木原防衛相が用地取得取りやめを表明

県民ぐるみの力で陸自訓練場新設を断念させた!

沖縄報告 4月14日

沖縄 沖本裕司

 日本政府は、4月11日夕、木原防衛相が臨時記者会見を開いて、うるま市石川の旧ゴルフ場跡地に陸自訓練場を新設することを断念したと正式に発表した。木原は、「住民生活と調和しながら訓練の必要性を十分に満たすことは不可能」と述べ、「地元の皆さまにお詫び申し上げる」と謝罪した。地域ぐるみの猛反発により陸自訓練場新設撤回に追い込まれた無念さがありありと見てとれた。地元はじめ県民は喜び安堵した。

急速に盛り上がった住民運動

 うるま市石川のゴルフ場(東山カントリークラブ)跡地に陸自訓練場を新設する計画は、昨年12月、突如として持ちあがった。12月22日の閣議で決定された今年度予算案に、訓練場用地約20ヘクタールの買収費が盛り込まれていたのだ。陸自第15旅団の師団化に伴う人員増強に対応するミサイル部隊の展開訓練、迫撃砲の取り扱い訓練、夜間の行進・偵察、警戒・警備などを想定し、2025年度の調査設計、2026年度の工事着工の予定とした。岸田が、戦後軍事外交政策の大転換を意味する安保三文書を内閣の独断で決めたのと同じように、木原をはじめ防衛省の職員たちは、「上意下達」が当然とばかり、地元には何の連絡や相談もなく、閑静な住宅地に近く、学びの森として多くの子どもたちが利用する青少年の家に隣接する訓練場建設という国策を押し付けようとしたのである。
 地元の旭区をはじめ、周辺4区や旧石川地区全体に反対の動きが急速に拡大した。防衛省は「実弾・空包、照明・発煙筒は使用しない。ヘリは緊急時を除いて飛行しない」と説明し、反対運動の鎮静化に躍起となったが、効果はなかった。逆に、反対の声はさらに大きく広がった。地元の保革を越えた「断念を求める会」が結成に向けて動き出した。玉城デニー知事は木原防衛相と県庁で会談し、計画の白紙撤回を要請した。「国の専管事項」と言っていたうるま市の中村市長も沖縄防衛局に白紙撤回を要請した。県議会が白紙撤回を求める意見書を全会一致で採択した。自民党県連も白紙撤回の要請をした。うるま市議会が計画断念を求める意見書を全会一致で採択した。3月20日にはうるま市石川会館で、「住宅地への自衛隊訓練場建設NO!市民集会」が開かれ、市内外から会場をあふれる1200人が結集した。そして代表が上京し、決議文と断念を求める署名を防衛省に提出した。中城村議会、八重瀬町議会、南風原町議会が相次いで、計画断念を求める意見書を全会一致で可決した。
 それでも、木原は「計画の白紙撤回はしない」と言い続けた。4月2日の衆院安全保障委員会の答弁で、「細長い敷地の中で、青少年の家に近い区域を住民にも開放する“交流の場”にしそれ以外の土地を訓練場として使わせてもらうなど検討をしている」と述べた。人々は、「土地を取得してしまえば、その後は中身を変えてくる」と、あくまで用地取得の断念、計画の白紙撤回を求め続けた。土地所有者も防衛局には売らないとの態度を明らかにした。万事休す。防衛省には用地取得断念・訓練場計画白紙撤回以外に残された道はなかった。
 
過去に成功した住民運動の例

 記者会見で、訓練場計画の白紙撤回と地元への謝罪を述べた木原は、「うるま市長や自民党県連からの要請を受けた結果、計画を取りやめる」と繕ったが、地元を中心に燃え上がった大衆運動の力が、岸田内閣の傲慢な強行策を阻止したことは明らかだ。団結こそ力。玉城知事は「賢明な判断。ほとんどの住民が反対していたことが要因」と述べた。地元二紙も翌日の社説で、「過重な基地負担を負っている沖縄にこれ以上の施設整備は断念すべし」(新報)、「建設ありきで民意の支持を得られない辺野古の工事も中止すべき」(タイムス)などと主張した。
 沖縄の戦後の歴史で、住民運動の盛り上がりによって、米軍の軍事政策を阻止した例がいくつかある。1970年、国頭村安田の実弾射撃演習を阻止した伊部岳闘争、県道104号線越えの実弾訓練を中止に追い込んだ喜瀬武原闘争、1987年、国頭村安波のハリアーパッド建設阻止、1989年、恩納村のキャンプ・ハンセン内都市型訓練施設での訓練中止、2003~5年、金武町伊芸区での都市型訓練施設の建設場所の変更など。さらに、米軍占領下で米軍政の横暴に対峙し一つひとつ自治を勝ち取り本土復帰を実現したのも壮大な住民闘争の高揚によるということもできる。
 
沖縄のどこにも陸自訓練場はいらない

 日本政府は陸自訓練場の新設・拡充を諦めていない。木原は、4月12日の閣議後の会見で、「周辺環境に慎重かつ十分に配慮して検討することで、住民生活と調和することは可能」と述べた。自衛隊基地の新設・拡充には、今回の石川だけでなく、宮古でも石垣でも、ゴルフ場跡地が利用されてきた。用地買収が手っ取り早いからだ。石川から撤退した防衛省は、別のゴルフ場の買収に乗り出すに違いない。
 南部の糸満・八重瀬にまたがる八重瀬岳・与座岳には、陸自二カ所、空自一カ所の自衛隊基地があり、周辺には、ゴルフ場が三カ所ある。防衛省が目を付けない筈がない。  
 また、この地域は、辺野古・大浦湾の埋立で大量の砕石・土砂の搬出が計画されている地域でもある。この地域は、10万人以上の住民が激しい沖縄戦で命を失ない、慰霊と鎮魂のために沖縄戦跡公園に指定された場所なのだ。住宅地から離れているからといって、このような場所に、陸自訓練場を造ってはならない。沖縄のどこにも自衛隊基地の新設・拡充をしていいところはない。防衛省は沖縄における自衛隊増強そのものを断念せよ!

