アラブの春から もう1つのアラブの春へ

希望のための土台はある
スーダン革命の運命が決定的

ジルベール・アシュカル

 資本主義の新自由主義的段階における危機は、今までにないほど多くの場所で、これまで以上に大きな社会的激動を引き起こしながら、最近数カ月、われわれの前で目覚ましく展開されてきた。
 アラブ地域の諸事件は確かにこの全般的・世界的危機に対応するものだが、地域特有の事情もある。アラブ地域では、新自由主義的改革は、特定の種類の資本主義が支配的な状況の中で遂行されてきた。それは、地域の国家システムの具体的な性格によって決定される資本主義であり、その国家システムは金利生活主義(レンティアリズム)、家産制、ネオ家産制がさまざまな割合で結びついていることを特徴としているのである。

家産制国家集中による不安定性

 アラブ地域にもっとも特有のものは、完全な家産制国家が集中していることであり、その集中度は世界の他のどの地域とも比べることができないほどである。家産制とは、支配的な家族が文字通り国家を所有する、すなわち国家機構や資源を所有することを意味する。その場合、明確な専制主義的状況のもとで合法的に国家を所有しているか、それとも事実上国家を所有しているかのどちらかである。
そのような支配的家族は公的セクターを自分たちの私有財産と見なし、軍隊―とりわけエリート部隊―を私的な親衛隊として扱っている。こうした特徴は、アラブ地域で新自由主義的改革が世界で最悪の経済的結果しかもたらさなかった理由を説明している。アラブ地域で実行されてきた新自由主義にもとづく変革は、発展途上国の中でもっとも緩慢な経済成長率という結果をもたらし、その結果として、もっとも高い失業率―とりわけ青年の失業―をもたらした。
このことの主な理由は、新自由主義的なドグマが、民間セクターをもっとも重要なものと考えていること、つまり民間セクターが発展の原動力であるべきで、国家自身の社会的・経済的機能は縮小されなければならないという考え方にもとづいていることにある。
そのドグマによれば、緊縮政策を導入し、国家を縮小し、社会的支出を削減し、国有企業を民営化し、民間企業や自由貿易に門戸開放すれば、奇跡が起きるだろうというものである。しかしながら、法と予測可能性による支配(それなしでは、長期的な発展にかかわる民間投資は起こりえない)をはじめとした理想的・典型的な資本主義の必要条件がないという状況の中では、ほとんどの民間資金は、主要な生産部門である工業や農業にではなく、短期的な利益と投機、とりわけ建設業や不動産に向かう傾向にある。
このことは発展にとっての構造的障害物を作り出した。そのようにして、アラブ地域では、世界的な新自由主義的秩序の全般的危機は、新自由主義の危機を超えて、地域的に広がっている特定の種類の資本主義の構造的危機に至っている。それゆえに、その地域では、既存の種類の国家という継続した枠組みの中で、経済政策を変更するだけでは危機から逃れる道はないのだ。社会的・政治的構造全体の根本的変化は避けられない。そうした変化がなければ、鋭い社会的・経済的危機や地域全体に影響を与える不安定さは続いていくだろう。
それゆえに、二〇一一年アラブの春のような感動的な革命的衝撃が地域全体を揺さぶったのである。これは一連のゆるやかにつながった大衆的抗議にはとどまらなかった。真の反乱の可能性を含んでいた。人々は「民衆は体制を打倒したいのだ!」と連呼していた。そのスローガンは二〇一一年以降、アラブ地域で広まっていった。

