新しい世代の新たな民主化運動
香港・區龍宇さんに聞く
雨傘運動は学生の自主的闘い
旧世代より民主化に対する強い期待
二〇一七年の行政長官選挙および二〇一六年の立法会(香港議会)選挙での「真の普通選挙」を求める香港民衆の空前の民主化闘争「雨傘運動」は、九月二八日からの七九日にわたる大衆的な街頭占拠闘争をたたかいぬいた。その運動の渦中にあった一一月下旬、香港の區龍宇さんに話を聞いた。このインタビューが行われた翌週の一一月二五日には、繁華街の占拠拠点である旺角で強制排除が行われ、三〇日から一二月一日早朝にかけて、学生団体が呼びかけた香港政府本部ビル封鎖の激しい攻防が行われ、一一日には最大のオキュパイ拠点であった金鐘の全面的排除、そして一五日には最後のオキュパイ拠点であった銅鑼湾のオキュパイ拠点が撤去された。香港・中央政府からは何ら具体的な譲歩を引き出すことはできなかったが、「一国二制度」と「香港基本法」に膝を屈し続けてきた過去三〇年の民主化運動とは違う、新しい世代による新しい様式の民主化運動が誕生したことは間違いないだろう。區龍宇さんは一二月一一日の金鐘オキュパイの強制排除でも最後まで街頭に座り込んで新しい民主化闘争の若き戦士たちと行動を共にした。區龍宇さんら香港左翼による「雨傘運動」の総括は次号以降に掲載する予定である。(H)
中国の影響への危機感が背景
「雨傘運動」が拡大した社会的背景には、いくつかの理由があります。一つは政治的・社会的な危機感が大きいということです。香港が中国の一都市になってしまうのではないか、という危機感です。中国政府が約束した「香港人による香港統治」、「高度の自治」の消失です。香港の普通の人が現在の中国政権に抱く拒否感は理解できるものです。香港民主派が掲げる「普通選挙にも本物と偽物がある」というスローガンは庶民にも理解しやすいものです。中国では危険なニセ粉ミルクが問題になり、大陸から香港に安全な粉ミルクを購入しようとたくさんの人が殺到して社会的問題になったことがあります。中国では鶏卵や食塩にも偽物があります。食の安全だけをとっても中国社会が大変混乱していることは常識です。ですから「普通選挙にも偽物がある」というスローガンは、普通の人々にもスッと入ってきます。
北京政府がより直接的に香港に支配介入をしようとしていることが感じられるようになった、という恐怖感があります。二〇一三年に国家転覆罪で処罰できる基本法二三条の法制化の動きがありましたが、多くの香港市民の反対運動で一旦とん挫しました。しかし立法化の動きが最近はじまっています。これまで北京政府は香港の内部管理には関与しないと公言してきました。九七年の返還以降当初は比較的おとなしくしていましたが、この一〇年のなかで、香港の中国政府代表機関である中央政府駐香港連絡弁公室や、香港マカオを統括する中央政府機関、国務院香港マカオ事務弁公室は、香港内部の問題にもより直接的に介入しています。行政長官選挙に関しては特にそう言えます。それだけでなく、親中派政党やブルジョア政党の候補者選びにまで介入してくる。それに対して、香港ブルジョアは少しやりすぎではないかと不満を持っています。選挙時の買収は公然と行われています。かつての香港でも候補者をめぐる腐敗はありましたが、これほど公然と買収が行われることはありませんでした。
また選挙だけでなく、香港政府高官への賄賂が公然と行われています。最近事件になったのは、二〇〇五年から〇七年にかけて香港政府のナンバー2である政務司長を務めた許仕仁が不動産業者から受け取った賄賂が問題になりましたが、ごく最近、許仕仁は法廷の証言で、国務院香港マカオ事務弁公室の当時の責任者であった廖暉から一〇〇〇万香港ドルの賄賂を受け取っていたことを明らかにしました。中国政府は許を政務司長のポストにつけたかったが、彼は政務司長の報酬が少ないことを理由に就任を断っていましたが、廖暉は「では、お手伝いしましょう」と彼に伝えたところ、後日彼の口座に一〇〇〇万香港ドルが振り込まれたというのです。彼が次に廖暉に会ったとき「お手伝いさせていただいた」と言われ、そのカネの出所がわかったというのです。中国政府はこういう人間のほうがコントロールしやすいと思っているのです。許の行いはダーティーですが、中国共産党はもっとダーティーだと言えるでしょう。マフィア社会の考えと同じです。
