イタリア共産主義再建党(PRC)の現状と課題

リビオ・マイタン

 3月18日から4日間、イタリア共産主義再建党(PRC)の第四回臨時大会が開催された。PRCは昨年秋、プローディ政権の新自由主義的経済政策に反対し、予算案に反対して閣外協力を撤回した。これをめぐってPRCは分裂し、党内にも対立が生じた。臨時大会は、これを克服するということで開かれた。リビオ・マイタンはPRC内第四インター派の指導者である。(「インターナショナル・ビューポイント」6月号)

1999年の党大会

 1991年に創設された共産主義再建党(PRC)のこれまでの歴史は波乱にみちたものである。創設時の7人の指導者のうち残っているのはビアンカ・ブラッチトルーシとグイード・カッペローニの2人だけである。どちらももはや中央指導部に加わっていない。ルチオ・リベルティーニは死去し、その他のメンバー――アルマンド・コスッタ(元PRC議長)、セルジオ・ガラヴィーニ(元第一書記)、エルシリア・サルヴァートおよびリノ・セルリ――はすべて分裂して出ていった。
 1999年の大会は、PRCが中道左派連立政府を支持しなくなることに反対するチャンスをアルマンド・コスッタの少数派にあたえるために開催された。コスッタは昨年10月にPRCから分裂し、大会の目的がはっきりしなくなった。組織から離れた反対グループとの分裂を修復するための大会だろうか。
 戦略的諸問題を取り上げ、党のコンセプトと機能について討論することはもちろん必要なことである。しかし、2カ月間という準備討論でそのような大会を実現することは不可能である。
 多数派は、現局面における党の政策を明白にすることが大会の課題であると主張した。左翼の全般的路線の策定はこの大会と次の大会のあいだの課題として設定されていた。

大会における討論から

 このような状況のもとで、1999年の大会は前の二つの大会のような重要性をもちえなかった――1994年の大会は選挙を前にして政治連合の問題を議論し、1996年の大会は議会の多数ブロックへの参加の問題を取り上げた。
 その結果、1999年大会における代議員の討論は散漫で、現実の政策をめぐる討論はほとんど見られなかった。指導機関の構成をめぐって多数派内部で不明朗な闘争が展開された。
 党指導者のファウスト・ベルティノッティがおこなった主報告は、現に進行しているPRCの急進化、中道左派連立政府に対する反対、連立政府の中心である左翼民主党に対する批判、反帝国主義の立場などを確認した。
 ベルティノッティはその報告の冒頭をゲヴァラからのクルド語による次のような引用でかざった――「世界のいかなるところでなされた誰に対する不正であっても、われわれはそれをみずから深く感じなければならず、ここに革命家の最良の資質がある」。
 この国際主義的基調は百人以上の外国代表がゲストとして参加していることによっても示された。ヨーロッパ各国の共産党、キューバ・北朝鮮・ラテンアメリカ諸国・南アフリカなどの諸組織、多くの発展途上諸国の反帝国主義組織、環境グループ、フランスの革命的共産主義者同盟(LCR)のような最左翼の組織などの代表が招待されていたし、第四インターナショナルの代表としてフランソワ・ヴェルカマンも招かれていた。
 ベルティノッティはPRCが抱えている戦略問題のすべてについて答えようとはしなかった。彼は基本的政治路線と中道左派政府に対抗するPRC戦略の問題を主として取り上げ、次のように主張した――すなわち、現実の国際的・国内的力関係のもとにあって、PRCの当面する課題は、資本主義の枠を越えるものではないが、新自由主義の経済的・イデオロギー的側面とするどく断絶する独自の社会的プロジェクトを定式化することである、と。
 彼は新ケインズ主義経済政策について述べ、ブルジョア民主主義の権威主義化に反対しなければならないと指摘した。私はベルティノッティによる定式化そのものには同意できないが、われわれが努力を集中すべき問題があることについて彼と同意見である。つまり、きわめて不利な状況下における過渡的な目標である。
 明白な優先的課題は、政府がイタリアの選挙制度を比例代表方式から「比較多数得票方式」に変更するために実施する国民投票に反対することだった。選挙システムが変更されると、PRCが10~一2パーセントの票を獲得しても、議員を確保できなくなるだろう。
 自治体、地方およびヨーロッパ選挙について、ベルティノッティはPRCと中道左派勢力との選挙協定を主張したが、中道勢力や中道右派勢力との協定には反対した。彼は、政策面で相互接近が可能であると主張した。
 党内の一部の左翼潮流は、PRCは中道左派政府と訣別したので、地方レベルでブロック政策をとるべきでないと主張した。私はそこまで主張するつもりはない。多くの地方において真の問題は、政策上の合意が文書として形式的に存在しているが、現実の行動において中道左派諸政党によって順守されていないというところにある。ローマ市長のフランチェスコ・ルテリは一連の民営化を準備しているが、これはPRCとの市レベルの政策協定と明らかに矛盾している。
 ベルティノッティは新大統領の選出で中道左派と提携する可能性について指摘したが、これは考えられることである。というのも、右翼の候補は大統領制にもとづく権威主義的方向に憲法を改悪しようとするかもしれないからである。ベルティノッティは元首相で中道左派政府の経済相であるカルロ・アゼグリオ・チャンピを支持しているが、われわれはチャンピを支持できない。

