投稿:追悼・和多田粂夫同志:前田道彦
和多田さんと「管制塔占拠」
一九七七年 船橋の喫茶店
「空港を機能させないことだ」和多田さんは本人が小声で話したつもりでも、十分周りに聞こえる声で私に語った。
空港を機能させないためには器機を壊すしかない。それは、いまだ稼働してない空港に入り込み、器機を破壊することだと理解できたが、どうしたら空港に入り込めるのか? 和多田さんはバリケードの内側に入れるルートを確保していると自信満々に言っていた。
和多田さんは、その“スキ間”から空港に入り込んだらそれに大群衆が続き、空港中を走りまくる画を描いていた。この頃の活動家としては珍しく政治的意義や内容そして彼我の関係を戦闘作戦に止揚する人だった。平たく言えば軍事的な決着が必要な瞬間の臭いに敏感な人だった。だから分かりやすかった。
「地下通路」
和多田さんが手書きの地図を広げた。この時から会話が手書き文字でのやり取りとなった。
その地図は、建設中の成田空港のバリケードの外側から空港内に続いていると思われる排水溝図だった。この日の主要な話は、その排水溝の下見を私に託すことだった。当たり前のこととして引き受けたのだが、その後の和多田さんの話が面白くて下見の不安が消えてしまった。
和多田さんが文字で私に語ったのは、夜、地下通路から数十人で空港内に出て空港中の器機を壊し、全員無事に帰還するとの構想だった。それを大晦日から元旦にかけて実行するとの案だった。千葉県警機動隊が成田新勝寺の初詣に動員されているスキをついて空港に入るというのだ。「本気か?この人」とクスクス笑ってしまうような作戦案だった。
ただ、案の定この大晦日大作戦は党派調整ばかりでなく内部でも賛成が得られず断念の憂き目にあったようだった。
「排水溝」行
一九七七年に岩山大鉄塔が抜き打ち撤去され、空港開港が宣言されて闘争は激化した。東山さんの虐殺は空港に反対する人々を決死の闘いへと駆り立てた。「勝つ手立て」を本気で実行することが必要だった。
大晦日大作戦構想は断念となったが、より以上に空港機能をマヒさせることで開港をあきらめさせる必要性が増していた。物理的に開港を阻止するための準備が始まった。その作戦のために、空港内へ侵入する「地下通路」を確保する目的の下見が必要だった。
ある夜、私は現地を良く知る人と二人でバリケードの外にある「突起口(排水溝入口)」からおそらく一㎞前後はあると思われる排水溝を歩いた。空港管理棟はここら辺と思えるところからマンホールの梯子をよじ登ったが、マンホールの蓋は当然にもネジが切ってあるので開けられない。そこで、決死の思いでマンホールの梯子の背面一mほど離れた側溝(横溝)に、半回転ジャンプして取りついた。側溝を五mほど進んで、そして側溝の蓋を押し上げたら目の前に管制塔が現れた。
再び船橋の喫茶店
私は次のように和多田さんに報告した。空港警備監視塔のサーチライトをかい潜れば排水溝に入ることは可能であること、途中梯子の上り下りや、膝上まで水に浸かるところはあるが管理棟の近くまでは行けること。
だがしかし、二桁の人員でマンホールに取り付き、側溝に入るのは難しい。ましてやマンホールから地上五mの側溝に半回転ジャンプすることは恐怖だ。加えて地上に出るまでそして地上に出た後もかなりの時間が必要なので作戦は不可能に近い。
私の報告はあきれるほどネガティブなものだった。暗闇の中で地上五mでの半回転ジャンプをすることがただただ怖かったから。
「じゃ俺が行くよ」それが和多田さんの答えだった。和多田さんはこう言いたかったのだ。「開港阻止戦術にとって“地下通路作戦”は必要不可欠であり、開港阻止闘争に絶対に必要な要素なんだ」。
和多田さんは「俺が行く」といえば前田はそれだったら僕に任せろよと答えることを百も承知だった。ただ、指示・命令ではなく、心の機微を読み取って誘導する技は彼特有のものだった。
一九七八・三・二五夜
三月二六日前夜、管制塔占拠闘争は開始された。
一九六八年一月、ベトナム解放民族戦線の二二人がサイゴンのアメリカ大使館を占拠した。いわゆるテト攻勢だ。和多田さんは、二二人でのアメリカ大使館占拠を模して三党派で二二人構成とした。そして内一六名が第四インターのいわゆるゼロ部隊で組織された。
ゼロ部隊の前で和多田さんは語った。
目的は空港機能を麻痺させることだ。君たちが管理棟に行くために、直前に空港に突入する人たちが道を開く、そして君たちの後に大勢が空港に突入する。君たちは行けるとろまで行ってくれ。そして空港内の機器をできるだけ壊してくれ。ただ残念ながら管理棟内部の構造は分かっていない。とにかく上へ上へ向かってくれ。できれば管制塔を占拠し破壊してほしい。おそらく君たちを奪還することはできないと思うが闘争には絶対勝てる。
