県内市町村の中国での戦争体験記を読む(103)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。今号で紹介する北谷町の島袋さんは、日本軍がすでに制海権・制空権を失って行った1944年、佐世の海軍に召集兵として入隊し、大連、サイパン、上海、海南島、香港などに行き、帰還に至った経過を述べている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『戦時体験記録 北谷町』(1995年)

島袋太光
「生きるか死ぬかの瀬戸際にいた」


 戦前は「嘉手納」姓を名乗っていたが、戦後「島袋」に改姓した。きょうだいは六人いて、私は〈チチンミ〉の長男だ。私が徴兵検査を受ける頃に、母ツル(明治十六年生)はなくなった。三人の姉は嫁いでいた。
 私の徴用は昭和十八(1943)年の末頃から始まり、屋良(嘉手納)飛行場建設にも一度は出た。すぐに「アカガミ(召集令状)」がはいった。昭和十九(1944)年の六月入隊ということだった。
 非常時で渡航が危険だったため、出発を早めて沖縄を四月に出た。佐世保で海軍に入隊した。三十三歳だった。その時期に北谷村から入隊したのは、連隊は別だが十名ほどいたと思う。伊礼からは私一人だった。
 七月頃だったと思うが、海軍に入隊して間もなく、所属も行き先も告げられずに、駆潜艇で出港した。目的地に着いてもどこかわからなかった。南方という事だけは何となくわかった。そこで、三か月間陸戦とか機関兵としてのいろいろな教育を受けた。教育訓練はとても厳しかった。軍隊は何をする所であるとか、作戦術とか、いろいろな学科があった。
 船の中での訓練は、朝の教鞭〔総員?〕起こしで始まった。甲板を流し、毎日粉にした藁を撒いて、乾いた雑巾で上甲板全部を拭いた。後の列になった人は樫棒で叩かれるので、大変だった。
 そこから大連に行った。大連の市長に特別招待を受けたが、なぜ招待されたのか私にはわからない。……その次に出航したのはサイパン、トラック島あたりだ。……
 また一度は、上海の近くで夜明け頃に魚雷にやられた。その時の船の名前は忘れてしまったが、上海に行く輸送船だった。助けられて上海に連れていかれ、そこで正月を迎えた。その船には千人ぐらいの人が乗っていたと思う。それぐらい大きな船だった。魚雷を受けたときには、私は船の一番後方にいた。前方にいた人たちが「魚雷が来る」と叫んでいたらしいが、船長はそれを聞き取ることができなかったようだ。それで、魚雷の来る方向に船の舵をとってしまったものだからやられた。幸いそこは浅瀬で、船体は沈没には至らなかった。
 さらに海南島では、港にすぐ近くまで敵潜水艦が来ていて、港を出ると同時にやられた。……
 香港にいたとき、日本軍の船が二隻来て、友軍の兵隊が七十名ほどいた。そこで、沖縄に応援に行こうじゃないかということになった。だが吉田兵曹長は「せっかく今まで無事で来ているのだから、行かない方がいい」と言っていた。そのおかげで生き延びることができた。もし応援に行っていたら、みんなやられていたと思う。吉田兵曹長は沖縄の人で、とてもいい人だった。
 香港で終戦を迎えた。「チュウザン」という船で日本に引き揚げることになった。

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