県内市町村の中国での戦争体験記を読む(97)日本軍による戦争の赤裸々な描写

 今号で紹介する宜野座村の平識さんは、1943年の徴兵検査から翌44年の台湾出兵、敗戦と帰還に至るまでの台湾での生活を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『宜野座村誌』第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年)

平識善福
「台湾軍入隊から帰還まで」

 私は進学のため二か年間徴兵延期となり、昭和十八(1943)年三月に青年学校教育養成所本科を卒業し、中頭郡西原青年学校教諭として赴任しました。同年六月の徴兵検査の結果、甲種合格となり日本男子として最高の栄誉だと職場の先輩から特配の泡盛で祝福を受け激励されました。……
 昭和十八年の暮れに入隊通知が来て昭和十九(1944)年二月十日、台湾軍歩兵第3部隊(台北)に入隊することになりました。日本の周辺は、陸海空総力をあげての警備体制下にあるとはいっても、米軍の反撃は太平洋を挟んでじわりじわり迫っており、私たちの出発の日時も極秘にされていました。入隊のための集合期日は二月十日でしたが、入隊期日より十日も遅れての出発となりました。……
 昭和十九年二月十九日、同期の入隊式より九日間も遅れたので、私たち沖縄県出身のみの入隊式を終え、それぞれの中隊に配属されました。……
 昭和二十(1945)年七月頃のある日のこと、いつもは私のところに回ってくる回報が来ないので、係の松原軍曹に確かめさせたところ、なんと、「要注意沖縄出身将兵」という方面軍からの極秘文書であることがわかりました。それは、「沖縄戦において沖縄の指導者がスパイ行為をしているので、沖縄県出身者は要注意」というもので、その時の屈辱感と不愉快さが今でも思い出されます。二、三日後、知本温泉で将校の集まりがあり、某中尉の暴言から私が腹を立て日本刀で斬りつけようと大暴れをしたことがありました。同僚がいなければ今日の自分はなかったのではとヒヤッとすることがあります。翌日、お互いにわびを入れ一応収まったのでした。
 昭和二十年八月一日付で陸軍少尉に任官しました。入隊以前からの願望がかなえられ、上官の方々から祝いと激励を受けたことは生涯忘れられません。……
 翌十六日の朝早く、いたましいニュースが入ってきました。それは、昭和十九年から徴兵された台湾出身の一等兵某が自分の銃剣で自殺したというのです。日本国軍として忠誠を誓って改姓までした自分たち台湾人は、日本の敗戦によってどうなるか、おそらく同じ台湾人からしいたげられるにちがいない、自分は最後まで日本国と運命をともにしたい、と書き残して自殺したというのです。……
 昭和二十一(1946)年二月二十二日、沖縄出身者陸海軍人は帰還のため基隆港に集結せよ、という連絡がありました。私たち帰還希望の沖縄県出身兵は、基隆の双葉国民学校に集結し、独立混成第32連隊(工藤大佐)に編入されました。そのころ、人数は二千名近くに達し基隆国民学校など二か所に収容され、後に瀧川国民学校に移転しました。帰還を目的に集まって来たものの、帰還どころではありませんでした。毎日、市内のドブさらいや爆撃で崩れたれんがの整理、港に入ってくる船舶への石炭積み込み作業、そのほか中国軍司令部からの要請で日本製兵器の取り扱い指導のための兵の派遣などを行っていました。……
 基隆に集結した沖縄出身兵の大半は現地除隊を行い、内地や宮古・八重山へ引き揚げて行きました。残る約八百名の沖縄部隊は、基隆乗船地司令部(中国軍)の命令によって、内地部隊から日僑引き揚げ作業を引き継ぐことになりました。……ついで部隊の名称は「琉球籍官兵集訓大隊」となり、昭和二十一年七月十五日、中国軍総司令部の林大将の巡視を受けました。……
 民国三十三年(昭和二十一)九月三日から総司令部の命令で教育が実施され、毎日二時間、琉球史・中国語・英語・三民主義・中国国民党史などの学術講話や時事解説が行われました。何時帰還できるか不安もあったが、時間つぶしという事と、食料や副食費支給などで総司令部と日僑管理委員会の世話にもなっていることだし、もっともらしく受講していました。……
 十二月二十四日午後五時、基隆港を出港し、三年九か月を過ごした台湾に別れを告げ、一路我が故郷へ向かいました。……

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