民生から政治にいたるまで、「一国二制度」は口先だけのものです。庶民の生活、政治への介入や道徳的腐敗のどれをとっても、香港民衆が中国政府に対する恐怖を覚えるのは当然です。香港でよりマシな政治指導者を選ぶには普通選挙しかないと庶民が考えるのも当然のことです。もちろん普通選挙が実施されたからといって必ずしも清廉な指導者が選ばれるとは限りません。しかし、庶民がそのような期待を抱いているということも、また事実なのです。
新しい世代がけん引した運動
社会的、政治的な背景のほかに、「雨傘運動」が若者によってけん引されたことも注目に値します。当初は「オキュパイ・セントラル」運動と呼ばれていましたが、現在の「雨傘運動」は性質、原動力、発展などすべてにおいて異なっています。厳格にいえば金融街のセントラル地区を占拠して選挙制度の民主化を要求しようという「オキュパイ・セントラル」の発起人三氏によるオキュパイは結局のところ一度も実現しませんでした。
具体的には後述しますが、ここでは背景と関係することにとどめますが、「雨傘運動」は青年学生が当初の三氏の計画を突破して実現したものであり、その上に発展したものです。七〇年代にも青年たちは活発化し、政治運動、左翼運動、民主化運動も発展しました。しかし八〇年代にはいり、民主派の青年運動は制度圏の運動に収れんしていきます。それ以降に発生した青年運動は、そのたびごとに規模や思想的限界が後退していきました。。この状況はここ七、八年ほど前から変化しました。そして「雨傘運動」で、過去三〇年の青年運動の保守的状況が完全に転換したことが明確になりました。
どうしてそうなったのでしょうか。前述のような社会的焦燥感は青年たちも同様に抱いていました。青年の感受性はより敏感で過激です。親たちの世代、つまり私たちの世代は中産階級意識が支配しています。その意識は香港基本法という「憲政体制」に対する根本的な批判を避けようとします。基本法の枠内での改良をもとめるのです。しかし香港基本法は、きわめて右翼的な制度設計です。政治、経済どちらの制度においても極右的といえます。
職能別選挙区(コーポラティズム)はイタリア・ファシズム体制の支配の基礎でした。職能別選挙区はイギリス植民地政府が導入したものですが、返還直前の最後の議会選挙では、この職能別選挙区を事実上の直接選挙としました。しかし返還後、中国共産党政権はそれをもとの制度に戻しました。つまり企業単位や業界団体単位での投票にです。行政長官体制も植民地時代の香港総督体制から引き継いだものです。
経済体制について言えば、基本法では外国為替に対する政府管理が禁じられていますし、財政収支はつねに均衡していなければならないとされています。それは金本位制と同じく極めて右翼的な経済制度といえます。しかしこの三〇年来、主流民主派は基本法に対する根本的な対決を避けてきました。
若い世代は、もちろん社会民主主義という政治水準にすら達しておらず、財政収支均衡に対する批判的視点はありません。しかし基本法を神聖視してないということも事実です。基本法に問題があるなら改正してもいい、というのが若い世代の感覚です。青年たちが掲げたスローガンの一つに「自分たちの香港は自分たちで救う」「自分たちの政府は自分たちで選ぶ」というものがあります。これは台湾の「ひまわり運動」から学んだものです。
