県内市町村の中国での戦争体験記を読む(95)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する宜野座村の安仁屋さんは、1938年の奄美大島での徴兵検査から熊本輜重第6連隊への入隊、中国派兵、各地の転戦を経て南洋への派兵、ブーゲンビル島での戦闘と終戦、そして帰還に至る経過を証言している。引用は原文通り、補充は〔 〕、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)
安仁屋昌仁「中国大陸・南洋での戦争体験」
私は、大正十四〔1925〕年、八歳の時から鹿児島県大島郡喜界島に渡り、十歳から徴兵検査適齢まで当地で、漁夫として働かなければならない身でありました。身売りをされ、漁夫として働いたのが満二十歳までですから十年間という事になります。その間、家族と一緒の漁業ではなく、全く他人との漁業ですから、毎日の仕事はきつく、今思い出すと、つらいことばかりが頭に浮かんできます。
昭和十三(1938)年いよいよ、徴兵適齢を迎え、同年二月、現地の名瀬町で、徴兵検査を受けました。甲種合格でした。当時は軍隊に行くのが名誉の時代でありましたので帰宅後、知人、友人と一緒に祝杯を挙げ喜んだものでした。
六月一日の召集令状により、熊本輜重第6連隊に入隊しました。同部隊で約一か月間、荷馬車引きの訓練を受けました。小学校一年も出ていない私には、第一に共通語が自由に話せず、毎日の訓練に苦労したものでした。
昭和十三年六月初旬、中国派遣のため福岡県の門司港を出発し、二日間航海して武昌〔ウーチャン〕に上陸しました。上陸と同時に船から、弾薬や食糧の荷降ろし作業をした後、野営をしながら行軍し、約一週間後に、岳州〔湖南省岳陽市一帯の旧地名〕に到着しました。私は荷馬車で弾薬や食糧を運搬するのが任務でした。岳州に到着するや私は、輜重第2中隊に配属されました。昭和十三年八月頃と記憶していますが、岳州から長沙〔チャンシャー〕周辺の中国兵との戦闘にはじめて参加しました。敵の猛攻撃には、後退したり、進攻したりの繰り返しで、敵が岳州まで進攻し包囲されるという危険な状態もありましたが、別の部隊の応援を求めて中国軍を撤退させ、難を逃れるという事もありました。同年十二月、第二回目の長沙作戦の戦闘に参加しましたが、中国兵は兵力を増し反撃に出たため日本軍はなかなか進攻ということは出来ず、長期戦の構えになりました。岳州と長沙の戦闘は、昭和十七〔1942〕年まで延々として戦闘が続きました。……
昭和十七年八月頃、師団は南方方面への転戦のため岳州を出発して、上海に集結しました。八月下旬、上海を出発して約一か月航海し、ニューブリテン島ラバウルに上陸しました。同地で三か月間の警備をした後、同年十二月にラバウルを出発して、ブーゲンビル島に上陸しました。同地のフワウルトに駐屯し、タロキナ飛行場の警備の強化につきました。同飛行場警備中にたまたま米軍が上陸し交戦することもあったが、米軍は短期戦で引き返すような戦闘を繰りかえしていました。このような戦闘を繰りかえしている内に、同地で昭和二十年八月十五日、終戦の日を迎えました。……
昭和二十年十二月、帰郷のため汽車で福岡県を出発し、鹿児島県へ向かいました。鹿児島港から乗船して、一晩航海し那覇港に着きました。沖縄に着くと同時に、米軍のトラックに乗せられ、中城村久場崎の収容所に収容されました。同収容所で、二、三日収容された後、家族が収容されていた福山開墾地で、二十二年ぶりに家族と再会することができました。
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