追悼 和多田粂夫同志
思い出は闘いの現場での出会い
5月28日、和多田同志が亡くなりました。83歳でした。心から哀悼の意を表します。
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私が初めて和多田さんと会ったのは、68年12月24日の三里塚闘争に行く電車の中でした。私はこの日初めて三里塚闘争に参加したので今でも鮮明に覚えています。この時声をかけてくれたのは和多田さんでした。「12月22日の東大内デモの時に見つけたよ。1年生か2年生かどっちだ」「1年生です。昨日は中大の学館に泊まりました。三里塚は初めてです。よろしくお願いします」「今日の三里塚は荒れるかもしれないから準備だけはしっかりしておけよ」。この日の集会は第2公園で、革マル派も最初で最後の参加でした。デモは第2公園を出て御料牧場を半周するような長いデモでした。
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2回目に会ったのが69年1月15・16日の東大闘争の時です。正確に言うと3日目の東京地裁の地下でした。彼は私の前の席で、周りには、5~6名程わが派のメンバーがいて、帰路につくまで、私たちはガヤガヤ話していました。
東大闘争で私のグループから分離公判グループが多数出て、私は第1回公判の前夜に職権保釈という形で出されました。暑い夏の日でした。和多田さんは翌年の夏でした。彼はわが派の闘争団の中で最年長で私は大学2年生の20歳でした。私と彼との年齢差は10歳以上あることをこの時知ったし、一回地方の大学に合格したが、学生運動をやるために中央大学を受験したことを知りました。東京で学生運動をやるために大学を辞めて受け直すという考え方があることをこの時初めて知りました。その意味で和多田さんは最初に会った時から、私にとって型破りな人でした。
再度彼と出会ったのは、やはり地裁の地下でした。70年は1年中安保闘争が続きました。夏のある日、明治公園を出たデモは出発してすぐに機動隊の規制にあいました。それでも10分近くジグザクデモを続け、最初の交差点で隊伍は寸断され、そこで私は逮捕されました。彼も同じ場所で逮捕されたみたいでした。23日目でめでたくパイになり、意気揚々と越境社に報告に向いました。
しかし、越境社のある最寄り駅まで来ると和多田さんは電車を降りず、東京の学生数名と逃げて行ったのです。越境社でことの顛末を話すと私たちが和多田さんを逃がしたと批判された。彼にこの問題を言うと彼はいつも「スマン」の一言で全く迷惑をかけたとは思ってもいませんでした。
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和多田同志との最後にやった闘争は、78年3・26三里塚闘争でした。彼は3・26闘争で管制塔グループの送り出し部隊をやり、私は丹波山グループの送り出し部隊をやりました。その日の夕方になっても三々五々逃げたメンバーが朝倉に帰って来ていたので、私たちはテレビをつけて、帰って来るメンバーを待っていました。そんな時「これで帰るから! しかし、今日の勝利は気分いい!」と言って和多田さんが入って来ました。彼は「管制塔に赤旗翻った瞬間に勝ったと思って、それ以降は何にも見ていない」と言い、「ジャーな」と言っていつものように朝倉を出て行きました。
彼は1990年に出所しました。出て来た直後に私に電話を寄越し「明日、新時代社で会おう」と言ってきました。翌日、朝から私は和多田さんを待ちました。10時過ぎに顔を出した彼は私を見るなり、「俺は仙台との分裂に反対だ。なんとかならんのか」と言い、「来週でももう一度会おう」と言って新時代社を出て行きました。
和多田さんが「仙台との分裂には反対だ」という言葉は大阪のオールド達が「仙台とは分裂しかないのか」と言われたのと同じくらい重い言葉でした。へたをすれば、仙台だけでなく、管制塔グループとの分裂も覚悟することを突きつけられたような気分でした。しかし、彼は分裂反対で1回も公然と動きませんでした。この点については彼に感謝しています。
和多田さんが私より先に亡くなるということは想像しておりませんでした。そんなときに編集部から追悼文を依頼されたが、追悼文を書くほど深い交流はなかったというのが事実です。その意味で45年は早く過ぎていきました。心から彼の死に哀悼の誠を捧げます。
2024年6月2日
大門 健一
悠久の大義の道
「死して尚胸中に在り火の柱」この火の柱こそ和多田同志が我々に示した「悠久の大義の道」の志である。
和多田同志を先頭に管制塔に翻した赤旗こそは我々日本民が歩まねばならない「悠久の大義の道」であり成し遂げなければならない事業である。
三里塚闘争開港阻止決戦。国家権力は威信をかけ関東管区・名古屋中部管区の機動隊の精鋭1万5千人動員、亀井静香を現地警備最高責任者に配備したのであった。三里塚空港反対同盟に結集する農民、三里塚闘争に共闘する全国人民は国家の精鋭部隊を粉砕し、和多田同志を先頭に管制塔に赤旗を翻して占拠したのである。
秦野章警視総監は「警視庁三里塚で敗れたり」と公言し、財界代表の桜田武は「日本で内乱発生」と驚愕したのであった。
管制塔直下のマンホールの中の長い夜、深い闇はナチス・ドイツを打ち破ってパリ―を解放したフランス人民の地下水道戦、ベトナム人民のディエンビエンフーの植民地解放民族独立の闘争、民族民主革命の中国人民の地下道戦等の世界史の闘いに通ずるものであった。
勝利の赤旗が輝けばまた犠牲も多い。管制塔戦士は捕らわれて獄中闘争10年余、我々は東山・原・新山のかけがえのない同志を失った。痛恨の極みである。闘いの魂から血潮がしたたり落ち噴き出る思いである。
和多田同志が我々に残した「悠久の大義の道」は悲しみを戦いの力にと励まし続けている。三里塚は今空港拡張計画が実施され、第三滑走路の建設の準備が進められている。自然破壊、田畑の破壊、騒音地獄がさらに発生し、我々の生存権が脅かされている。「闘いの壮心は千里あり」和多田同志が示した「悠久の大義の道」を進む決意、覚悟であることをお誓いし追悼の言葉といたします。
2024年6月2日
加瀬 勉
三里塚管制塔占拠闘争40年集会、一番左に和多田さん(2018年3月25日)
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