浦添市長選結果
かけはし 第2653号 2021年2月15日
新しい米軍基地はもういらない!
辺野古にも浦添にも
沖縄 K・S
2.7 浦添市長選
オール沖縄の伊礼悠記さんが自公の現職に惜敗
2月7日投開票の浦添市長選挙で、共産党を離党し無所属で立候補した前浦添市議の伊礼悠記さん(オール沖縄支援)が、自公の現職に惜しくも敗れた。投票率は前回市長選より1・7ポイント上がり、62・98%を記録した。得票数は次の通り(選管最終)。
投票総数 5万6561
伊礼悠記 2万2503
松本哲治 3万3278
2期8年市長を務めた自公の現職に対し、伊礼さんの正式な立候補表明は今年に入ってからで、浦添市議を2期8年務めたとはいえ、明らかに知名度で劣り立ち遅れていた。それでも伊礼さんが得た票は約40%、10人に4人が、自公に結び付く市政、浦添軍港に反対の意思表示を行った。那覇軍港の浦添移設の問題は、長い経過の中で、沖縄県、那覇市、浦添市の共同作業として積み重ねられてきており、那覇軍港の返還のために浦添に代替の軍港をつくるということが行政レベルの既成事実となってきた。8年前の市長選で、軍港反対を訴えて当選した現職の松本市長も、そうした圧力の中で公約を破り軍港容認に変節したという経過がある。
今回、伊礼さんが「あくまで軍港に反対、埋立反対」を掲げて立候補したのは非常にインパクトのある画期的なことだった。それゆえ、選挙運動は「軍港いらない、新しい基地いらない」という明確な主張を軸に、支持者が多く結集し、活気があり、大きな盛り上がりを見せたのである。結果は負けた。だが、これからの軍港反対運動の出発点をきずいた。軍港は数年のうちに建設できるというような性格のものではない。今後、10年20年と時間がかかる。今回の市長選に結集した力を基盤にあらためて軍港建設に反対する闘いをつくり上げていくことが、われわれの選挙総括である。浦添軍港建設を止める闘いが始まった。
2.3 サンゴ訴訟判決
福岡高裁那覇支部が県の請求を棄却
沖縄防衛局は2019年、沖縄県に辺野古の埋め立て予定地のサンゴ類約4万体の移植を申請したが、沖縄県は保留してきた。それに対し、2020年2月、農林水産相が沖縄県に対し、防衛局の申請通り移植を許可するようにという「是正の指示」を行った。沖縄県は、「国地方係争処理委員会」に審査を申し入れたが、処理委は農水相の「是正の指示」が正当であるとして県の審査申請を退けたため、昨年7月、県が裁判所に提訴したものである。
福岡高裁那覇支部(大久保正道裁判長)の判決は、①申請受理後45日間の標準処理期間を経過して県が許可不許可の判断をしないことは違法、②変更申請が承認されなければ無益な工事になるとしても、工事が実施されるとの前提で県は申請の可否を判断すべき、③農水相の指示が早期の判断だけでなく、許可をするよう求めたのは適法、という内容だ。裁判官は、変更申請が承認されなければ工事ができなくなると認めながら、県にサンゴ移植の認可を求めているのである。
玉城デニー知事は弁護団と共に判決内容を検討したのち記者会見を行い、「常識では考えられない」「地方の自主性や自律性を著しく害する」「法令所管大臣が許可不許可を判断できることを認めるもの」「沖縄だけの問題ではなく、全国の地方自治体にとって非常に大きな問題である」などと、判決を厳しく批判した。上告する見通しだ。
これまで、県と政府との裁判は全部で9件のうち、7件が終結し、内訳は県の敗訴3件、和解3件、取り下げ1件となっている。県の勝訴は1件もない。裁判官たちは公正でも公平でもない。法衣を着ていてもその中身は政府擁護の官僚だ。法律用語をもっともらしく使用しながら、政府の不法行為の合理化に努め、国家権力の横暴に免罪符を与える役割を果たすのである。
裁判所のそのような性格は次の文章に端的に示されている。判決は言う、「沖縄防衛局の造成工事の施工を妨げる法律上の根拠は何ら存在せず、原告(沖縄県知事玉城康裕)としては、工事が実施されるものであることを前提として各申請の許否を判断する必要がある」。裁判所がそう考えるのは、2013年12月の仲井真元知事の埋め立て承認からこれまで積み重ねられてきた安倍・菅内閣の数々の不法行為に裁判所がお墨付きを与えてきた結果だ。自分たちが政府の不法行為に免罪符を与えておいて、埋立工事を妨げる法的根拠はないと述べる裁判官の無責任。公平・中立を装った顔つきで、基地と戦争の脅威からの解放を願う県民の足をひっぱる裁判官たち。
辺野古埋立を止めるために、裁判だけでなく現場で地域で、沖縄はあらゆる手段を駆使して闘う。沖縄県は今年に入って、冊子『沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&Aブック』を更新し、活断層と軟弱地盤の問題を付け加えた。冊子は沖縄県知事公室基地対策課のWEBサイトで見る事ができる。ダウンロードも可能。全国各地で、活用されたい。
クーデター許さない!
