ロシア経済危機・誰がロシアの債務を支払うのか?

アンドレイ・コルガノフ

1 危機の原因は債務なのか

 一部の専門家は、ロシアの債務のレベルは危機的なものではなく、多くの諸国はもっと多くの負債を抱えているが同様の危機に陥ってはいない、と述べている。ロシアの国内債務は一九八〇年代を通じてGDPの約四〇%に達していたが、現在の対外債務はGDPの五〇%以下である。
 問題は利子と返済金の支払いである。一九九七年にロシアは千二百四十億ドルの債務を抱えており、年次の返済金支払い額は六十億ドルだった。一九九八年には対外債務は千四百十億ドルに増大し、要求されている返済額はすでに百五十億ドルになっている。
 こうした条件の下で、ロシアが財政的安定を回復することは不可能である。主要な問題は、対外債務をカバーするハードカレンシーの収入をふくめて、国家予算の収入の側に信頼性がないことである。連邦予算だけでは国家債務の通常の支払いをまかなえない。国家収入は、いかなる信頼しうる税収基盤にも基づいておらず、短期債券(GKO)の発行を通じた短期借り入れに深く依存している。
 人びとは一九九六年にさかのぼってGKOのピラミッドが崩壊する脅威について論じはじめた。一九九六年といえば、ボリス・エリツィンの選挙キャンペーンをまかなう必要から、政府が途方もない金利で国内からの借り入れを余儀なくされた時である。
 しかし、選挙運動さえないままに、国内と国外からの借り入れを通じて国家予算の赤字をまかなうというシステムは、国家が連邦予算収入の安定を確保し、国家証券の保有者がそれ相応の利払いを受け取ることを可能にさせる場合にのみ維持できる。しかし予算収入は落ち込み、それとともにカネにせっぱつまっている政府はまったくとてつもないレートで借り入れを行うことを強制された。
 したがって問題の根源は全般的な経済情勢にある。ボリス・エリツィンのチームは、ほぼ八年間におよぶ改革の年月の中で、国民経済の回復に失敗しただけではない。彼らはまた、経済の下降をストップすることもできなかったのである。それはほとんどの収入源を「ニュー・ロシア人」のポケットに入れる再分配を伴ったものであり、この「ニュー・ロシア人」は彼らの莫大な収入に対して以前から税金を払ったことがなく、現在も払わず、またこれからも払うつもりがないのである。
 リッチな階層、スーパーリッチな階層の存在は明白であるが、国家収入に占める個人所得からの税収の割合は一〇%以下である。残りは企業利得への課税と付加価値税(売り上げ税)からもたらされる。
 問題は、ロシアの深刻な経済危機が企業に非正統的な生き残り戦略を強制していることにある。一九九二~三年のルーブルの急速な価値下落は、現金流通と申告利益の急速な減少を引き起し、現金以外での取り引きを促した。
 現在のロシアでは、物品とサービスの交換の三分の二以上は貨幣によって仲介されず、物々交換の形態や相互負債という形で、あるいは一連の貨幣代替物の使用によってなされている。
 その結果、貨幣形態での利得はきわめて少ない。平均的なロシアの企業は、税と給与を同時に払うには不十分な貨幣しか所有していない。そのため、企業はお互いに負債を背負っているだけではなく、自分たちが雇う労働者にも国家にも負債を負っているのである。
 企業がうまくいっている所でも、本当の利益を隠し、課税を逃れる意識的な戦略として「非現金」システムがきわめて都合がよい。その不可避的な結果は、課税ベースの着実な減少と国庫収入の収縮である。
 不確実な債務によって相対的な社会的安寧の見せかけを維持しようとする政府の努力は、遅かれ早かれつねに国家的破産をもたらすことになった。この破産は、長い期間にわたって明白だったエリツィン政権の社会・経済政策全体の破産を公式に確認するものにすぎない。
 こうした経済情勢の下では銀行システムは安定しえない。経済の実質的セクター――貨幣信用システムを安定させる唯一の信頼しうる基盤――は、不況にたたきこまれている。銀行は生産に投資することがほとんどできず、彼らが所有する産業からいかなる利益をも引き出せていないことは確かである。産業の約半数は欠損を出しており、利潤の上がるごく少数の企業も、GKOの購入や取引を通じて作りだされる金額に比較しうる収入すら銀行に対して提供しえなかった。
 企業証券市場は今までのところ、主要に輸出向けの少数のエネルギー部門、原料資源部門の株式市場に等しいものであった。したがって不可避的に、銀行はその資金の多くをGKOに向けてきた。
 悪循環が作りだされた。国家はGKOを銀行に売却してそこから借り入れる以外には収入がなかった。次に銀行の側は、その存続自体がGKOの運用から生み出すことのできる収入に依存していた。したがってGKOでの利ざや稼ぎの崩壊は、たんに国家財政の崩壊にとどまらず企業財務の崩壊でもあった。自由に兌換可能な通貨、とりわけ米ドルは、ロシア市場に残された唯一の頼れる保障だった。ドルの需要が続いていること、ルーブルが下落し続けていることの理由がここにある。
 一九九八年八月十七日までは、ドルでなされていた金融取引は一八%にすぎなかった。現在ではこの比率は八六%近くになっている。銀行間信用の運用は、危機以前には取引の四〇%を占めていたが今ではたった一一%へと下落した。国家証券での取り引きは、危機以前の三%から現在では三九%へと急速に広がった。
 いずれにせよ一九九八年当初のロシア金融市場が「ノーマル」だったと考える者はいない。しかしそれは今日の腐朽と分解との対比では輝かしく見えるのである。

