川港での牛歩行動。辺野古への土砂を少しでも遅らせる。

2024.4.2 島ぐるみ八重瀬の火曜日朝の定例スタンディング。

2024.3.30 熊野鉱山。石灰岩の採掘が進み搬出のための道路が整備された。


県内市町村の中国での戦争体験記を読む(101)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する北谷町の与儀さんは、1940年に満州に派兵されて満期になり現地除隊になるまでの軍隊生活や沖縄航路の船が米潜水艦の攻撃を受けた有様などを詳しく証言している。引用は原文通り、補充は〔 〕、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。( )は元々のもの。

『戦時体験記録 北谷町』(1995年)
 与儀正喜
「除隊後嘉義丸で遭難」

 徴兵検査は昭和十四〔1939〕年に受けた。昭和十五〔1940〕年の二月には、久留米の12師団18連隊に現役入隊した。……
 入隊してすぐ、軍服やいろんな物資を支給され、二日目には満州に出発した。満州には二月二十日に着いた。そこで、鉄砲の撃ち方、敬礼のやり方、脚絆の巻き方などの教育訓練を受けて、後は警備に就いた。三年余りいたと思う。……
 満州は物資が豊富だった。肉は倉庫にいくらでもあったし、魚もたくさんあったので、毎日ご馳走だった。ソ連と戦争するために、満州には「関東軍」という第一線部隊がきていた。現役のバリバリで優秀な兵隊ばかりが関東軍にいた。
 昭和十六〔1941〕年だったと思うが、当時の外相松岡洋右という人が日ソ中立条約を締結した。ソ連とはもう戦争はしないということになったので、兵隊はボツボツ支那とかフィリピンに派遣された。
 私は実戦には一度も出なかった。……私たちがいた所は満鉄(南満州鉄道)の終点だったから、ソ連兵が兵舎から演習に出て行くのが肉眼でも見えた。当時ソ連はドイツ軍と戦争をして、食料も底をついていたようだ。兵隊はたくさんいたが、よくソ連の兵隊が満州側に逃げ込んできた。日本軍は、その人たちを捕虜にして使っていた。
 満州の冬はものすごく寒かった。零下44度から50度ぐらいまで下がった。防寒具は軍から支給があった。道路も凍って、馬も滑って歩けなかった。だから、冬は馬蹄の鉄をスパイクの歯のようにしてつくっていた。ソ連と満州の間には、ものすごく大きな川が流れている。150メートルから200メートルぐらいの川幅だが、冬になるとそこも凍ったので、石炭を満載したトラックもどんどん通った。……
 沖縄からも、恩納村とか島尻方面から移民でだいぶ来ていた。そこは、米をつくっても駄目だし、芋をつくってもヒゲイモばかりだった。できるのは、大豆、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、コーリャン、スイカ、メロンなどだった。作物をつくっても、車はないしバスも通らないから売りに行くこともできない。だから、田舎では食料はあっても金はなかったはずだ。戦争に追われて逃げるとき、その人たちは大変だったと思う。……
 泥棒を教えるのも軍隊だった。軍服とかは支給品だった。交換日があって、古くなったら交換はしてくれるが、よっぽど悪くなった物しか交換してくれなかった。それで、新品を支給された初年兵が入隊してくると、それを盗む者がいた。軍服には墨などで記名するのを禁じていた。だから、糸で印をつけたり、布に名前を書いて縫い付けた。そんなのはすぐ外せるから、盗みが横行した。
 持ち物検査は中隊全員がいっせいに受ける。そのときに、盗まれて数が足りない場合でも軍隊では理由にならなかった。洗濯をして干して、演習に行っている間に盗まれるんだが、本人の不注意といって、営倉(旧軍隊で罪を犯した軍人を入れた兵営内の建物)入りとなった。だから、営倉入りを免れるためには、盗んででも揃えなければならなかった。営倉は軽い罪の者を一週間ぐらい入れたが、その間は塩をつけたニギリメシだけだった。
 鉄砲でも剣でも全部記録があった。どこからどこに、どれぐらい離れて傷があるとか、細かい記録だった。鉄砲にも剣にも番号があったから、全部照合しながら調べていた。検査で新しい傷が見つかると、いつ傷つけたんだと尋問された。すぐ営倉入りだった。わざと傷つけたんではなくて、演習で傷つけたものでも、日本の軍隊では通用しなかった。
 また、実弾演習後の薬莢の殻は返さないといけなかった。だから、演習で一個でも失くしたら、その中隊全員で薬莢の殻を探しに行かされた。とても厳しかった。
 兵役満期になり、照屋正光さんと一緒に現地除隊した。彼は満鉄に、私は航空会社に入った。私は奉天〔現在の瀋陽〕に、彼は新京〔現在の長春〕に行ったと思う。……
 私は満州から「戦争が激しくなるから家族に面会してきなさい」と、いったん帰された。沖縄への船がなかなか出なかったので、約一か月ほど内地にいた。やっと船の切符を買って神戸港から沖縄へ向かった。……
 私が乗船したのは「嘉義丸」という一番古い船だった。2400トンの、その頃では大きな船だったが、スピードは出なかった。そんな船でも400名余りも乗っていると聞いた。
 当時戦況は悪化していた。沖縄航路は、客船も貨物船も一か所に集まって船団を組んで航海した。船団には護衛艦も2隻ついて来た。島陰に隠れて航海しながら、大島灘付近にさしかかった時(昭和18年5月26日)、船は敵潜水艦の魚雷を2発受けた。1発はボイラーに当たり、石炭が真黒く飛び散った。もう1発は荷物を積んだ所に当たり、柳行李の屑がいっぱい浮いていた。一瞬にして、船内は阿鼻叫喚の地獄と化した。……
 幸い、漁から帰る途中の漁船が通りかかったので、私はそのポンポン船に助けられた。救助された後、奄美大島に十四、五日か二十日ぐらい滞在した。助かった人はほんのわずかだった。その船には、沖縄へ向かう兵隊も相当乗っていたが、全員死んだと思う。奄美大島では兵隊は一人も見かけなかった。それから、何とか沖縄に着いて家族と再会した。
 また満州に渡るために沖縄を出て、下関、門司まで行った。その朝、朝鮮に向かった連絡船がやられた。もう船はないから新潟回りにしようと思って、途中東京の兄の所に寄った。兄に「どこで働いても同じだから、行くな」と止められた。
 「こういう理由で船もないから、満州へ行くことができないので、日本の軍需工場で働きます」という内容の手紙を出して、本土で働くことにした。そのとき満州に行っていたら、死んでいたと思う。

週刊かけはし

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