ドイツ・体制内化完了を確認した緑の党臨時大会

ダビッド・ミュラー

 NATO軍によるユーゴ空爆が続く5月13日、ドイツ西部の都市ビーレフェルトで開催された緑の党臨時大会は、党幹部会が提出したフィッシャー外相のコソボ政策を支持する決議案を賛成多数で可決した。それは、80年代に大衆運動の後退とともに進行してきた緑の党の体制内政党化が完了したことを、あらためて確認するものであった。党内左派は後退し、混乱を深め、分解し、あるいは離党した。EUの多国籍企業の論理から独立した大衆運動を再生しようとする道にしか展望はない。


体制内中流層の党へ

 ビーレフェルトで最近行われた臨時大会は、緑の党が、体制に批判的な運動の党から、ドイツの体制側の教育のある中流層の党に一新されるという発展を完了させたことを示すものになった。
 少数派の多くは、社会民主党政権への緑の党の参加によって押しつけられた規律に不満を抱いている。ユーゴスラビアに対するNATOの戦争の一部を担う政権への参加は、妥協を許すものではない。「左翼」と親政府の「レアロス」(現実派)との分裂は、避けられないように見える。
 エコロジカルな緑の党は、1980年に明確な左翼のプロジェクトとして設立された。新しい組織に最も重要な社会的影響を与えたのは、平和運動、60年代の急進派、原子力発電への反対派、そして「新しい社会運動」の活動家だった。彼らは議会に社会的抵抗の要求を持ち込もうとした。しかし運動の「運動的」翼と「議会的」翼とは真に統合されなかった。ぎこちない共存の後で、二つの方針は衝突するようになった。
 1982年10月にヘルムート・コールが連邦首相に選出され、1983年以後平和・反核運動が後退するにつれて、「社会運動」に力点を置く左派の立場はいっそう困難になっていった。
 ラディカル・エコロジストのユッタ・ディトフュルトとマンフレッド・シーランス、エコ社会主義者のトーマス・エバーマンとライナー・トランペルトが、活動的な中間党員層の堅固な支持を得ていたために緑の党をリードし続けた。こうしたメンバーは、党にかかわっていただけではなく、衰退しつつあった社会運動の構造や他の下からのイニシアティブにもかかわっていた。この傾向は、左翼オルタナティブや左翼ラディカル的な雰囲気と多くのつながりを有していた。
 1987年5月に開かれた緑の党の全国大会は、その時行われた住民調査のボイコットを圧倒的な多数で支持した。また党は、鉄鋼産業の社会化という左派労組の要求をも支持した。
 しかし社会運動と党外の左派潮流の着実な衰退は、党内の「現実政治」路線を強めた。社会民主党(SPD)との連合は、緑の党左派の骨の折れる下部からの努力――それはいずれにせよ、ますます大衆的な基盤を欠くものになっていた――よりも、より速やかな社会変革のルートを提供するように見えた。
 周辺の左翼的環境の政治的孤立化が進行していったことは、緑の党左派内部の順応的傾向を強めた。それとともに辛抱強い政治よりも挑発的活動に傾く傾向も強まった。
 緑の党内の左派の終わりの始まりは、1987年10月にやってきた。全国スポークスパースンのユッタ・ディトフュルトは赤軍派(1970年代の極左武装闘争グループ)の獄中メンバー釈放のキャンペーンを開始した。これは正当な要求だったが、このキャンペーンはほとんど党に展望を与えるものではなかった。
 その後に起こった闘争は、伝統的な緑の党左派の浸食をもたらした。その信奉者の大部分はさらに不活動的になったり、党内のより穏健な傾向に向かった。社会運動からの圧力が不在のままに、左派が社民党主導の政権に参加したことは、よりいっそうの順応をもたらした。