2 ロシアの金融危機で利益を得るのはだれか

 一九九八年初めまでに、すべての諸国の銀行家と金融投機家はある種の金融危機を予測していた。しかしそれぞれの銀行は、制限やセーフガードぬきで市場から最大限の短期利益を引き出す決意をしていた。高利払い付きの国債をもっともっと購入するために、銀行は貯金するカネを持っている市民や、なお貸し付けを行う意思を持っているあらゆる外国人に高利を提供した。
 ロシアの多くの銀行の民間対外債務は取り返しがつかないほどのものである。危機が噴出したとき、多くの銀行は自らの資産を盗んでしまったからである(それらの多くを持株会社、ある場合には域外の持株会社に移転した)。普通のロシア人の多くは、きわめて高い金利を提供していたこれらの銀行に彼らの生活貯金を預けるというワナにかけられていた。こうした市民はおそらくその貯金を永久に失うことになった。
 チェルノムイルジン政権とキリエンコ政権は、過大評価されたルーブルを頑強に防衛した。いまや独立エコノミストの多くは、一九九八年上半期においてルーブルを徐々に切り下げておけば、不可避的な金融危機の規模を縮小することになっただろうと信じている。
 それならばなぜ政府は固執したのだろうか。
 巨額の対外的・対内的借り入れと結びついた過大評価されたルーブルは、金融的安定とエリツィン政権の経済政策の成功という表面的な印象を作りだした。エリートはそれが幻影であることを知っていた。しかし「皇帝は裸だ」と最初に叫びたいと思う者はだれもいなかった。
 平価切り下げに抵抗する第二の理由は、政府が金融寡頭制に極度に依存していたことであった。内閣のメンバーや閣僚や当局の一員があれこれの銀行家に個人的に依存していただけではない(それははっきりと存在していたが)。政府高官の多くが自分自身、さまざまな銀行や金融会社と緊密に協力して、国債市場の金融的トリックに参加していたからである。
 ロシアのメディアは、こうした行為に関わっていた次官たち(財務次官の一人や中央銀行の副総裁をふくむ)と一体化していた。したがってエウゲニー・プリマコフ政権をふくむ諸政権が、国家予算という資産をはじめとして、顧客のカネを着服したり、盗んだりしている貸し付け銀行のトップに対して一貫した支持を与えていることに不思議はない。
 われわれはエリツィンの下でのすべての政権が、国際金融組織から強力な支援を受けてきたことを忘れるべきではない。ロシアのメディアは、政府閣僚とIMF高官との多くの通信を公刊してきたが、その中でこの国際機構が経済政策についての明快な指示を行っており、それは一連の政権によって忠実に採用された。
 IMFと世界銀行が申し出た信用のうちどれほどの額が、海外金融投資にともなう法的文書のないままに、ゴスコミムスチェストボ(資産についての国家委員会、現資産省)によって消費されたかを述べるのは、驚くほど困難である。ロシア連邦の主計局は巨大な不正がなされていることを認めたが、こうしたスキャンダルは部分的に公表されただけで、法的措置はとられてこなかった。
 ロシアがすべて引き受けた旧ソ連邦のものをふくむ債務の帳消しは、ロシア民衆の重荷を大きく救済するはずである。しかしこれまでのところ、ソ連対外債務のうちの六~七百億ドルに関する仮交渉が行われただけである。この債務の帳消しは、それがどれほどのものであっても積極的なステップであるが、それはロシア経済の再生に必要な条件に向かう最初のステップにすぎない。
 債務帳消しよりもさらに重要なのは、債務の再現を不可避的にもたらす国際金融機構に支援された諸政策を取りやめることである。
 しかし、国際金融資本が純粋な利他主義を示して、ロシアへのかくも強力な影響力を行使する道具を彼らに与えてきた債務を放棄するなどということを信じるのはむずかしい。さらに、ロシアから西側に何千億ドルものドルを流出させた経済政策を彼らが放棄するなどということを信じるのはむずかしい。