左翼反対派の優先課題

 全国指導部――全国政治評議会(CPN)――内の左翼反対派の半分(私とフランコ・トゥリグリアットのグループ)は、PRCが政府多数派ブロックから離脱するという決議案を支持した。左翼反対派の他の半分であるマルコ・フェルランドとフランコ・グリソリアのグループはPRCの政府ブロックからの離脱を支持したが独自の決議案を提出した。
 トゥリグリアットと私は独自の決議案の必要性を認めなかった。というのも、PRCはベルティノッティ指導部のもとでふたたび左傾化しつつあり、また党大会の中心問題は当面の政治路線であり、PRCの戦略と性格の問題はこの大会で取り上げられないことになっていたからである。
 われわれにとって優先的課題は、PRCの活動を刷新し、日常の闘争への介入、社会的基盤の構築および各級党組織の建設に向けて党活動を大きく転換させることだった。
 PRCの複数主義的あり方の再確認と戦略問題をめぐる討論を今後の大会にゆだねるという多数派の決定のうえで、われわれは多数派潮流に参加することにした。
 ベルティノッティの全国政治評議会文書がPRCによるプロディ政府支持を否定的に総括することを避けているのは事実である。しかし、われわれの態度決定は過去についての不一致だけに基づくべきではない。現時点における考え方の接近が重要である。
 少数派のマルコ・フェルランドとフランコ・グリソリアのグループは、プロディ政府支持について自己批判することが不可欠であると主張した。ベルティノッティの方向転換とPRCの野党への移行が局面的な短期的振れにすぎないし、ベルティノッティ潮流はチャンスさえあればいつでも中道左派に揺り戻すことができると彼らは警告した。
 この主張に根拠がないわけではない。しかし、このグループの決議案は絶対的真理と一般論に終始するものだった。それは宣伝主義的な文書であり、PRCあるいはその大多数が向かうべき具体的な活動路線について提案していなかった。このグループがどのような基礎のうえで革命的潮流を建設しようとしているかがはっきりしないものだった。
 この少数派は5300(16パーセント)の代議員票を獲得したが、1996年の大会におけるもっと大きな少数派の票数は八千を上まわっていた。いずれの大会においても「トロツキスト」であると自認しているものは非常に少数である。この少数派に流れた票の多くは新規または再加入したPRCメンバーのものやかなり多数の抗議票であり、以前の少数派のかなり多くがベルティノッティの多数派潮流を支持したことは明白である。