県在住ミャンマー 人が抗議集会
2月5日、県在住のミャンマーの人々が那覇市内でクーデターに反対する抗議集会を開いた。県内に在住するミャンマーの人々約200人の内、約35人が参加し声明を発表した。参加者は「軍の不当行為」「新政府は認めない」「拘束されたメンバーを早く釈放せよ」「ミャンマー国民と共に戦う」などと語った。
また、新報(2月5日)によると、ミャンマーの友人からSNSを通じてメッセージを受け取ったという高校生は、2年生の地理の時間に特別授業を行い、ミャンマーのクーデターの様子を伝えた。友人からのメッセージは「WFが切られる前に、ミャンマーで起きていることを伝えて欲しい。弾圧の歴史が繰り返されようとしている。私たちを助けて」と書かれていたという。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(43)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文通り、省略は……で示した。
東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)
伊集守順「聖戦とは」
昭和十八年五月、糸満小学校で徴兵検査を受け、同年十二月十日に現役兵として熊本歩兵第13連隊に入隊するようにと、通知がきた。……
十二月二十二日深夜に、非常呼集がかかり、直ちに完全武装で出発し、行軍で熊本駅に到着した。……汽車で数時間後に佐世保に着き、直ちに乗船し、夜明けと同時に出航して、朝鮮(韓国)の釜山に到着した。……長い汽車の旅で十二月二十八日ようやく南京に到着した。ところが、丁度その頃、大陸は渇水期で揚子江の水量が少なく、輸送船が上流までの運航が不可能なため、正月は南京で迎えた。
約二か月間、南京の仮兵舎で滞在することになった。その間、軍事訓練を受けながら待機していた
南京はその頃、市内の至る所で日本軍人が見受けられた 我々は、戦勝国の軍人であるという自信に満ちた態度で、市内を闊歩している時であった。
明けて昭和十九年二月初旬、揚子江の水量が増えてきたので、南京を出発して目的地の漢口に到着し、直ちに独立歩兵第106大隊歩兵砲中隊に編入された。……
出発予定の数日前に、各中隊ごとに最後の慰安会が催された。我々初年兵は酒を飲む気にもなれず、一か所に集まって先輩達の余興を見ていた。宴会の終わり頃になって、我々より一年先輩の那覇市出身である末吉一等兵が日頃は非常に大人しい人であるが、少々酒の入った気分で沖縄の空手を勇壮に演じて見せた。ところが翌日、末吉一等兵に会うと、顔面が真黒になって目も見えない程に腫れあがり、「気が狂った」ように放心して、一人でゲラゲラ笑っているところを見た。夕方にもう一人の沖縄出身の仲原先輩に話を聞くと、宴会の終わった後「此奴はまだ二年兵のくせに、空手を使ったりして横着だから戦闘中何をするかわからないので、今で懲らしめておこう」と言って、古参上等兵達十数人に袋叩きにされたのだと聞かされた。戦前、本土の人達は沖縄の空手で一発突かれると、数か月以内に死ぬと言われる程、とても恐れられていた。
それから数日後、作戦行動に出発したが、行軍が始まって二日目の夜間行軍の途中で、末吉一等兵は行方不明となり生死が判らなくなった。同郷出身である私は、末吉一等兵が大変気の毒に思われると同時に、軍隊は実に怖ろしいところであると思った。
昭和十九年の六月中旬、長沙攻略作戦が始まり市内に突入して戦闘中、私の三メートル程隣にいた中川初年兵が敵の機銃弾に当たり、大声でわめき苦しみながら死んでいくのを見て、次は自分もやられるのではないかと思った。初年兵最初の戦死者は中川君であった。……