新自由主義のドグマが危機増幅

 その年の最初の革命的衝撃波は、地域の国家システムを強く揺さぶった。そして、それが末期的な危機に突入したことを明らかにした。アラビア語圏のほとんどすべての国において、二〇一一年アラブの春の間に、社会的抵抗運動の大衆的決起が起きた。その地域の六カ国―つまり、その地域の四分の一以上の国―において、大衆的蜂起が目撃されたのであった。しかし、IMF、世界銀行、新自由主義秩序の守護者たちによれば、その「教訓」とは、こうしたことすべてが起きたのは、自分たちの新自由主義的処方箋がまったく不十分にしか実行されなかったからであった。彼らが言うには、その危機は昨日の国家資本主義経済の残骸が不十分にしか解消されなかったために起きたのであり、その解決策とは従来以上に根本的なやり方で、あらゆる形態の補助金を廃止することなのだった。
しかしながら、その地域の各国政府は国際金融機関が提案した以上のことはしなかった。なぜなら、政府はその政治的結果を憂慮したからだった。それは憂慮するに足る理由だった。ベルリンの壁崩壊以降の東欧においては、人々は資本主義的繁栄をもたらしてくれるだろうという希望の中で、大規模な新自由主義的変化という苦い薬を飲んだ。それとは違って、アラブ地域の人々は、自分たちの国が西欧諸国と同じようになるという幻想を持っていない。それゆえ、民衆にさらなる新自由主義政策を押し付けるためには、野蛮な暴力がアラブ諸国のほとんどで必要とされているのである。
新自由主義を完全に実行することは、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』という空想の中で三〇年前に述べたように、自由民主主義とは相容れないのである。それが最初に徹底的に実行されたのは、もちろんチリにおけるアウグスト・ピノチェト将軍支配下においてであった。
エジプトでは、それはいま二〇一三年以降のシーシ陸軍元帥による復古主義的独裁のもとで起こっている。それはエジプト人が何十年もの間我慢してきた体制の中でもっとも野蛮な抑圧体制である。シーシ政権は、生活費、食料品価格、交通費などの高騰による国民の大きな犠牲のもとで、IMFによって提唱された広範囲にわたる新自由主義政策をもっとも徹底的に実行した。人々は完全に打ちのめされたのだ。
カイロの街頭で人々の怒りが再び大きく爆発しなかったのは、主要には国家の暴力行為によって躊躇しているからである。しかし、IMFの新自由主義的処方箋を完全に実行することによっては経済的奇跡を生み出せなかったし、未来においても生み出すことはないだろう。緊張が高まり、遅かれ早かれエジプトでもう一度反乱が起きるだろう。
不幸なことだが、エジプトの左翼と労働運動は両方とも悪い状態にある。左翼と労働運動が苦痛に満ちた敗北を喫したのは、弾圧国家の野蛮な復活のためだけではなく、自らの矛盾と幻想のためでもあった。エジプト左翼の中心的部分は、見当違いの同盟関係の相手を次から次へと―ムスリム同胞団から軍部へと―乗り換えながら、政治的に不安定な軌跡を辿ってきた。
二〇一三年に、左翼と独立した労働運動のほとんどは、軍部が民主的プロセスを元の軌道に戻すという幻想に同意して、非常に短期的な視野からシーシのクーデターを支持した。彼らは、自分たちの闘いの後で政権に就いたモルシとムスリム同胞団を打倒することが、たとえ軍部が打倒したとしても、革命的プロセスを促進する道筋を再び開くだろうと考えた。
このおそるべき大失敗は、独立した労働運動だけでなく左翼の信頼を落とした。結果として、左翼による反対派は今日のエジプトでは弱体化し、周縁化している。信頼できるオルタナティブがないように思われるときには、人々は「それは、われわれをとるのか、それとも混沌をとるのかという問題であり、われわれなのか、それともシリアのような悲劇なのかという問題なのだ。われわれの容赦ない独裁を受け入れなければならない。それは苦しいことだろうが、一日の最後には繁栄が待っているだろう」という体制側の言辞を受け入れる傾向がある。ほとんどのエジプト人が最後の約束――繁栄――を実際に信じているわけではない。しかし、人々はいまだに、いま我慢しているものよりもさらに状況が悪化することへの恐怖によって無力化されているのだ。

動乱の中での特質的三極状況

 こうしたことすべてと結びついて、地域的な革命プロセス――その中ではシリアがもっとも悲劇的な実例となっている――のもう一つの特性がある。アラブ世界は数十年にわたって、イスラム原理主義の反動的潮流が発展するのを経験してきた。それはアメリカおよびアメリカのもっとも古くからの同盟国であるサウジアラビア王国によって支援されてきた。
イスラム原理主義は、冷戦時代にはムスリム世界における共産主義と左翼に対する防御手段として、ワシントンによって庇護されてきた。一九七〇年代において、イスラム原理主義は、若者の左翼的急進化に対する対抗勢力として、ほとんどすべてのアラブ諸国政府によって承認されていた。その後に続いて起こった左翼の波の退潮によって、イスラム原理主義は、エジプト、ヨルダンのような国ではもっとも重要な反対勢力となり、シリアやチュニジアのような国では厳しく弾圧された。しかし、彼らはどこにでも存在していた。
二〇一一年の反乱が始まったとき、ムスリム同胞団の各国支部は革命の時流に乗って、それを自らの政治目的に従えさせるために、革命を奪い取ろうとした。彼らは、その地域に残存していたいかなる左翼勢力よりも強力だった。左翼がソビエト連邦の崩壊によって非常に弱体化していた一方で、原理主義者は湾岸地域の石油君主国から財政的支援やメディアによる支援を享受していたからである。
結果として、その地域で発展したことは、革命と反革命という古典的な二極対立ではなかった。それは三極的状況であり、その中には進歩的極――反乱を始め、反乱の支配的野心を代表していたグループ、政党、ネットワーク――が含まれた。
この極は組織的には弱体だった。例外はチュニジアで、強力な労働運動が政治的左翼の弱さを補い、チュニジアでの反乱が大統領を辞任させ、地域的な衝撃波を爆発させるという最初の勝利を記録することを可能にした。
他方では、反革命的できわめて反動的な二つの極がある。一つ目は主要な反革命勢力を古典的に代表する旧体制であり、二つ目はこの旧体制と競いながら、権力掌握を目指しているイスラム原理主義勢力である。この三極間の争いにおいて、進歩的極、つまり革命的潮流はすぐに周縁化してしまった。その理由は、組織的・物質的弱さだけではなく、政治的弱さであり戦略的ビジョンの欠如だった。

