4・14瀬嵩の浜県民大集会に1800人
無謀な大浦湾埋立を中止し 辺野古新基地建設を断念せよ
沖縄 沖本裕司 5月5日
大浦湾埋立ストップを
4月14日(日)午前、大浦湾の埋立工事現場が一望できる瀬嵩の浜で、オール沖縄会議主催による「民意・自治・尊厳を守り抜く沖縄県民大集会」が開催された。4月の日曜日とあって、門中のシーミー(清明祭)が予定され、朝から雨が降ったり止んだりのあいにくの空模様であったが、全県各地からマイクロバスや自家用車で続々と集まった。全国各地からも仲間たちが駆け付け、合わせて1800人が結集した。
瀬嵩の浜での県民大集会は元々、4月6日(土)に3000人規模で予定されていた。ところが、前日、沖縄気象台が悪天候予測(大雨・雷注意報)を発表したため、急きょ延期となり、この日の開催となったものである。結集具合が心配されたが、大浦湾埋立ストップ!辺野古新基地断念!を求める大勢の熱気が浜を埋め尽くした。あちこちに子ども連れの姿も見える。
玉城デニー知事“新基地を造らせないことは未来への責任”
われわれ南部のバスが1時間半から2時間かけて現場に着くころには、すでに、会場周辺にはノボリやプラカードを手にして各地から集まり、海上ではカヌーチームと抗議船が整然と横幕を掲げアピール行動を行なっていた。雨が降る中、11時にスタートした集会の司会は、県議の島袋恵祐さん(沖縄市区)。はじめに、糸数慶子さんがあいさつに立ち、「岸田はアメリカに何をしに行ったのか。政府による基地押し付けを民衆の抵抗ではね返そう」と述べた。
続いて登壇した玉城デニー知事は、「今日はシーミー。ご先祖様見守ってください。新基地を造らせない、沖縄を戦場にさせないことは未来への責任。新たな自衛隊基地にも反対だ。全国には沖縄を応援してくれる知事もいる。力を合わせて頑張りぬこう」と訴え、大きな拍手・歓声を浴びた。
徳田教授は「法やルールは運動によってもつくられる。辺野古裁判の不十分な点を補っていくのは県の条例だ。そのためにも来る県議選が大事。国に追随する候補者を選ばないことが、沖縄の将来に重要。主権者の私たちが力を示そう」と語った。
総がかり行動実行委員会の藤本泰成さんは電話で参加し、「岸田のアメリカ議会演説は最低の演説だった。米国追随の政治にNO! 全国の力で辺野古を止めよう」と力強いエールをおくった。
カヌーチーム“ユイマールの力で辺野古を止めよう”
ヘリ基地反対協からは、カヌーチームがそろって演壇前に立ち並び、松川博之さんが「僕は小学校の音楽担当の教師だ。毎日カヌーに乗っている訳ではない。新聞で見たことを子供たちに話したり、いろいろな所で、いろいろな形でできる。海上で、辺野古で、安和で、塩川で、各地でいろいろやられている。みんな仲間だ。今日シーミーで来られなかった人も多い。墓の前で平和の大切さを感じる時間を持つ。次の世代に受け継いでいく。みんなの力で、ユイマールの力で辺野古を止めよう」と訴え、壇上の玉城知事と固い握手を交わした。
桑江優稀乃さんは「慰霊の日に中国、米国などの友人と共に抗議船に乗った。国レベルでは権力者の争いがあるが、個人個人は友人。サンシンに涙してくれる。サンゴが美しい海が少しずつ壊されていく。心を癒してくれるのは沖縄の海・空・人々の心。心を一つにすれば変えていくことができる。明るい沖縄の未来を築いていこう」と述べ、よく響く声でサンシンを奏でた。
屋良朝博議員“政権交代あるのみ”
衆院議員の屋良朝博さんは「うるま市の皆さん、よく頑張った。私たちも国会で計13回質問し追及した。国の予算は地元の賛成がないと付かない。誰かが呼び入れるということがないとできない。権力の腐敗の大本がこの辺野古ではないか。こんな政権に経済・政治・生活を任せておけない。政権交代あるのみ」と主張した。
参院議員の伊波洋一さんは、2016年初当選以来の経過を振り返りながら、「米国は中国とは戦争をしない。なぜなら両方とも絶滅してしまうから。その代り、米国は日本に戦争の矢面に立たそうとしている。アメリカの秩序を守るため、日本を米国の唯一の味方にさせ、全国に約280の弾薬庫をつくり、戦争の準備をしている。許してはならない。沖縄・日本・東アジアを戦場にさせてはならない」と訴えた。
県議会与党会派の照屋大河さんに続き、山城博治さんは「闘いの10年を振り返り、今後さらに大きな闘いをつくっていきたい」と決意を表明した。最後に集会アピールを採択し、ガンバローを三唱して閉会した。参加者は、決意も新たにそれぞれの持ち場に引き上げて行った。帰り際、支援者に伴われた伊江島の謝花悦子さんにお目にかかった。あいさつを交わすと、謝花さんは、メガネ越しに大きな目を向けて「島にも来てください」と言った。
2024.4.14 名護市瀬嵩の浜。海上行動チームと共に松川さんが発言。
2024.4.14 名護市瀬嵩の浜。海上でアピール行動をするカヌーチーム。
2024.4.14 名護市瀬嵩の浜。いつも元気なカヌーメンバー
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(102)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。今号で紹介する北谷町の比嘉さんは、21才で徴兵され満州へ派兵されて3年、除隊後は一年間、軍属勤務した。その後、沖縄で結婚式を挙げて満州で暮らしていたところ、再度召集され、国境警備にあたっていたが、敗戦と共に、シベリアに連行され強制労働に従事した経緯を語っている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『戦時体験記録 北谷町』(1995年)