体制順応のプロセス

 党は1990年の選挙で間違った判断をした。その選挙はドイツ民主共和国(DDR、東独)との統一が中心の問題だった。緑の党は「だれもがドイツについて語っている。われわれは天候について語っている」というスローガンで、環境を焦点にすることを選んだ。有権者は党を見捨てた。緑の党は西ドイツで4・8%しか獲得しなかった(議席を得るためには5%が必要である)。
 この年の後半にトーマス・エバーマンを中心とするエコ社会主義者が離党した。ドイツ再統一に反対するラディカルな批判を求めたためである。この潮流からは恒常的ななにものも発展しなかった。翌年、ラディカルなエコロジストも離党し「エコロジカル左翼」を結成した。それはユッタ・ディトフュルトの個人的な取り巻きとエコ自治主義者の奇妙な混合だった。
 湾岸戦争の最中、「現実政治」派の一連の人びとは、党が戦争への支持を拒否したことを批判した。多くの党員は反戦抗議行動に参加したが、党として行動したわけではなく、緑としての特別の内容を訴えることもなかった。
 1991年末までに伝統的左派は緑の党から押し出された。残った人びとは党指導部と休戦する結果となった。しかしユルゲン・トリッティンを中心とする新しい左派は、彼ら自身の支持者を、政府や市民サービス事業の中で増大する緑の党が持つ地位に昇進させる雇用紹介機関の担い手へと、徐々に変質していった。彼らは「レアロ」(現実派)陣営内での新自由主義的立場が継続的に発展していくことにほとんど反対しなかった。党内の「左派」は、SPDとの連合という戦略的目標を受け入れ、あらゆる決定的な問題において自らの綱領を軽視することになった。
 もちろん緑の党の変化は支持者との関係だけで説明できるわけではない。緑の党が1980年代初期に生み出されてきた古い左翼的環境は収縮し続けた。以前の若い反逆的インテリゲンツィアは、多くが体制の一部になった。
 古い左派党員は緑の党から去っていった。例えばハノーヴァーの党員の70%以上は、1995年以後の入党者である。新規入党者は、社会的政治の経験をほとんど持っていない。彼らは、キリスト教民主同盟–自由民主党政権の下での長年にわたるドイツの「右転換」から重大な影響を受けている。緑の党の若い職員の一部は、それが有力なキャリアを積む最も早い道だから党に加盟した、ということを公然と認めている。
 順応のプロセスは、社会民主党–緑の全国連立政権の形成によって大きく加速された。選挙のかなり前から、ヨシュカ・フィッシャーを中心とする緑の党指導部は、党がドイツ軍を戦闘状況の中に派遣する(第二次大戦以来初めて)用意がある場合にのみ、SPDは緑の党を連立政権に招き入れるだろうということを理解していた。
 緑の党の大部分の党員が、政権への参加に取りつかれていたことは明らかだった。ユーゴスラビアの残存部分における戦争へのドイツの参加について、党の左派は討論さえしななかった。選挙前にこうした問題について緑の党と討論しようという試みは、不成功に終わった。その問題はまったく愚にもつかないことと見なされたからである。
 連立政権の最初の1カ月で、多くの左派党員、さらには一部の批判的な「現実」派の中でさえも、覚醒が引き起こされた。
 ラフォンテーヌ蔵相の辞任は、党員の多数を意気消沈させた。緑の党の左派は、連立政権と距離を取りはじめ、全国代表者会議の準備のために「緑の一般党員」のためのイニシアティブといった独自の構造を形成しはじめた。
 「現実」派の中では、抑制された歓迎気運があった。ラフォンテーヌの退任は、彼ら自身の新自由主義的方針を採用させる有利なチャンスを意味したからである。支配権力への完全な順応という現実政治路線は、コソボの戦争で凱歌をあげた。

