南京大虐殺83年12・20映画と意見交換会 ②
かけはし 第2658号 2021年3月22日
私たちは南京・中国の人々とどのように手を結んで行くことができるのか?
報告まとめ(南京・沖縄をむすぶ会事務局長 沖本裕司)
2.日本の中国侵略と南京大虐殺
ワシントン条約(1922 年 2 月 6 日調印)
米英日仏伊の五カ国による海軍軍備制限に関する条約第4条で主力艦などを制限した。比率は10:10:6:3・5:3・5。日本は世界第3の海軍力を有する国として公認された。そして第19 条で、領土、地域の軍備についての軍拡凍結を明文化した。軍事行政機関としての連隊区司令部(熊本第6師団配下)のみで、日本軍の軍事基地建設がまだ始まっていなかった琉球諸島は非軍事化地域とされた。しかし、国際連盟脱退と共に、日本政府は1936 年に条約を破棄。その結果、1941年から中城湾要塞、西表島舟浮で基地建設を進め、沖縄戦へとつながるのだ。
以後、日本はフリーハンドで軍拡を進め、侵略を拡大し、国家の破滅へと雪崩を打って行く。参考までに、ワシントン条約の19条を記しておこう。
?第19 条?
合衆国、英帝国及び日本国は左に掲ぐる各自の領土及属地に於て要塞及海軍根拠地に関し本条約署名の時に於ける現状を維持すべきことを約定す
(3)太平洋上に於ける日本国の下記の島嶼たる領土及属地即ち千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、 琉球諸島 、台湾及澎湖諸島並日本国が将来取得することあるべき太平洋に於ける島嶼たる領土及属地
盧溝橋事件から南京大虐殺へ
盧溝橋は永定河に架かる橋で、英語で Marco Polo Bridge とも呼ばれるという。7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で、日中両軍が小さな衝突。三日後には現地で停戦が成立したが、近衛文麿内閣は日本本土からの大部隊派遣を決定。8月15 日には、「支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を出して、日中全面戦争へ突き進んでいくのである。
派兵の目的は「排日運動の根絶と日本満州支那三国の融和」とされた。「排日運動の根絶」は不可能だ。なぜなら、日本の侵略が原因となって「排日運動」が起っているのであるから、日本軍派兵の拡大は「排日運動」の拡大を導く以外ない。また、「日本満州支那三国の融和」は欺瞞のスローガンだ。軍隊を派兵する国とその軍隊により支配される国との「融和」はあり得ない。ところが、政官軍の指導層は地域末端までの警察支配を強め、マスコミを動員して国民を破滅の道へと道連れにしていくのである。
日本軍による南京大虐殺の構造
南京は中国の首都であり、行政・経済・学問・文化の中心たる100万都市であった。薩摩に忠誠を誓わず処刑された、琉球王府の三司官のひとり、謝名親方も16才から南京の国士監で7年間学んだ。おそらく中国語にも堪能であったことだろう。首都の制圧によって、長期化する戦争に終止符を打ち、勝利の講和を果たす事を目的として、上海方面から南京へ日本軍の各師団、旅団、連隊等の総攻撃が加えられた。
日本軍の中の中国人に対する根深い差別意識、「チャンコロには何をしてもいい」という意識は戦場で無差別の暴力となって現れ、「天皇の軍隊」であり「聖戦」を戦ってるという意識は、無制限の暴力行使を合理化した。
その上、日本軍には、捕虜や一般住民を保護するという戦時国際法の観念がまったく欠落していた。軍は、捕虜をとらない、処分するということを方針とした。さらに、補給のない戦闘部隊の突撃による「現地調達」すなわち略奪はそれに伴う殺人、強姦、放火と共に日本軍の侵略軍としての性格を顕著にあらわすものとなった。東京国際軍事裁判の場で明らかにされた南京での強姦は10万件に上ったという。
南京の犠牲者30万人というのは、軍部隊による組織的殺害と共に現場の無統制な暴力行使の混在、軍指導部による暴力の野放しの結果だった。
読谷ヴァーチャル平和資料館では、第1展示室「読谷村と沖縄戦」のところで、関連資料として、南京大虐殺の写真解説のコーナーを設けている。その図には、南京城内外や長江のほとりを中心に、「焼き払われた地区」4カ所、「集団虐殺現場」として南京城内19か所、城外29カ所をあげている(別紙)。
李秀英さんの証言
南京大虐殺の例を一つ上げよう。李秀英(リ・シウイン)さんは当時19歳。結婚していた。夫と弟は江北の田舎に逃げたが、7カ月の身重だったため、父と共に南京城内に留まった。安全区内の学校に避難、地下室に隠れていた12月18日、日本軍が来て女性7~8人連行。
翌19日朝も6人の日本兵が来た。李秀英さんは辱めを受けるよりは死んだ方がいいと壁に頭を打ち付け、血だらけで失神。昼頃、また日本兵3人が、ベッドで横たわっているところにやって来た。李秀英さんは日本兵の銃剣を引き抜いて必死に抵抗し、血みどろの格闘の末、重傷を負い気絶した。父親は死んだと思い穴に埋めようとしたが、血が泡立っているのを見て、鼓楼病院へ。37カ所の刺し傷。お腹の子どもは流産。治療に7カ月。
マギー牧師が病院で撮影した映像が『天皇の名のもとに』にも出ていた。早乙女勝元さんが1988年南京を訪問した時、李秀英さんに会った。その後の生活について、後遺症~風邪を引きやすい。就職口がない。傷が治らない。22歳で義歯。左目異常、等と語ったという(早乙女勝元編著『南京からの手紙』1989年、『ふたたび南京へ』2000年、ともに草の根出版社)
李秀英さんは、中国人戦争被害者のひとりとして日本政府を相手に、加害責任を認め謝罪と損害賠償を行なうことを求めて、裁判に訴えた。1997年の口頭弁論では、「南京事件はなかったという人がいると聞いて、怒りを感じる。事実は事実だ」と述べた。
その後、松村俊夫「李秀英ニセモノ」本に対し、名誉棄損裁判。勝訴と150万円の慰謝料が最高裁で2005年確定したが、李秀英さんはその前に死去した。
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