大学生連合会は「命運自決」(自分の運命は自分で決める)というスローガンを提起しました。学生連合会の周永康・事務局長から、私がかつて書いた自決権に関する文章を読んだと言われたことがあります。私たちは三〇年前からこの「命運自決」について述べてきましたが、当時は誰もその主張に見向きもしませんでした。しかしいまの若者はそれをまじめに読んでいるのです。民主化の理想は極めて高いと言えます。私たちの世代、主流民主派の世代にはこれほどの意識はありませんでした。そもそも被植民地意識が強固でした。それは文化的に深く刻まれたもので、植民地主義への根本的挑戦を考えたこともなかったのです。トロツキストなど一部の「変わり者」を除いてね。以前であれば民主派の運動空間に、私たちが十分に活動することのできる思想的スペースはありませんでした。
しかし今年の七月二日のオキュパイ予行演習で逮捕された人々による文集には私の文章が収録されています(本紙2014年8月4日号に訳出)。文集に収録されている政治的人物はほとんどが主流民主派で、私たちを排除してきた勢力です。しかしいまでは状況が変わりました。変化の兆しはここから始まっています。青年の世代は比較的自由な空気の中で育ち、八九年民主化運動の洗礼を経た世代は、われわれの世代よりも民主化に対する期待が非常に高いのです。また香港の比較的自由な空気の中で育った若い世代の、自由が奪われてしまうかもしれないという危機感も背景の一つです。
三つ目の背景は、経済における貧富の格差という問題です。経済格差の度合いを示す時に係数は七〇―八〇年代には下降し、格差は縮小していました。しかし九〇年代以降、つまり中国の改革開放が進んだことで、香港の経済格差は拡大しました。いまではこのジニ係数は〇・五という危険なレベルを超えています。独占資本の状況は深刻です。たとえば私が住んでいる庶民向けマンションは五―六年前は一〇〇万ドルでしたが、いまは二〇〇万ドルに値上がっています。青年の収入ではまず買えません。私たちの若いころはまだそれほどの物価高騰はありませんでした。若者の不満は高まっています。これら三つの背景が相互に関連して、今回の状況が発生したと言えます。
運動の提唱と各団体の反応
香港大学の戴耀廷による「オキュパイ・セントラル」の提唱は、じつは彼が二、三年前から主張していたことなのです。そのときは誰も見向きもしませんでした。しかし二〇一三年一月に新聞のコラムでこれを提起したときは、多くの人がそれに賛意を示しました。最初に賛意を示したのは社会運動に参加する人々です。インターネットなどでも賛成の声がおおく寄せられました。作家、弁護士、あるいは民主派政党の支持者などが賛意を示しました。
しかし政党、つまり主流民主派の政党は明確な態度を示しませんでした。民主派政党の支持を得られなかった戴は、牧師で民主化運動にも参加してきた朱耀明、コラムニストで中文大学教員の陳健民の支持を得るという形で運動を始めました。主流民主派政党は公式の支持はしませんでしたが、個別の議員は、法律、資金、動員をはじめ、さまざまなかたちで支援をしてきたこともまた事実です。たとえば六月に行われた市民投票では、インターネット投票を実施したということもあり、香港大学の世論調査機関による技術的支援に多額の費用もかかりました。もちろんこの機関は運動の趣旨には賛成していましたが、公立大学の一機関としては無料で技術支援をおこなうことはできませんでした。費用などは主流民主派の議員らの支援するところが大きかったといえますが、それは後の話です。
運動の開始と二つの方向
こうしてオキュパイ・セントラル運動はスタートしました。この運動は二つの道に沿って進められました。一つは「ディスカッション・デー」です。この運動に賛同する団体や個人が集まってディスカッションするという活動スタイルで、一年余りの間に三回の全体ディスカッション・デーが組織されました。その間にもさまざまな社会運動団体や地域運動団体などが、それぞれディスカッション・デーを企画し、オキュパイ運動がそれを支援しました。それは民主主義にそった形で組織化されていったといえます。
