フランス・警察反対運動の大衆化

警察廃止要求をどう考えるか
権力の根幹への疑問突きつけ
全体的政治構想提示が重要

ジュリアン・サリンゲ

 フランスの「主流メディア」は、これを正確には伝えてこなかったが、レイシズムと警察の暴力に反対する歴史的な決起のおかげで、一つの要求、すなわち警察の廃止という要求が大西洋を越えて進んできた。一般には刑務所の廃止をも主唱したいくつかの小グループの専売特許であったこのスローガンは今日、ますます幅広いサークルで議論され、今やある種全国的キャンペーン「♯8to―Abolition」の主題となっている。
 これは明らかに今も少数派だが、しかしそれは、二、三週前には誰もうすうすであれ気付くことができなかったと思われるような規模をもつことになった。そして公衆的論争に向けて、その急進主義にその単純さだけが見合うような一つの疑問を提起している。すなわち、われわれは警察を廃止すべきなのか、と。

権力縮小、武装解除、解散

 警察廃止のスローガンは米国で、実際に「権力縮小、武装解除、解散」という三つ揃いを軸に組み上げられている。それは、特に市民団体「警察なき世界」によって主唱された、一つの思慮に富んだ戦略であり、警察廃止要求とそれに反対して作られる可能性のある主な異議の中にある諸矛盾を考慮に入れる、行動と要求の一つの綱領だ(注一)。
警察の権力を縮小することは、新規警察署建設、新部隊創出、非常大権や警察の関与領域の拡張、新規募集運動、その他に反対することを意味する。「警察から資金を引きあげる」という「攻勢的な」スローガンは、警官組合のAFL―CIO労組連合からの排除という要求同様、デモの中でますます取り上げられている。そして後者の要求もまた、権力縮小の弾みに加わると思われる。
警察の武装解除は、具体的に、また権力縮小のスローガンと相関的に一体となり、警察の過剰装備問題、法執行の軍事化プロセス、さらにこれを超えて、諸々の社会関係が抱える暴力の拡大における警察の責任に取り組むことを意味している。それは、確立された秩序の保証者が巧妙に維持している伝説とは逆に、警察がもつ武器は社会的な諸関係を静めるために使用されてはいず、逆にもっと多くの暴力を生み出すことに力を貸している、という事実を指摘するものだ。
警察の解散は最終的に、それが「保護する」と主張している住民を抑圧していることを理由に、警察部隊の廃止を求めることを意味している。米国でそれは、権力縮小と武装解除をまず通過すると思われるプロセスの頂点としてではなく、先の二つのスローガンと接合されると理解されている主張だ。そしてそれは、論争を招く問題、つまり警察を取り除くとしてしかし君たちはその場に何を置くことになるのか、あるいは別の形として、警察には確かに問題があるが、しかしそれが除かれた場合もっと多くの問題が起きてくるのでは、などの問題に大胆に立ち向かう要求だ。

警察なしにことは済むか


これらの諸疑問、そしてそれらに対して行われた「古典的な」回答(すなわち、社会は警察なしには機能し得ない)は、諸々の心性に深く根を下ろした諸仮定で汚染されている。われわれはここで特に、エンゲルスが「国家およびそれに結びついたすべてのものに対する迷信的な崇敬」と呼んだものについて話している。それは「人々が子どもの時から、社会全体に共通なものごとと利害は、それらが過去に見守られてきたようなあり方の他では、つまり国家とその十分な報酬を受ける役人を通す以外では、見守られる可能性はない、と想像するのに馴染んでいる以上、より易々と根を下ろしている」(注二)。
六月一三日のデモを前にしたジャン・リュク・メランションの諸々の言明(「われわれには警察のない社会を夢見る権利がある。それは美しい夢だ。しかしそれは夢にすぎない。われわれは、思慮深く、組織された、共和国に従順な、またできる限り武器をもたない警察部隊を必要としている」)との類似性すべては、混じりけなく付合的だ……。
これらの仮定の一つは、警察は住民「保護」というそれらの使命で不可欠であり、紛争管理ではかけ替えのない要素、というものだ。それは、われわれが攻撃を受け、強奪に遭い、脅迫を受けたりするとき、われわれが向かう機関ではないのか? この事態はしかしながら、それが疑う余地がないように見えるとしても、時代を超えた社会的事実と考えられてはならない。
別の時代では、あるいは別の世界では、これらの機能は、住民から直接に発する、あるいは国家に従属しない他の組織によって行使される可能性を持っていた、また今もその可能性がある。この論評の制約上、われわれはこれらのさまざまな経験の詳細には入らず、以下の点を強調するだけにとどめたい。つまり、資本主義が形作っている社会におけるわれわれが知る限りの「警察」は、あらゆる構築物同様、破壊され得る社会的構築物、という点だ。
結局のところ重要なことは、与えられた社会あるいは共同体内部で現れる可能性のある問題含みの状況は、自決権を持つ、あるいは独自の機関の介入によってはじめて解決の可能性が生まれる、という考えをふりほどくことだ。これが、さまざまなイニシアチブ(紛争管理の訓練、暴力の犠牲者支援、居住地組織の設立、あるいは市民団体構築、その他)の中にある意義であり、それらはそうしたものとして、人々が警察に訴える「必要」なしにほとんどの問題を集団的に管理する可能性を得るための社会的紐帯を強化するという目標を遂行している。
ここでわれわれは明らかに、「自警団グループ」や他の民兵組織のことを話しているのではない。これらのグループは自らについて警察の支援者として考え、多くの場合もっと悪質な形で警察のふるまいを再生産している。われわれが話しているのはそうではなく、むしろ、実際に警察の介入の大部分を占めている中、低度紛争の解決がその目的である、自己組織化された諸グループのことだ。