陸自八重瀬分屯地(2022.11.12)

陸自南与座分屯地(2022.11.15)

2022.11.12 空自与座岳分屯基地

空自与座岳分屯基地(2022.11.12)

2022.11.12 米軍により強制収容されたの血に建てられた八重瀬町富盛集落の御嶽。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(97)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 今号で紹介する宜野座村の平識さんは、1943年の徴兵検査から翌44年の台湾出兵、敗戦と帰還に至るまでの台湾での生活を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)

平識善福
「台湾軍入隊から帰還まで」

 私は進学のため二か年間徴兵延期となり、昭和十八(1943)年三月に青年学校教育養成所本科を卒業し、中頭郡西原青年学校教諭として赴任しました。同年六月の徴兵検査の結果、甲種合格となり日本男子として最高の栄誉だと職場の先輩から特配の泡盛で祝福を受け激励されました。……
 昭和十八年の暮れに入隊通知が来て昭和十九(1944)年二月十日、台湾軍歩兵第3部隊(台北)に入隊することになりました。日本の周辺は、陸海空総力をあげての警備体制下にあるとはいっても、米軍の反撃は太平洋を挟んでじわりじわり迫っており、私たちの出発の日時も極秘にされていました。入隊のための集合期日は二月十日でしたが、入隊期日より十日も遅れての出発となりました。……
 昭和十九年二月十九日、同期の入隊式より九日間も遅れたので、私たち沖縄県出身のみの入隊式を終え、それぞれの中隊に配属されました。……
 昭和二十(1945)年七月頃のある日のこと、いつもは私のところに回ってくる回報が来ないので、係の松原軍曹に確かめさせたところ、なんと、「要注意沖縄出身将兵」という方面軍からの極秘文書であることがわかりました。それは、「沖縄戦において沖縄の指導者がスパイ行為をしているので、沖縄県出身者は要注意」というもので、その時の屈辱感と不愉快さが今でも思い出されます。二、三日後、知本温泉で将校の集まりがあり、某中尉の暴言から私が腹を立て日本刀で斬りつけようと大暴れをしたことがありました。同僚がいなければ今日の自分はなかったのではとヒヤッとすることがあります。翌日、お互いにわびを入れ一応収まったのでした。
 昭和二十年八月一日付で陸軍少尉に任官しました。入隊以前からの願望がかなえられ、上官の方々から祝いと激励を受けたことは生涯忘れられません。……
 翌十六日の朝早く、いたましいニュースが入ってきました。それは、昭和十九年から徴兵された台湾出身の一等兵某が自分の銃剣で自殺したというのです。日本国軍として忠誠を誓って改姓までした自分たち台湾人は、日本の敗戦によってどうなるか、おそらく同じ台湾人からしいたげられるにちがいない、自分は最後まで日本国と運命をともにしたい、と書き残して自殺したというのです。……
 昭和二十一(1946)年二月二十二日、沖縄出身者陸海軍人は帰還のため基隆港に集結せよ、という連絡がありました。私たち帰還希望の沖縄県出身兵は、基隆の双葉国民学校に集結し、独立混成第32連隊(工藤大佐)に編入されました。そのころ、人数は二千名近くに達し基隆国民学校など二か所に収容され、後に瀧川国民学校に移転しました。帰還を目的に集まって来たものの、帰還どころではありませんでした。毎日、市内のドブさらいや爆撃で崩れたれんがの整理、港に入ってくる船舶への石炭積み込み作業、そのほか中国軍司令部からの要請で日本製兵器の取り扱い指導のための兵の派遣などを行っていました。……
 基隆に集結した沖縄出身兵の大半は現地除隊を行い、内地や宮古・八重山へ引き揚げて行きました。残る約八百名の沖縄部隊は、基隆乗船地司令部(中国軍)の命令によって、内地部隊から日僑引き揚げ作業を引き継ぐことになりました。……ついで部隊の名称は「琉球籍官兵集訓大隊」となり、昭和二十一年七月十五日、中国軍総司令部の林大将の巡視を受けました。……
 民国三十三年(昭和二十一)九月三日から総司令部の命令で教育が実施され、毎日二時間、琉球史・中国語・英語・三民主義・中国国民党史などの学術講話や時事解説が行われました。何時帰還できるか不安もあったが、時間つぶしという事と、食料や副食費支給などで総司令部と日僑管理委員会の世話にもなっていることだし、もっともらしく受講していました。……
 十二月二十四日午後五時、基隆港を出港し、三年九か月を過ごした台湾に別れを告げ、一路我が故郷へ向かいました。……

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