指導機関構成の問題点

 新しいPRC指導機関の構成をめぐって非常に難しい議論が展開され、その結果は思わしくなく、PRCの将来にとって暗い影になるものだった。
 PRCそのものは世界でもっとも民主主義的な労働者政党である。党内の複数主義はまがいものではない。すべてのメンバーは党内外の集まりや刊行物で自由に意見を表明することができる。地方党組織は対立する大会文書を討論するし、大会が終わるとき各潮流はその比重に対応した数のメンバーを党指導部に送り込むことができる。
 しかし以下のような問題がある。
地方組織の大会準備討論に参加したのは47パーセントのメンバーにすぎない。
大会決定はすべての地方組織票を集計しておこなわれるので、代議員が討論のうえで自己の意見を変える可能性はほとんどない。
党指導部が各地方組織の候補リストを作成し、これにはしばしば「所属外の人間」が含まれる。ローマの組織は26人の代議員を選出するが、そのうち10人がそのような「ローマ以外の人間」の推薦だった。ただ一つの地方組織が、中央指導部の推薦を無視し、すべての代議員をみずから決めたにすぎない。
修正案を提出するものは、地方組織の大会準備会議または大会そのものにおいて、その議論を展開することができない。
250人のメンバーによって構成される全国政治評議会(CPN)によっって退けられた修正案は大会討論文書でも発表されない。
全国大会に提出できる修正案は、一つの部門または地方組織の多数による支持をまえもって獲得していなければならない。
 その結果、数百の修正案が全国大会に提出され、不幸にして私もそのメンバーになった小委員会が大会討論に付されるべき修正案を決めなければならなかった。ほとんどすべての修正案が退けられた。
 大会の終了まぎわになり、ほとんどの代議員が帰る支度を始めた頃、いくつかの修正案が討論にかけられ、短時間のうちに採決にふされ、すべて圧倒的多数で否決された。そのなかには反対派の性格に関する私の修正案も含まれていたが、これはミラノやトリノのその他の地方組織の支持を獲得していた。われわれの潮流は、党機能、闘争の反資本主義的性格ならびに党が採用すべき戦術に関する修正案を提出していた。
 役員選考委員会は、かなりの努力のうえで、定員250人の指導機関である全国政治評議会(CPN)の375人の候補者リストを提出した。役員選考委員会の「議長をつとめた」のは組織担当書記(書記局メンバー)だった。彼は、CPNの62人の枠が「中央機構のために確保される」と報告した。しかし彼は62人の名前を明らかにせず、またその選出基準も最後のぎりぎりになるまで明らかにされなかった。
 当然ながら、代議員たちはこれに不満をしめした。女性代議員や青年部門の指導者その他によって提出された反対提案は偽善的な発言や詭弁によって退けられた。
 私が所属している潮流は30人のCPNメンバーを獲得したが、これはPRC内部におけるわれわれの比重と比較して小さな割合になる。さらに上の指導機関では、この不釣り合いはさらに大きくなる。さまざまな傾向と社会運動はさらに上部の小さな機関である全国指導部(DN)において不当に少ない代表を割り当てられている。

左傾化を生かすために

 しかし指導部潮流に対する警告決議が採択され、多数派の600人の代議員のうち三分の一がこの採決で棄権するか、指導部に反対した。
 PRCの日刊紙である『リベラツィオーネ』は大会のさまざまな票決について完全な報告を掲載していない。このような状況は、われわれが追求している透明な政治にほど遠いものである。
 この党大会は、コスッタの分裂と中道左派政府支持の放棄以後、PRCが左傾化しつつあることを示した。その結果、われわれの今後の闘争にとって有利な状況がつくりだされ、われわれがイタリア労働者階級に介入し、その社会的現実のなかに基盤を構築する可能性が拡大している。
 しかし党についてのコンセプトとその内部機能に関しては何らの改善も認められなかったし、このことはきわめて悲しむべきことである。というのも、PRCの機能がもっと民主的で透明であればはるかに効果的に取り組むことができる重大な闘争課題を抱えているからである。
 PRCのメンバー数は12~13万で浮動している。1998年10月の分裂によってメンバーを失ったが、その減少数を上まわる数の新しいメンバーがPRCに加わっている。またPRC党員のメンバー更新も以前より高い水準に到達しているようである。
 しかしメンバーの離党率も依然としてかなり高いようである(この数年の離党率は最高30パーセントである)。
 PRCメンバーの当面する課題は、社会運動と労働運動における活動を強化し、われわれの介入を拡大し、PRCの潜在的可能性の全面的活用を妨げているわれわれのあり方と習慣を克服することである。


[リビオ・マイタンはPRCのバンディエラ・ロッサ派の支持者で、第四インターナショナルの指導的メンバーである。リビオ・マイタンとバンディエラ・ロッサ派のフランコ・トゥリグリアット同志は全国政治評議会(CPN)と全国指導部(DN)に選出された。]
(この論文の英語テキストとその他の背景資料(英語)が以下に収録されているwww.internationalen.se/sp/ivp.htm)。

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