戦略的展望としての理解が肝心


警察の廃止という問題、したがってそれらの不可欠な性格の問題、あるいはその不在という問題をもち出すことによって、こうしてわれわれは、その多重的属性に結びついている一定の混同類型と格闘している。
警察は、数多くの問題含みの状況において市民たちが向かうよう慣らされてきた、しかしまた社会的抗議を鎮圧するために国家が使用してもいる、その両者の機能を併せ持つ機関だ。しかしながら、警察が最大多数から見た時にその正統性を得ているのは、後者の機能からではなく、実際には前者からだ。その言われているところの「公共サービス」という役割の背後にある警察の原理的に抑圧的な役割を隠そうとして、現実の権力がつけ込んでいるものこそ、この混同類型なのだ。
これは、不公正な秩序の保証人である警察を、その秩序自身を解体することなしにわれわれが解体できる、ということを意味するだろうか? あるいはつまるところわれわれは、資本主義を取り除くことなしに警察をなくすことができるだろうか? 警察が資本主義の維持において一つの機能化された役割を果たしている以上、答えは明らかにノーだ。
警察廃止の要求が、今ここで満たされ得るスローガンとしてではなく、一つの指針として、一つの戦略的展望として理解されなければならない、というのはこの意味においてだ。二〇一六年、シカゴ・リーダー紙のジャーナリストであるマヤ・ドゥクサモヴァは、廃止主義のスローガンを実行に移そうと挑んだシカゴのグループについての調査を記事にした。その中で一人の証言者は次のように語った。つまり「私の考えでは、あなたはそれを、明日には実行可能なものというよりも、一つの目標や戦略として見なければならない。……私が廃止主義者の話をよく聞く時に分かるのは、刑務所や警察のない世界の建設は可能、ということなのだ」(注三)。
警察反対のキャンペーンやその介入を無用にする「対抗的制度」の確立は、以下のような大きな障害にぶつかっている。つまり、資本家支配のシステムにおける警察の中心的な役割がそれらに、特に深刻な暴力状況に直面している人々にとって今なお不可欠である地位を与えている、ということだ。
警察の「今ここでの」消失を主唱することは、この困難を無視することであり、それは、幻想、すなわちそれによれば国家廃絶の問題を提起することなく警察力に対する世界的なオルタナティブを建設できるという幻想、と闘う最悪の手段の一つだ。この意味で重要なことは、警察の力を低め彼らの暴力に反対して闘う即時的要求を、また警察は「必要な悪」ではないとはっきり示す可能性をもつ代わりになる実践を、さらに資本主義を打倒する全体的な政治的構想を、はっきり突き出すことだ。(フランスNPA機関紙「ランティカピタリスト」二〇二〇年六月二六日より)

▼筆者は、フランス反資本主義新党(NPA)、および第四インターナショナルのメンバーで、政治学研究者。

(注一)「警察なき世界」参照。
(注二)カール・マルクス、「フランスの内乱」への序文。
(注三)「シカゴ・リーダー」紙、二〇一六年八月二五日、「警察廃止? オルガナイザーは語る、それは響くほど常軌を逸してはいない」。(「インターナショナルビューポイント」二〇二〇年七月号) 

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