目的は空港を使い物にならなくすることだ。人を傷つけることではない。空港内にいる人を傷つけないで目的を達してほしい。トコトンやってくれ。頑張ってくれ。
戦闘前に戦闘員の前で話をする司令官は、大抵政治的意義をとうとうと語るものだが、和多田さんは違っていた。極めて具体的だった。分かり易かった。
一九七八・三・二六
前夜、突起口(排水溝入口)で機動隊に発見され第四インターゼロ部隊の六名が隊を離れざるを得なくなった。後日談になるが、帰還したこの六名の三・二六での阿修羅のごとき活躍は有名である。第八ゲートからの突入部隊でもひと際目立っていた。
管制塔部隊にとって、排水溝口で発見されたことで、作戦が警察・警備本部に発覚したと思わざるを得ない。まず、排水溝内での戦いの準備を進めた。そしてすべての指揮権を私に集中させてもらわざるを得なかった。私は、まず和多田さんに渡されたデジタル通信機を全員の前で破壊した。そして、当日の正午になるまで出口になるマンホール口を秘匿することにした。
その頃、闘争本部から二つの通達が管制塔部隊に発信されていたことを後日聞いた。一つは「作戦の中止」そして「(前田が入ったんだから)作戦は続行」というものだったそうだ。後者は当然和多田さんの通達だった。彼は、排水溝に部隊が入れば、作戦は大筋成功と考えていた。
三月二六日正午。機動隊はマンホールに入ってこなかったので作戦を実行することにした。
その時和多田さんは、成田空港ビューホテルから双眼鏡で空港内を凝視していたという。
第九ゲートからトラック部隊が突入し、続いて管制塔部隊が管理棟に侵入した。数十分後に管制塔一四階ベランダに赤旗が翻った。和多田さんは、この時、早くも次の一手を考えていたそうだ。
敵との対峙が硬直状態に入ったとき、敵の背後に部隊を投入する戦術を考え出したのはロシア赤軍のトハチェフスキーだった。落下傘部隊である。和多田さんは、落下傘ではなく地下から敵陣営背後に味方部隊の投入を図ったのだった。ベトナムのディエンビエンフーの戦いでも用いられた戦術だ。和多田さんを「ブランキ似」と表現する方もいるようだが、トハチェフスキー的だなと思える。彼が尊敬してやまない山口武秀氏とも似ている気がする。
裁判への合流
和多田さんの責任の取り方なのだろう。
指名手配されていた和多田さんが、管制塔裁判に合流した。しかも、裁判の傍聴席から被告席に合流したのだった。長期刑が予想されるようになった管制塔被告に合流することで司令官としての責任を果たそうとしたのだ。昭和残侠伝の高倉健さんなんてもんじゃない“美しさ”で鳥肌がたった。まさに「鉄砲玉の美学」である。
それから一〇年間、彼は獄中の被告の相談相手であり精神的牽引者となった。獄中のわれわれの心は弾んだ。
和多田さんは、九〇年八月に出所した。
彼が出所しても管制塔の闘いは終わらなかった。一億三○○万円の損害賠償訴訟の敗訴で賠償請求が執行された。被告団は刑事裁判中以上に団結した感があった。
またしても和多田さんは闘いの中心になった。彼はどんなことをしてもお金を作り、損害賠償請求に応えると腹を固めていた。和多田さんの想いは、二〇代を刑務所で過ごした若き戦士たちを一日も早く苦しみから解放し普通の生活をさせたい、の一心だった。そしてこれも和多田さんの責任の果たし方だった。三・二六管制塔占拠闘争を上回る人たちの心が和多田さんに勝利をもたした。
最後
本年四月一六日、和多田さんから電話があった。「俺、余命一カ月宣言を受けたよ」。声が震えるのが分かった。和多田さんにしては珍しいことだ。胃カメラ検査を受けている最中、医師たちの話し声が聞こえたらしい。局部麻酔での検査だったので意識は鮮明だったようだ。胃がんのステージフォーで腸骨への腫瘍の転移がみられる状態だった。
一週間後、自宅で和多田さんと会った。管制塔の中路さんと一緒に訪ねた。和多田さんは思ったより元気だった。この状態だったら一年やそこらは喋り捲るだろうと確信してご自宅を後にした。
しかし、それから一週間して管制塔の中川さんと訪ねた時には歩けなくなっていた。
「もうやれるだけのことはやった。延命なんてしたくないのですっきり逝かせてほしいよ。ただ、死ぬのも簡単じゃないぜ」。なんとも和多田さんらしい表現だった。
逝くのはもう少しでもいいから“吠えまくって”からでも遅くなかったように思う。管制塔被告たちは和多田さんに支えてもらったことを死ぬまで忘れないだろう。告別式前日の納棺でなんどもありがとうと呟いたがまだ足りないような気がする。和多田さん本当にお疲れ様でした。
前田道彦
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