ディスカッション・デーでは、われわれの求める普通選挙とはなにか、目標は何かなどを議論しました。このようなディスカッションを、各団体が地域に入って組織しました。選挙制度という政治問題に対してそれほど関心を持っていなかった地域の人々も、このディスカッション・デーによって政治化したといえます。ディスカッションに戴などオキュパイ呼びかけ人を招き、一通り話をさせて、そのあとは参加者全体で議論するのです。わたしも何度か地域の議論に参加しました。低所得者向けの高層アパートの屋上で開かれたこのディスカッションには毎回五〇人ほどの庶民、しかも収入もかなり低い貧困層の人たちが集まって議論しました。正直、私は貧困層の庶民がこれほど政治に対して積極的になったことに驚きました。
主流民主派による介入策動
当初、民主党よりもさらにラディカルな社会民主連線や人民力量などの民主派政党はこの「オキュパイ・セントラル」運動を軽んじていました。しかしディスカッション・デーでは、非常にたくさんの市民が積極的な意見を出しました。誰もそれを統制することはできません。こうして貧困層を含む多くの市民が、このディスカッション・デーを通じて政治化していったのです。
この運動が発展するきっかけのもうひとつの経路は市民投票です。一年の時間をかけて各団体や地域のディスカッション・デーで議論した結果を、この運動の参加者全体の投票にかけて、運動が要求する行政長官選挙の立候補要件を決定しました。五月に行われた三回目の全体ディスカッション・デーで、事前に提出されていた一五の案から、二五〇〇余りの参加者による投票で上位三つの案を選びました。最多の支持を獲得したのは、大学生連合会と学民思潮という二つの学生団体の共同提案で、四五%の支持を獲得しました。学生団体の共同提案は、有権者一%(約3万5000人)の署名、あるいは八%ないし二〇%の立法議員(直接選挙枠からの選出議員に限る)の共同推薦で行政長官選挙に立候補できるというものです。
もうひとつ特徴的なのは、現行の行政長官選挙の改良を主張した主流民主派の提案はすべて非常に少ない支持しか集められなかったということです。もちろん主流民主派のすべてが市民立候補に言及しなかったわけではありません。たとえば「真の普通選挙連盟」という複数の著名な民主派議員らが中心になったグループの案は、一%の有権者の署名という条件は学生案と同じですが、直近の立法会選挙で五%以上の得票率を得た政党、そして「候補者指名委員会」も候補者を指名できる、というかなり政府案に妥協的な内容だったのです。この「候補者指名委員会」は企業や業界団体などの職能別に委員が選出されるもので、コーポラティズム的な協調主義的で、大企業や政府寄りの団体から多数の委員が選ばれてきました。学生団体はこの委員会を職能別によって選出される現在の制度から直接選挙枠で選出された立法委員による構成に変更することを要求していました。しかし「真の普通選挙連盟」は、この委員会の構成については「より民主的な構成になることを要求する」と曖昧な立場でした。
当初、この折衷案が最多の支持を得ると思われました。しかし投票結果は予想を裏切り、この折衷案は一八%の支持しか得ることができなかったのです。この結果は、主流民主派の議員らにとってもショックだったようです。というのもいままではなんだかんだ言っても、これらの主流民主派の議員らの威厳などが民主化運動全体を支配していたことから、今回もその影響力が発揮できるだろうと考えていたのに、投票結果はまったくそうはならなかったからです。ここからオキュパイ運動における主流民主派政党の影響力低下がみてとれました。
この時の投票で選ばれた学生団体の案や「真の普通選挙連盟」の案など、上位三つの案を、香港全体の市民投票にかけるという活動が6月下旬に取り組まれました。前回の市民投票は、オキュパイ運動のディスカッション・デーに参加した二五〇〇人余りの投票でしたが、今回は香港の有権者市民全員を対象にしたのです。
この投票の二―三週間前にはすでに学生団体が提起していた案が多数の支持を集めるだろうと予想されていました。そこで主流民主派の政治家やブルジョアジーなどは一つの方法を編み出しました。最初はこの市民投票では、オキュパイ運動の中で支持の高かった三つの行政長官の選出方法案について、全香港市民の投票にかける、というものでした。