経験の中から新しい世代が成長


それにもかかわらず、新たな世代、つまり二〇一一年アラブの春の間に、そしてその後に成人に達した新たな世代が大規模に闘争に参入してきた。この新たな世代の大部分は根本的な進歩的転換を熱望している。彼らはよりよい社会状況、自由、民主主義、社会的正義、平等、ジェンダーからの解放を熱望している。彼らは新自由主義政策を拒否し、自らの目標に向けさせるために反乱を乗っ取った、あるいは乗っ取ろうとしたイスラム原理主義勢力の計画的な見方と鋭く対立する社会を夢見ている。
二〇一八年一二月のスーダンでの反乱で始まり、二〇一九年二月のアルジェリアの反乱がそれに続き、二〇一九年一〇月以降のレバノン、イラクでの大衆的な社会的・政治的抗議へと連なる二回目の革命的波において、進歩派の巨大な可能性が前面に戻ってきた。スーダン、アルジェリア、イラク、レバノンがそのとき以来燃えたぎっている一方で、その地域の他の国ではどこでも爆発の瀬戸際にある。新型コロナウイルスのパンデミックが革命プロセスを一時的に中断させた――アルジェリアの毎週の大衆的デモやイラク・レバノンでの様々な形態の抗議運動を終わらせた――ことは間違いないが、はじめに反乱に火を点けた状況を悪化させるだけだろう。
長期化した革命プロセスは、二〇一一年以降にアラブ地域で展開されているように、経験とノウハウを累積させている。それらは学習曲線である。諸国民衆、大衆運動、革命派が学習する一方で、確かに反動派もまた学習しているのだ。つまり、誰もが学習しているということになる。長期的な革命プロセスは反乱と反革命的巻き返しの波の継続である。しかし、こうした波は単なる同じパターンの繰り返しではない。そのプロセスは循環しているのではない。革命プロセスは前進しなければならない、さもないと後退するだけだ。人々は以前の経験から得た教訓を活かして、同じ過ちを繰り返したり、同じ罠にかかったりしないように全力を尽くす。これはスーダンの場合には明らかだが、アルジェリア、イラク、レバノンでもそうである。
スーダンとアルジェリアは、エジプトとともに、その地域で、軍部が中心的な政治的支配機構を構成している国である。もちろん、一般的には軍事機構が諸国家のバックボーンである。しかし、アラブ地域のこれら三カ国に特有なのは政治権力を軍部が直接に支配している点にある。これらの体制は家産制ではない。その構成員が何を望んでいるにしても、それを作るまでは国家を所有する家族はいない。国家はその代わりに軍部の高級幹部によって同志的に支配されている。それらは「ネオ家産制」体制である。こうした国家は、縁故主義、えこひいき、汚職によって特徴付けられているが、ある家族が国家を完全に支配してはいない。国家は制度的には支配者個人から分離した状態だ。
このことが、これら三カ国において、軍部が体制を守るために最終的に大統領やその取り巻き連中を排除した理由を説明する。それが二〇一一年のエジプトでのムバラク解任、昨年のアルジェリアでのブーテフリカ大統領の辞任、スーダンでのバシール打倒において起こったことであり、三カ国ではすべてで軍部がそれを遂行したのだった。しかしながら、これがエジプトで起こったとき、人々の中には軍部に対する巨大な幻想があった。その幻想は二〇一三年に軍部がムスリム同胞団のモルシ大統領を退任させたときに更新された。こうした幻想は二〇一九年のスーダンやアルジェリアでは繰り返されなかった。それどころか、両国における民衆運動は、自分たちが排除したいと願っている体制の大黒柱を構成しているのが軍部であることを十分に知っていた。