比嘉景保「ソ連に抑留される」
私は昭和十二(1937)年に召集されて、十三(1938)年に福岡24連隊に入隊した。数え21才の時だ。そこで、半年訓練を受けて満州の海拉爾(ハイラル)に行った。私たちが満州に渡った当初は、まだ静かだった。
じきに、ソ連軍とノモンハンで交戦になった。その時は、第一線にも行かされたので、実際に発砲することもあった。ノモンハンは大きな戦いだった。
あっちこっちに壕を掘って入っていた。弾が来ないときは、首だけ出してお互いに話をしたりもした。ある日、隣の壕にいる人に「比嘉!」と声をかけられた。「どうした!」と言ったら、「今度帰ったら貯金はせずに、街でおいしいのをたくさん食べて、お金は全部使おうな」と言っていた。「そうしよう」と私が言い終わらないうちにその人は射撃された。這って行ってみたら、壕の中で死んでいた。水筒を振ってみると、水が残っていた。線香代わりに蚊取り線香をつけて、「水がないのでいただきます」と断りを入れて、その水をゴクゴク飲んだ。……
現役を三年で満期になった。希望者はそのまま軍属として働けることになり、儲けられるというので私もそうした。軍の中での仕事だった。軍属として一年ほど働いた頃、みんなが妻を呼び寄せるというので、私もそうすることにした。沖縄の人は、私と読谷出身の人と二人だけだった。……
沖縄で結婚式を挙げて、妻を満州に連れてくるという許可証明をもらわなければならなかった。沖縄で入籍した。沖縄には一か月ほどいたと思う。……満州に戻ってからは、77部隊の自動車修理工場でガードをしていた。……
そうしているうちに「赤紙(軍の召集令状の俗称)」がはいって、現地召集された。私が一番先に召集されたので、班の人たちに事務所で送別会をしてもらった。後からは戦況が厳しくなり、送別会もなかったそうだ。二度目に出征したのは私が27才の時だった。長女は生まれて満1才にもならなかった。名前はミヨ子と言った。後に、妻と一緒に引き揚げて、宮崎で栄養失調で亡くなったそうだ。二度目の出征の頃、妻は妊娠していたようだが、私は知らなかった。離ればなれになっている間に次女が生まれたが、再会したときにはそうとは知らず、長女のミヨ子だとばかり思っていた。……
私のいた部隊は平安686部隊だ。私が手紙を書いたので、妻は子供を連れて一度面会に来た。……私は終戦までずっと平安にいた。平安はロシアに近かったから、ソ連との国境監視が私の仕事で、一週間交代でそれをやっていた。敵と少ししか離れていない所に、500メートル間隔で監視が立っていた。天幕を張って、寝起きはそこでやっていた。ロシアの兵隊との衝突はなかった。……
空襲はされなかった。敵は自分の国だと思っていたか、どうせ勝つからと落とさなかったのだと思う。終戦になって一時間もしないうちにソ連軍が入ってきた。土地を買ったら、瓦葺きの家を造ろうと考えていたのに、儲けたお金も戦争のために台無しになった。……
駐留中の部隊にはトラックがたくさんあったらしい。兵隊はその車で真っ先に逃げたそうだ。残っている民間人は、兵隊は後になるべきなのにと、とても怒っていた。……
満州には朝鮮人がたくさんいた。戦争が終わって、その人たちは満州からすぐ帰された。……
汽車に乗った時は行き先も分からなかったが、着いた所はウランバートルだった。そこで沖縄の人にも会ったが、ほとんど内地の人ばかりだった。ロシアに連行されてからは食べ物はパンが少しずつ与えられた。黒っぽいパンだったが、それほどおいしくなかった。それと豚の脂肪を塩漬けにしてあるのをおかずにして食べていた。仕事の時間は、朝の8時から夕方6時までだったと思う。風呂に入るとき、いつの間にこんなに痩せてしまったのかと、驚くこともあった。……
仕事は、レンガを造ったり、山で木を伐採したり、ボイラー焚き、修理工といろいろあった。私は初めはレンガを造る作業をしていたが、伐採に回された。外での仕事なので、寒くて大変だった。それで「ここでは寒くて身体が持たないから、もう少し暖かい所での仕事はないか」と言ったら、ボイラー焚きに回された。その後はボイラーに暖まりながらの仕事ができた。
ロシアには二年間いた。引き揚げるときはナホトカの港を出て、函館に着いた。……
沖縄に帰ってから軍作業に出た。その時「ソ連まで行った」と話したので、MP(憲兵)二人に尋問された。「向こうはどうだったか」と、いろいろ聞かれた。ソ連まで行った人はみんなウソ発見器にかけられた。どんなことをしていたかとか、事細かに聞いていた。敵国の情勢を確かめるためにやったと思う。
私たちは満州でソ連と戦争したが、沖縄ではアメリカと戦争した。日本は大きな国二か所と戦っている。……引き揚げでは、満人と仲良くなって満州に残っている人もいた。何人かはソ連にも残っていると思う。そこの捕虜収容所から逃げた人もいた。そういう人はまだ残っていると思う。
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