体制順応のプロセス

 ビーレフェルトでの全国代表大会では、緑の党の立場が驚くほどのバラエティーをもって現れた。党の新自由主義派の拠点であるバーデン–ヴュルテンベルク州からの動議は、連邦政府の政策を支持した。また全国執行部の動議は、緑の党党員であるドイツ外相への支持をNATOの爆撃の一時停止の要求と結びつけるものであった。両方の提案には、NATOへのいかなる深い批判も欠如していた。
 クリスチャン・ストレーベルなどの提出した立場表明文書は、「現実」派の立場に反対し、NATOによる攻撃の一方的停止を呼びかけた。それは、西側諸国の動機への評価を含んではいなかった――おそらくは戦術的理由から。ハンブルクと低地ザクセンの残存原理主義派によるきっぱりとした左翼的動議は多くの正しい指摘を行ったが、最初から支持を得るチャンスはなかった。
 現実政治派の陣営では、連立の維持が中心課題だった。他のところでは眠気をもよおすようなルドガー・フォルメルは、ノルトライン・ウエストファリア州の環境相を「ヨシュカ」(フィッシャー)の立場を掘り崩すものとして非難し、怒りを爆発させた。NATOがコソボとクルディスタンに対して裏表のある態度をとっているといった問題ぶくみの課題については、ヨシュカ・フィッシャーやアンゲリカ・ベールの演説ではまったく言及されなかった。
 左派の論議はいくつかの問題でははるかにましなものだったが、連立政権の規律という限界を背負っていた。NATO、さらにドイツの戦争目的の分析でさえ、大きく欠落していた。ロシアではつねに劇的な展開を見せている西側の影響圏の創設という問題も、討議されなかった。コソボのアルバニア人への関心もなかった。
 左派の沈黙は、紛争の分析が不十分な結果であるとともに、こうした抑制によって多数を獲得するという希望をなお保持していたためである。
 左派の指導的人格であるユルゲン・トリッティン連邦政府環境相は、あまりに規律に縛られていたために発言すらしなかった。彼の沈黙は、左派の困難を増加させた。結局全国執行部の動議は、444人の代議員の支持で受け入れられた。それに対してクリスチャン・ストレーベルなどの左派提案の支持は318だった。
 承認された提案は、戦術的狡猾さの古典的一例である。NATOによる爆撃の一時停止という要求は、会議で批判的「現実」派が多数を獲得することを確信させるに十分なものだった。同時にそれが政府の政策や、緑の党の国会議員団にさえ影響を与えないものであることは、ほとんどの参加者にとって明白であった。
 これは緑の党の新しい道である。この大会まで緑の党は、諸決議と現実政策が最も密接に一致していた議会政党だった。
 連邦議会内の緑の党議員団は、「交渉による解決」の追求を「危険にさらさない」ようにするためにセルビアへの爆撃を中止するという要求を行ったり、それを支持したりしないことをすでに明らかにしてきた。
 党大会の数週間後、NATOによる攻撃は拡大し、さらに多くの民間施設を目標とした爆撃が行われた。大会決議がNATO地上軍の使用を拒否したにもかかわらず、党の多数派による「ドイツ外交政策」(ヨシュカ・フィッシャーが提起した)への支持は、地上軍の使用に道を開いた。

党内左派のとるべき道

 敗北した緑の党左派は、この先いかに進むかをいまだに決めていない。おそらく「緑」左派かオルタナティブ左派のネットワークが党外に形成されるだろう。彼ら自身の党の結成から戦争に反対する左派のネットワークの創出にいたる、さまざまな可能性が討論中である。緑の党左派のネットワークは6月6日に作られたが、それは元気に満ちたとは決して言えない状況の中でなされた。すでに緑の党を離れていた参加者は、欧州議会選挙で緑の党に投票することをきっぱりと拒絶する決議を押しつけた。これは不必要に会議を分極化させ、いまだ緑の党内部にいる人々を遠ざけるものだった。
 大規模な反戦運動の発展がなければ、このように失望した緑の党左派の唯一の避難所は、旧共産党の民主的社会主義者党(PDS――東独の元支配政党)であるように思われる。緑の党左派のほとんどの人びとは、社会運動の中で下部からの新たな「長征」活動を行うエネルギーや忍耐を持ち合わせていない。しかし当面のところ、多くの緑の党左派にとってPDSはタブーの問題である。
 緑の党の左派や異論派が直面する最重要の問題は、コソボでの戦争である。共同活動の多くの可能性が存在している。一部の左翼主義者が、「NATO粉砕、まず手はじめに緑の党から」というテーマの人形劇を組織するという間違った考えを持っているにもかかわらずである。
 戦争についての不安が増大している。左派は、少なくともこの不安を抗議に転化するチャンスを手にしている。それは容易なことではない。しかし進むべき道は明らかである。広範に認められた連合の構造を作りだし、NATOによる攻撃に反対しコソボ住民の権利を支持する動員を行うことである。
(「インターナショナルビューポイント」99年7月号、ドイツ語版「インプレコール」より)   

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