衡陽、並びに麻賓省付近の戦闘を終え、引き続き全県並びに石期站付近の戦闘に参加、九月中旬より興安松江口の戦闘終了後、次の作戦準備のため約二週間程ある集落に駐屯した。夕食後野外にある大きな水瓶にお湯を入れて古参兵達が入浴した後、私は最後だった。夜空は秋風に冴えた素晴らしい満月だった。新暦の十月だったから、多分旧暦では八月十五夜頃だと思い、故郷にいた頃の豊年祝いで組踊りに出演した事を思い出し、思わず涙がこぼれた。
十月中旬になり、いよいよ桂林攻略作戦に出動することが決まった。作戦は遠く北支方面に駐屯していた多くの部隊も参加する大作戦であった。
然しながら、その頃から米国空軍は支那(中国)全域の制空権を握っていた。それで昼間の行動は全く出来ない状況になっていた。毎日のように夜間行軍を強いられ、兵士達は疲れ果てて途中落伍する者も出るし、歩きながら眠って他の部隊の列に迷い込んで行方不明になる者も出る状況であった。私もどうせ自分達も死ぬ運命にあるのだから、このような苦しい行軍を続けるより、早く敵と戦って勇ましく名誉の戦死をした方がましだと思っていた。
毎日のように降る雨の中で、ずぶ濡れになった軍服を着替える事も出来ず、着たまま乾かし、又どしゃ降りの中で十五分程の小休止の時には、濡れたまま座ってぐっすりと眠っていた。
このような状況で約二か月余、しかも、後方からの物資の補給は全く途絶えていた。そのため、食料はすべて現地(中国)の民家に行って徴発(強制的に取り立てる)して、間に合わせるような状況だったから、三度の食事は、ほんの一口程度であった。そのため体力の弱い者は栄養失調となり、倒れる者が続出した。このような筆舌につくす事の出来ない苦労をして、終結した各部隊が一斉に中国最大の要塞(桂林)に総攻撃を開始し、十二月二十二日ついに陥落した。……
数日後反転作戦が開始され、行軍の途中私はマラリアに罹り中隊より別れて野戦病院に入院する羽目になった 野戦病院といっても名ばかりで、お寺のような建物内で土間に藁を敷いたところに寝かされ、薬もなく、只死を待つばかりの状態であった 中には元気な者もいたが、みんな自分の事のみを考え、他人の面倒をみる者は一人もいなかった 私が高熱を出して、ウンウン唸っていても、誰も水を飮ませてくれる者はいなかった。幸いにその夜、大雨が降って屋根瓦の割れ目から雨水が漏れていた。自力でそこまで這って行き、仰向けになって大きく口を開けて腹一杯その水を飲んだ。暫らくすると、びっしょり汗をかき、それからはすっかり熱も下がって元気になった。……
思うに過去の戦争で、日本と戦った相手国も、相当な被害と多数の犠牲者をだした事は充分承知しているが、私個人の家庭でも、父親や長兄、それに二人の姉家族全員、合わせて十五名もの肉親を失った。
当時の日本国民は、軍国主義教育によって洗脳され、且つ、それを信じていたので、自分が死ぬ事によって、天皇陛下や国家繁栄のためになるのだと言う純粋な気持ちで戦っていたのである
ところが、戦後五十年を経た今日、国会において総理大臣が、あれは明らかに侵略戦争であったと断言し、関係諸国に対し謝罪する立場となった。
当時、ひたすら国家の事を思い、若い尊い生命を国に捧げた幾多の英霊や、又、生存している我々旧軍人も今となっては、侵略者の汚名を着せられたかと思うと、実に何ともいえない虚しさを感ずる
“これが聖戦だったのか”と大声で叫びたい思いである。二度とこのような悲惨な過ちを繰り返す事なく、世界の恒久平和を願い、私の戦中戦後の体験記を終わる。
週刊かけはし
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