スーダンの注目すべき新事例

 しかし、スーダンで現に作用している相違点はそれ以上のものがある。地域でのこれまでの経験すべてから引き出された教訓を認識し、それを体現する指導部があるのだ。これはスーダン専門職協会(SPA)の役割に負うところが大きい。SPAは二〇一六年に教員、ジャーナリスト、医師、その他の専門職が地下ネットワークを組織したことに端を発する。二〇一八年一二月に開始された反乱が広がるにつれて、SPAは労働者階級の中心的部門の労働組合を含んで、さらに大きなネットワークへと発展していった。それは諸事件において、大衆運動の側での中心的な役割を果たしてきた。SPAはまた、いくつかの政党やグループを含む広範な政治連合の形成を手助けした。こうした勢力は現在でも軍部との政治闘争にかかわっている。彼らは一時的な妥協に合意した。それは、一九一七年二月の後のロシアの状況を思い出させるような二重権力的状況と言えるものを取り決めたものだった。スーダンは、民衆運動の指導部が軍部の司令官とともに代表となっている評議会によって統治されている。これは長くは続かない不安定な過渡期である。遅かれ早かれ、二つの権力のうちの一つが他に打ち勝たなければならない。そのことは必然的に分裂を引き起こすだろう。
しかし、スーダン革命の真の先鋒は「抵抗委員会」のネットワークによって構成されている。それには何千人という、国中の大都市居住区や小都市に住む、大半は若者で政治的に組織されていない人々によって構成されている。こうした委員会は既存の政党に対して挑戦的であり、自分たちの行動や声明が中央集権化されることを拒否し、各地域の自律性を維持することを主張している。彼らは、オマール・アル・バシールのもとで権力に就いていたがゆえに、イスラム原理主義と軍事支配の両方に根本的に反対している。彼らはSPAが自分たちのために話す権限を与えることを決定したが、全政治プロセスに批判的な圧力を行使するとともに、SPAを用心深い監視のもとに置き続けている。

女性の登場が非常に重要な特徴


アルジェリアにおける大衆運動は、一年以上にわたって、驚くべきことだが毎週の巨大な大衆的デモをおこなってきた。そのスタミナは本当に卓越したものだ。しかし、その大衆運動には公認の正統的な指導部はいない。誰も指導部を名乗って話をするのを求めることはできない。これはスーダンとははっきりとした対照をなしていて、明白な弱点である。当然にも指導部の形態は時代とともに変化するが、われわれは「指導部なき革命」というポストモダンの時代に入ったわけではない。中にはそう信じたい者がいるようだが。指導部を持たないことは、現実に大きな影響を及ぼす障害物となっている。政治的目標に向けて大衆運動を強化することに集中するためには、公認された指導部は決定的である。矛盾を抱えてはいるが、これはスーダンには存在している。しかし、アルジェリアにも、イラクやレバノンにも存在していない。
アラブ地域での革命プロセスの第二の波において、女性の役割はもう一つの非常に重大な特徴であり、大衆運動によって達成された高いレベルでの成熟を示すさらなる兆候である。スーダン、アルジェリア、レバノンでは、多数の女性がデモ行進や大衆集会に目に見える形で参加するだけでなく、そうした行動を指揮したのである。これら三カ国では、フェミニストは反乱を構成するグループの重要な構成員となってきた。抗議行動の最初の段階では女性がほとんど登場していなかったイラクでさえ、とりわけ学生たちが動員に参加して以降は、女性の参加がますます増えてきた。
アルジェリア、イラク、レバノンでの大きな問題は、明らかに次のようなことである。すなわち、大衆的動員が持続していること、および抑圧的政府が干渉する新たな機会が新型コロナウイルスの脅威によって提供されていることが情勢を形作っている中で、スーダンの兄弟姉妹たちがしてきたように、自分たちの闘いの影響力を拡大し、目的達成に向けた重要なステップを踏み出すために、大衆運動が組織する方法を見つけ出すことに成功するかどうか、あるいは支配階級が三カ国の反乱を一つ一つ鎮圧・無力化してしまうのか、という問題である。スーダン革命の運命は、地域の革命プロセスに全体として非常に大きな影響を与えるだろう。前に横たわる挑戦の困難さを考えれば、楽観することはできないにしても、希望のための土台はあるのだ。
(2020年7月26日)

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