しかし主流民主派は、そこにもう一つの選択項目を追加を要求したのです。それは来年の議会に上程される予定の政府の選挙案が国際基準に満たない場合は、民主派議員は政府案に反対票を投じるべきかどうか、という設問でした。つまり「国際基準」という不明確な基準をクリアすれば政府案に賛成票を投じる、という落とし穴です。もしこの設問を市民投票に加えない場合は市民投票に協力しない、と主流民主派の政治家たちは、オキュパイ運動の呼びかけ人の戴耀廷に圧力をかけ、彼はそれに屈しました。これは主流民主派が議会での可決の際に運動の要求を裏切る条件を準備したといえます。
戴は、オキュパイ運動の参加団体に対して経過を説明ました。私たちは、勝手に選択項目を追加するなど民主主義のプロセスに反するのではないかと彼を批判しました。彼は「仕方ない。もしこれを入れなければ主流民主派など多くの支持を得られず、全部ご破算になってしまう」と説明しました。主流民主派の政治家たちはこの運動をまったく指導できなかったにもかかわらず、運動の盛り上がりに対して脱胎換骨の妨害を行ったのです。
六月二二日の市民投票には約八〇万人が投票しました。投票結果は、行政長官の選出方法については、主流民主派らの「真の普通選挙連盟」案が約三三万四〇〇〇人(42・1%)でトップ、学生団体の案は三〇万四〇〇〇人(38・4%)で次点でした。そして「政府案が国際基準をクリアしない場合は否決すべし」が六九万六〇〇〇人(87・8%)の高得票を獲得しました。普通の市民は裏でこのようなことが行われていたことを知りませんでした。そして最も支持を集めた案もそれほどラディカルではありませんでした。
予行演習は学生たちが主導
とはいえ、この市民投票の結果は、誰でも一%の有権者の支持があれば行政長官選挙に立候補できるという内容を含んでいたことから、次はこの案を政府に突き付ける番でした。つまりこの運動の名称にもなっている「オキュパイ・セントラル」(セントラル地区の占拠)によって政府に回答を迫る、ということでした。しかし運動の中心や主流民主派らは、政府の反応を待つべきだとしてなかなかオキュパイ実行の方針を出そうとしませんでした。市民投票のあとには、香港返還の九七年から毎年七月一日に行われている民主化デモの日が控えていました。行動を呼びかけるには最善の日のはずです。しかし戴ら運動の呼びかけ人はオキュパイに同意しませんでした。
ではいったい何のために一年以上もかけてこの運動をやってきたのでしょうか? 大学生連合会などラディカルな団体は市民投票の翌日からオキュパイについて相談をはじめ、七月一日のデモ解散ののちにオキュパイの予行演習を行うことを決定しました。オキュパイ呼びかけ人の戴ら三人には決定事項を伝えただけでした。そして七月二日未明、デモの解散地点で一〇〇〇人規模のオキュパイが実行されました。それはオキュパイ・セントラル運動の呼びかけ三人が呼びかけたのでもなく、また主流民主派らが呼びかけたものでもありませんでした。
このオキュパイ予行演習で五一一人が拘束されました。私もそのうちの一人です。しかし街頭で座り込んで抗議する私たちの周囲で、一〇〇〇から二〇〇〇人の支援者が声援を送ってくれたのです。非常に感動的な場面でした。これまで私は軽挙妄動のたぐいには反対してきました。香港の運動でしばしばみられる警察と衝突して逮捕される戦術にも反対でした。しかし今回は必ず逮捕されなければならないと感じました。逮捕の翌日にはたくさんの支援の声が寄せられました。しかし、オキュパイ運動の中心メンバーたちは、この予行演習を批判しました。私たちは逆に問い返しました。では、いつオキュパイを実施するのか、と。それについては明確な言及はありませんでした。彼らは実際にはオキュパイなどやりたくなかったのです。恐ろしくなったのです。七月二日未明の予行演習ののちも、待てど暮らせどオキュパイ本番の呼びかけはなされませんでした。
弾圧を契機に闘いは高揚
