新自由主義経済下のラテンアメリカ〔10〕
ラテンアメリカ左翼の動向
山本三郎
軍政との闘い、ソ連・東欧の崩壊を経て
1 ラテンアメリカ左翼の困難
1980年代というラテンアメリカの経済と政治の大転換期に、ラテンアメリカ左翼は少数の例外を除くと影響力をもって登場することができなかった。ポスト軍政期にその政治を担っていったのは保守自由主義者であり、ポピュリストないしは変身したポピュリストだった。
この時期、ラテンアメリカ左翼の登場を困難なものにしたのは、なによりも60年代から70年代にかけて成立した反共的な軍事政権の弾圧である。60年代の階級矛盾の激化(〔Ⅴ〕参照)の中で、農村ゲリラとして、あるいは都市ゲリラとして社会主義革命や民族民主革命を掲げて戦ったマルクス主義諸組織は、軍事政権下で組織的にも肉体的にも完全に近いまでに消滅させられたのである。もちろん選挙によってアジェンデの社共連合政府を成立させたチリはそのもっとも過酷な例であった。
80年代、キューバを除くと大きな影響力を保持した左翼勢力は、革命を実現したニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)、エルサルバドルのファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)、グアテマラの民族革命連合(URNG)等の中米のゲリラ勢力とペルーの統一左翼(IU)、ブラジルの労働者党(PT)など極めて少数になっていた。
第二の要因はソ連・東欧圏の崩壊であった。80年代後半以降顕著になったソ連・東欧圏の経済的・政治的影響力の後退とその崩壊は、キューバを経済的困難に陥れ、ニカラグアのサンディニスタ政権を、アメリカの経済封鎖とコントラを使った軍事介入の中で敗北へと導いていくことになる。そしてこれ以降、政治的にも軍事的にも支援勢力を失った左翼ゲリラ勢力は、和平合意を強制されていく。
そして、ソ連・東欧圏の崩壊とキューバの経済的困難は、その他のラテンアメリカ左翼にとっても資本主義諸国に対する対抗社会の喪失を意味していた。それはとりもなおさず革命の展望の喪失をも意味していたのである。こうした事実を背景に資本主義と新自由主義に対する幻想は民衆レベルのみならず、左翼の間にも浸透していくことになる。
第三の要因は民政の実現と新自由主義経済政策の展開である。もちろん民政の実現は軍事政権の下で弾圧にさらされていた左翼勢力にとっても当然歓迎すべき事態だった。しかし、軍政の終焉は「反軍政」という民主主義者から左翼までを結びつけてきた統一戦線の時代の終焉をも意味していた。軍政の終焉はラテンアメリカ左翼から彼らの統一戦線的基盤を奪っただけではなく、来るべき民政とその政策をめぐって彼らに分裂をもたらすのである。その中心をなした政策が新自由主義経済改革だった。
2 ラテンアメリカ左翼の右傾化と分裂
前述したようにポスト軍政期のラテンアメリカの政治を担ったのは、多くは保守的自由主義者であり、ポピュリストであった。そうした政権への参加の問題、政権構想、新自由主義的経済政策の可否をめぐってラテンアメリカ左翼は右傾化を強める、あるいは左右に分裂していった。
1990年の大統領選挙で敗北したニカラグアのFSLNは、チャモロ与党のUNO(全国野党連合)の分裂をうけて、92年12月、2名の閣僚をチャモロ政権に送りこむ。そしてFSLNは九六年の大統領選挙に向けて右傾化を加速させ、その過程で分裂する。FSLN自体の官僚化と腐敗の進行、新自由主義経済政策の是非、メキシコ政府の支持の可否等が錯綜し、単純に左右への分裂とは言い切れない深刻な事態になった。
エルサルバドルのFMLNは九六年に正式に分裂する。右派は和平合意により民主主義的課題は達成されたとし、中道、中道右派との連携を主張した。左派は和平合意は民主主義革命の基礎を据えたものであり、引き続いて現在のシステムを革命的に変革することの必要性を訴えた。前者はFMLNから分裂して民主党(PD)を結成、政権党の右翼ARENA(民族主義共和同盟)とその新自由主義経済政策を支持していく。
チリ社会党は反ピノチェトの統一候補としてキリスト教民主党のエイルウィンを支持する。エイルウィンはアジェンデが倒された七三年の軍事クーデターの影の立役者だった。彼は有名な反共主義者であり、ピノチェトが実施した新自由主義経済政策の継続を主張していた。チリ社会党は人民連合のアジェンデの出身政党である。
もちろん彼らがエイルウィンを支持した背景にはピノチェト派に勝利しなければならないという現実的判断があった。しかし、軍政下の弾圧の下での弱体化による影響力の低下に加えて、軍政に対する方針、社会主義の有効性を巡っての論争による分裂と右傾化の進行の結果でもあった。
〔Ⅸ〕ー(4)「メキシコ、ペルー」の項でも簡単に述べたのだが、90年当時ペルーは新自由主義経済政策の失敗に続くポピュリズム政策の失敗によって、激しい経済危機に陥っていた。しかし、それらの政権に取って代わるべき「統一左翼」は、ソ連・東欧圏の崩壊の中で社会主義革命の展望を失い、分裂の危機に見舞われていた。そして武力闘争をも含めた闘いを主張する急進派と社会民主主義を主張する右派との対立の結果、90年の大統領選を前に分裂し、急速にその影響力を減じていた。