3 危機によってダメージを受けたのはだれか

 危機は、物価を大幅に上昇させ、実質所得を下落させた。危機が始まって以来、多くの物価がドル換算で二〇~三〇%下落した。しかしドル換算で給与は七五%落ち込んだ。一九九八年に、消費者物価はルーブル価格で九一%上昇したが、賃金は五~六%上がっただけだった。
 こうした平均の数字は、いくつかの極端な物価上昇をふくんだものである。モスクワの新築アパートの価格は、危機が始まる以前のおそらく三倍になった。アパートの価格は家族の全賃金の約十五年分になる。首都にある約百万平方メートルの新築住居が、買い手がないため空き家になっているのは不思議なことではない。
 州の状況はそれよりも悪い。一九九八年の最終四半期におけるわずかな生産上昇は、四―九月期、ならびに年度全体の下降を埋め合わせるものではなかった。GDPは六%減少した。これは企業の財政状態のいっそうの悪化をもたらした。
 政府のあらゆる努力にもかかわらず、企業は賃金支払いの遅延、あるいは不払いによって巨額のカネを留保した。賃金支払いの遅れに関する訴訟が約百三十万件も提訴された。
 ほとんどの労働力の状況は、物価の急激な高騰と、物価に連動した賃金システムの不在のために劇的なまでに悪化した。年金や給与の不払いが拡大してきた。失業は目立って増加した。高給の銀行、保険、広告部門でさえも大規模な人員過剰が見られた。これは、「中流」層の生活水準が全体として低下したことの主要な要因である。
 しかし危機は、住民の中の低賃金層にもっとも厳しい打撃を与えた。政府は食糧必需の価格基準をさらに低下させさえした。一九九二~三年の生存必需品一覧には一日あたり百十五グラムの肉と九・四グラムのソーセージがふくまれていた(それは一九一三年のツァーリ時代の流刑地と同様の水準である)。しかし新しい必需品一覧は、一日一人あたりわずか二十三グラムの肉と二・二グラムのソーセージを基準としている。この観念的な食糧消費基準は、動物たんぱく質の消費が危機以前に比べて二四%少ない。脂肪の消費は三〇%少ない。
 この飢餓的食品量でさえも、多くの人々にとっては高価すぎる。一九九九年一月のモスクワでは、最低生活必需品は一カ月五百七十二ルーブルかかった。その額は圧倒的多数の人々の年金額よりも高く、首都の平均賃金のほぼ半額に達している。この国全体では、貧困ライン以下で生活している人の比率は、危機以前の二三%から現在では三二%になっている。
 「影の経済」におけるインフォーマルな小売り職は、危機のために姿を消した。それは、多くの人がなんとかして生き延びることを可能にする追加的収入を失ったことを意味する。
 この低落は、安価な中国、ポーランド、トルコ製品の輸入と再販によって生活している「往復取引人」(雇用の約一〇%を占めている)に最も厳しく感じられてきた。対米ドル購買力の四分の三を失わせたルーブルの崩落は、人々が支払える価格でこうした製品を輸入することを不可能にしたのである。
 上位三分の一のロシア人にとっての主な打撃は、彼らの銀行預金の目減りであった。エリートの新富裕層――金融寡頭制――さえ危機によって損害をこうむり、政府当局に対してますます批判的になっている。民衆の間のパニックは十月中旬に向けて静まったが、危機は頂点に達している。