学生たちはついにしびれを切らします。一〇月一日の国慶節の休日にあわせた大きな行動にむけて、新学期が始まる九月二二日に授業ボイコットを呼びかけました。学生たちが一〇月一日にオキュパイを実施しようと考えていたのかどうかは分かりませんが、そう考えていても不思議ではありません。授業ボイコットは大成功しました。九月二二日に中文大学で行われた集会に私も参加しましたが、そこには一万人余りの学生が参加していました。これほどの規模の学生集会ははじめてでした。七〇年代は「熱い政治の季節」と呼ばれましたが、一〇〇〇から二〇〇〇人の学生運動にすぎません。香港における本格的な学生運動は二〇一四年から始まったといってもいいでしょう。
学生たちは授業ボイコット五日目の九月二六日の夜、政府本部ビルの敷地にある「公民広場」の「奪還」を試みて逮捕されましたが、週末だったこともあり多くの市民が支援に駆けつけ、二七日には実質的なオキュパイが実現されました。そして翌二八日未明になってやっと、オキュパイ呼びかけ人の三人がオキュパイを「宣言」したのです。その日の夕方、警察は無数の催涙弾で民衆を蹴散らそうとしたことで、さらにこの運動に火をつけたのです。結局のところ、当初、オキュパイを呼びかけた三人の「オキュパイ・セントラル」は実現することなく、催涙弾やペッパースプレーの攻撃を避けるために使われた雨傘から命名された「雨傘運動」が、それにとってかわったと言えます。
そして占拠したのはセントラル(中環)地区ではなくアドミラリティ(金鐘)地区とモンコック(旺角)地区でした。旺角地区のオキュパイも警察が招いたといえます。市民を金鐘地区に行かせないために金鐘駅を封鎖したため、金鐘オキュパイに参加できなくなった市民らは仕方なく旺角、尖沙咀、銅鑼湾などの地区でオキュパイを始めたのです。当初の「オキュパイ・セントラル」運動と、その後の雨傘運動は、つながりはあるとしても全く別なものだと言えます。
雨傘運動の三つの段階
この雨傘運動が発生してからすでに五〇日以上が経過しましたが、おそらくいくつかの部分に分けて話す必要があると思います。しかし毎週のように新しい事態が発生しており、いまだ精密な分析をする時間が取れていません。とはいえ、いくつかの分析を試みてみようと思います。政府・警察による弾圧からオキュパイにいたる経過がひとつの段階でしょう。ナショナルセンターの香港職工会連盟もゼネストを呼びかけました。この呼びかけはそれほど成功したとは言えませんが、それでも運動が拡大する過程で発生したことでした。オキュパイが展開されてからも政府は高圧的な態度でした。裏社会の人間をオキュパイにぶつけてきました。しかしそれはさらに多くの市民の怒りに油を注いだだけでした。
次の段階は、政府の高圧的な態度に若干の調整が見られた時期です。しかしこの時期は運動内部の分岐も始まりました。つまり香港本土派(極右)らによる運動内部における攻撃です。オキュパイの現場で行われていた市民らの議論を妨害したり、団体が掲げる旗を引き下ろさせたりという行為が発生しました。内部危機の発生によりオキュパイ戦術の調整などが困難になりました。またオキュパイが行われていた旺角地区は小商店などがひしめき合う地区で、安定を求め変化を嫌うプチブル階層にとって、オキュパイは商売の邪魔であるばかりか、安定志向を妨害する行為に映りました。政治的中心である金鐘地区と違い、旺角などはショッピングの繁華街であり、ここをオキュパイしても大きな政治的効果はありませんでした。
総じて、この第二段階の時期に運動における様々な矛盾があらわになってきました。このころから学生連合会によるリーダーシップに陰りがみえました。経験不足もあり、香港本土派(極右)らの運動内部における台頭を許すことになりました。とはいえ、オキュパイに参加する人々の熱意は続いており、普通の人々の参加も続いていたと言えます。そして現在(11月下旬)につながる第三段階です。具体的な日にちをあげることは困難ですが、いつのころからか参加者が減少して、現在に至っています。運動の縮小の時期と言えます。
香港本土派(極右)はオキュパイ・セントラルの運動に当初から参加していたわけではありません。ディスカッション・デーなどに組織的に参加したこともありませんでした。当時、かれらはオキュパイ・セントラル運動に対して軽蔑のまなざしで見ていたと思います。しかし運動が盛り上がってきたことを知ると、突如としてこの運動を乗っ取り指導しようとしました。やくざの縄張り争いそのものです。他人の成果を乗っ取るのがもっとも効率的なやり方だと思っているのです。
香港政府と中央政府の思惑
中国政府の対応についてお話ししましょう。当初、香港政府は弾圧的な手段を用いていましたが、それが功を奏さないとわかると、中国の習近平指導部が「妥協しないが流血の事態も避けよ」という指示をだした、という噂が広がりました。その可能性は否定できないでしょう。また政務司長(香港政府ナンバー2)の林鄭月娥が、梁振英行政長官の高圧的手段に対して否定的な態度をとっているという噂も流れました。そういったこともあり得ないことではありません。彼女や私のような世代は、中国政府が流血の事態も辞さないことを知っています。しかし学生たちはそのようには考えません。結果がどうなるかは後回しです。
もちろん政府の弾圧を恐れていてはなにもできないでしょう。それに中国政府はいまだ香港を直接支配しているわけではありません。人民解放軍を弾圧のために送り込むことは、今の状況ではあり得ないでしょう。なぜなら中国の資本主義化にとって香港は依然として大きな役割を果たしているからです。香港株式市場で取引される株式の6割は中国国内企業のものです。一方、外資が自由に出入りできるというのも香港の魅力です。もし仮に雨傘運動に対して人民解放軍が出動するような事態になれば、外資の流れは一挙に冷え込むでしょう。
この程度のオキュパイに対してリスクの高い軍事的弾圧を行う程、中国共産党はおっちょこちょいではありません。しかし、もし仮にゼネストの呼びかけに対して一〇〇万の労働者階級が立ち上がるのであれば、中国政府の対応は全くことなってくるでしょう。それは共産党政権にとっても非常に危険な状況が発生するからです。そうなれば外資も中国政府による弾圧を容認するかもしれません。
中国の人々が今回の「雨傘運動」をどう見ているのかについては、正直なところわかりません。極度に情報がコントロールされているからです。ただ中国から香港にはたくさんの人間が来ており、実際にオキュパイを目にしています。旺角でオキュパイをしている仲間から聞いたところでは、中国からの旅行者に話しかけられることもあります。もちろん素朴な旅行者ではなく情報収集の可能性もないわけではありませんが。中国国内の情報はかなり統制されていますが、それでも広東省では情報が伝わっているという形跡もあります。しかしそれは「香港独立」「外国勢力の介入」などという追加情報もあわせて流布されている可能性が非常に高いのです。
とはいえ、今回のオキュパイがまったく中国国内に影響を及ぼさないとは言えないでしょう。長期的に見て何らかの反応がでる可能性もあるでしょう。しかし少なくとも現時点においては「わからない」というのが正直なところです。さらに考えなければならないことは、もし習近平指導部が人民解放軍を投入するほどの弾圧を行えば、政権内部の矛盾、つまり彼の敵対勢力に付け入る隙を与えることになり、そしてそれは中国社会の矛盾を激化させる可能性がある、ということです。習指導部にこのようなリスクを受け入れるだけの余裕はそれほどありません。
ですから、雨傘運動に対しては、非妥協的な態度を続ける一方で、流血の惨事は避けるべし、という方針がだされることは不思議ではありません。 金鐘の一部がオキュパイされ、旺角の一部がオキュパイされても、資本主義の活動が死に絶えることはありません。中国政府は少なくとも香港社会の矛盾や亀裂を中国国内に波及させることだけは何としても阻止しようとするでしょう。
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