4 民衆は依然として沈黙している

 一九九七年には、前年に比べて抗議とストライキの数が大きく増加した。一九九六年に、一労働シフト以上継続するストライキは八千二百七十八の企業で記録され、約六十六万人が参加した。一九九七年には、ストライキは一万七千の企業で行われ、八十八万人以上が参加した。にもかかわらず、危機のスケールを考えればストライキの数は相対的に少ないままである。
 事態がそれほど悪化しているのならば、なぜこれほど静かなのだろうか。生活の質の急激な低下という統計と、ストライキや抗議行動の統計上の少なさとのこうしたコントラストはなぜなのだろうか。
 ロシア独立労組連合(FNPR)が共産党や他の反対派グループと連合し、ロシア行動デーとして行った十月七日のデモの規模は、反対派勢力が期待したほど大きなものではなかった。政府当局は街頭デモに参加した人の総数を七十万人から百万人の間だとし、労働組合と反対派の側は二、三百万人としている。両方が、デモその他の抗議行動が行われた町やセンターの数は総数で六、七百と報じている。
 しかし危機の深刻さを考えれば、この数は非常に少ない。西ヨーロッパや北米では、経営者が六カ月も賃金支払いを停止し、銀行家が投機によってすべての人々の貯金を失わせたならば革命が起きるだろう。しかしこれがロシアである。ここでは事態は違っている。

受動性

 大多数の人々の受動性は、さまざまな要因の結果である。ロシアには、国家的パターナリズム(温情主義)の強力な伝統(「良きツァー」への信仰)を持った文明がある。この伝統はソビエト時代に強められ、現在も一掃されたというにはほど遠い。ほとんどの人々の思考と行動は、市民社会の政治的構造ではなくカリスマ的パーソナリティーに向けて調整されている。
 共同体主義と集団主義も伝統的社会的形態の一つとして存在している。しかしそれは政治生活ではなく、労働組織に適用されている。
 それとならんで、経済、権威、制度や精神的価値の深い危機、生活の基礎そのものの破壊は、いっそうの変化に直面することへの恐怖感を大衆にかきたてている。ほとんどのロシア人にとっては、生き残りの仕方を発見することが優先課題となっているのである。
 それに加えて、市場メカニズム、競争、犯罪の波の発展と市場活動のための明快なルールの欠如は、「荒々しい西側」というメンタリティーを作りだしてきた。「誰もが自分自身のために!」が、今日の命題である。
 たとえば強力な労働組合を下から作りだしていく集団的闘争の伝統は、いまだ創出されていない。これは驚くには値しない。たとえばアメリカ合衆国では、百年から百五十年にわたる資本主義の発展があった後に初めて、強力で大衆的な労働組合が出現した。
 ロシアでは、ソビエト時代から残っている、被雇用者の五〇%を公式メンバーとして要する大きいが役に立たない労働組合が、FNPRに合流している。
 最近までこの組織の指導者は、事実上当局者を支持するという立場を採用してきた。彼らはやっと十月七日になって、忠誠の対象を現大統領から将来の候補者――モスクワ市長ユリ・ルシコフ――に転換した。下から形成された新労組について言えば、それらは依然としてきわめて少数であり、相互に隔絶している。
 ロシアにおける現在の被雇用者は、労働者から教授にいたるまで、すべての時間を家族の生き残りのために費やすことを強制されており、二つないし三つの職を持っている。彼らは自分の地位が余計なものだということだけではなく、人生そのものが余計なものだという脅威におびえている。こうした条件の下では、人びとは抗議活動に参加することを恐れるか、参加することだけで手一杯で労働を停止する余裕はない。
 最後に重要なことは、ロシアの市民、とりわけ下層階級はなにごとかを変えるという自らの能力への信頼を失ってしまった。

ある点にいたるまで

 しかし受動性は相対的なものにすぎない。抗議行動への参加者の数は少ないままであるが、それは雇用されている人びとの総数の約一・五%であり、その実質的性格と彼らの行動が人びとを煽り立てる性格は増大している。
 そしてラディカルなネオスターリニスト組織の後援の下でデモや抗議集会やストライキに参加する人びとの数は激しく低下しているが、抗議の全般的ラディカル化は明白である。
 ほとんどすべての町で、十月七日の行進に加わった人びとのほとんどはこうした抗議行動が始まって以来最もラディカルなスローガンで街頭に登場し、その中心的なものは大統領辞任の要求だった。
 それに劣らず重要なことは、労働者の気分がますます破裂点に近づいているという事実である。これは最も最近の世論調査によって確認されている。辛抱強さの伝統、変化への恐怖、強力で効果的な自主組織の形成の不在にもかかわらず、永続的な危機に苦しんでいるロシアの市民の大多数は、事態はこのままではすまないとますます考えはじめている。
 一九九一年八月の変化とゴルバチョフの打倒をもたらしたのと同様のムードが支配的になりはじめている。当時を振り返れば、人びとはソ連邦共産党とゴルバチョフの権威のマヒに倦み疲れていた。今や人びとは、「改革者」とエリツィンの権威のマヒに倦み疲れている。
 しかし当面のところ、労働者はストライキが生活条件を改善できるとはもはや信じていない。ストライキの数は一九九八年に大きく低下した。
 この傾向への唯一の例外は、職務的に組織された労働者――炭鉱労働者と教員――の最も活動的なグループの年末に向けた運動だった。経済の多くの部門から生まれた活動家は全ロシア行動委員会を組織しようと試みた。しかし彼らは、指導的役割を主張した炭鉱労働者と他の部門の労働者の間の不一致を克服することができなかった。
 問題は残されたままである。明日には何が起きるのだろうか。

5 危機の終焉

 経済崩壊を次の数カ月先延ばしするためだけではなく、何年にもわたった破滅的な経済の諸傾向に真の突破口を作るのに必要な措置を遂行する意思を、政府は持っているのだろうか。これは、政府が依存してきた実業家のグループ――そして官僚――の利害に逆らって進むのだろうか。これらのグループは、おもに金融市場や原料物資・天然資源の輸出と結びついたものなのだ。
 経済危機のエスカレーションは、政治情勢の悪化をもたらした。政府当局の変更は、危機からの出口を見いだすための不可欠の必要条件かもしれない。しかし、ボリス・エリツィンを権力の座に止めるようにしつらえられたロシア憲法は、いかなる政治的変化をも妨げる。これが、スムーズな権力の移行がむずかしいこと、そして重大な政治的激変のリスクが増大していることの理由である。
 ロシアのエリートが、自国の民衆の利害に奉仕することに気乗りせず、またそうする能力がないことにより、今までのところ大規模な市民的抵抗はもたらされなかった。一九九一~九三年り政治的激変の後、人びとは疲弊しており、どのような政治的変革も事態のいっそうの悪化のためだという教訓を汲み取ってきた。しかしロシア市民の生活水準へのさらなる打撃は、彼らの辛抱強さの限界をテストするに十分なはずである。

成長する極右

 不幸なことに、社会的緊張の増大は民族主義的な極右過激派の影響力を強化している。民族主義的気分は、国内最大の野党であるKPRF(ロシア連邦共産党)内部で、ますます顕著になっている。党内でこの傾向に反対し、批判しているのはごくわずかである。さらに「ロシア民族統一」のようなグループの右翼過激派(セミファシスト)民族主義的運動の成長がみられる。「ロシア民族統一」は、とりわけモスクワ市長ユリ・ルシコフを標的にした当局への公然たる不服従戦術の実行を企てている。しかしルシコフ自身にはなんの罪もない。彼は、一九九三年末とチェチェンでの戦争において「南方人」(非ロシア系民族グループ)の迫害を支持したパトロンだった。彼はまた、ウクライナの一部に対するロシア報復主義のあからさまな支持者だった。
 こうした周辺化状況の進展という雰囲気の中で、民衆の多くは犯罪の増加に対処する「強い手」を望んでいる。民族的独自性の説教は、わが国の先鋭な社会問題に対する奇跡の妙薬のように見える。左翼が提示しなければならないオルタナティブは、まったくの夢として認識されている。KPRFとその同盟者以外には、アナーキストから最近結成された社会民主主義組織にいたるまで、真の政治勢力を提示する左翼グループはいない。
 この状況は、たんに、あるいは基本的に、左翼自身の失敗の結果ではない。現代ロシアの社会条件は、強力な左翼運動の再建にとって長期かつ困難な闘争を課しているのである。
 (筆者はモスクワ大学教員。この文書は三月にブリュッセルで行われたCADTM/COCAD〔第三世界の債務帳消し運動〕ネットワークの国際集会で提起されたもの)
(「インターナショナルビューポイント」99年4月号)

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