ウルグアイでは1992年末、IMFの構造調整策にのっとった民営化計画が、国民投票によって否決される。これを契機に九四年の大統領選挙に向けて左翼の統一戦線「広範な戦線」(FA)が結成される。大統領選挙では結局勝利することはできなかったのだが、伝統的二大政党制を終焉に導き左翼は大きく前進した。しかし、FA内部でも世界的な社会主義の後退の中で、その政策を資本主義の枠組みの中での改良に限定しようとする改良主義の流れが広がっている。なおFAには第四インターウルグアイ支部の社会主義労働者党や、60年代の都市ゲリラ闘争で有名なツパマロスも参加している。
ブラジル労働者党はもともと社会民主主義者からトロツキストまでが広範に参加している統一戦線的な党なのだが、コロル政権の退陣のあとのフランコ政権への参加問題、94年選挙の方針をめぐって左右の論争が激化する。94年10月の大統領選挙で結局PTは敗北し、その後、全国指導部は社会民主主義、議会主義、新自由主義経済政策、選挙連合を巡って分裂的状況になった。PT内左派の中心を担っている「社会主義的民主主義潮流」は第四インターブラジル支部である。PTの運動については項を変えてもう少し詳しく述べてみたい。
3 伝統的労働組合運動の弱体化
ラテンアメリカの労働運動の伝統的な特徴は政治との密接な関係である。ラテンアメリカの労働組合はその強大な組織力を背景にして、ある時は体制に組み込まれることによって、ある時はその対抗勢力として強い政治的影響力を行使してきた。
そうしたことを可能にしてきたのは、欧米諸国に比して産業発展が遅れていたにもかかわらず比較的高い組織率を示してきたこと、そして産業別に組織されてきたことによって、その産業が発展するのに比例して労働組合もまたその政治に対する影響力を高めていった結果であった。またラテンアメリカの政治のコーポラティズム的伝統が資本家及び政府との交渉能力を強化させることになり、このことは一層強化されたることになった。
ラテンアメリカでは1930年代から50年代にかけて輸入代替工業が発展する。それに伴って労働組合もまたその組織率を高め、政治的力を増していく。その媒介になったのがポピュリスト政党であり、共産党系の政党だった。
メキシコ、ブラジル、アルゼンチンは、ポピリュスト的な国家に労働組合が組み込まれることによってその影響力を行使してきた例である。コロンビア、ベネズエラ、ペルーは、ポピュリスト政党が労働組合に浸透し共産党とその指導権を争った例である。チリ、ウルグアイは、マルクス主義政党が労働組合のイニシアチブを握った例である。
こうした労働運動の情勢を一変させたのが、軍事政権の弾圧だった。60年代から70年代にかけて成立した軍政の最も重要な任務は、60年代以降高まっていく階級矛盾の激化とその事が引き起こす社会的混乱を収拾することにあった。当然労働運動は激しい弾圧を受け、その政治的発言力は著しく制限された。とりわけチリとアルゼンチンでは組織的のみならず、肉体的にも労働組合の活動家は抹殺されたのである。
軍政が労働運動に与えた影響はそれだけにとどまらなかった。軍政が実施した経済自由化政策が与えた労働運動への影響である。もちろん国によってその差異はあったのだが、軍政は工業保護政策をやめ、関税引下げや外資の導入を行った。このことによって国内工業は大打撃を受け、工業から商業への労働人口の移動が起こる。
当然、労働組合員の構成員もそれまで労働運動の中心を担ってきた工業部門や鉄道部門から、商業部門へと移っていった。それはとりもなおさず伝統的な労働運動の弱体化を意味していた。その典型的例がアルゼンチンとチリだった。また工業部門の停滞は失業者と都市インフォーマルセクターの未組織労働者の増大をもたらし、そのことも労働組合の弱体化に拍車をかけたのである。
軍政ではなかったメキシコでは、労働組合はPRI体制の下で国家に組み込まれることによって一部幹部の労働貴族化が進み、国家の労働者に対するコントロール装置へと堕していく。82年の債務危機以降、メキシコ労働者同盟は政府の緊縮財政に積極的に協力していくことになった。
また幹部の労働貴族化と下部の一般組合員との遊離の問題は、メキシコの労働組合だけではなく、政治体制に編入されたラテンアメリカ諸国の労働組合の普遍的問題であり、現在、労働組合の形骸化、弱体化の大きな要因になっている。
民政の実現は労働運動にとっても、軍政下で制限されてきた権利や賃金の回復の大きなチャンスであった。しかし民政の開始はまた本格的な新自由主義経済政策、民営化の時代の始まりでもあった。軍政の経済自由化政策で起きたことが、より本格的にラテンアメリカ諸国全体で起こるのである。〔Ⅸ〕で述べたように、確かに新自由主義経済改革の当初の段階においては労働組合もその政策と対決する姿勢を示す例も多かった。しかし、ハイパーインフレの圧力によって、あるいは政府に取り込まれることで、あるいは弾圧されることによって、その闘争は急速に後退していく。
こうして60年代末から今日まで、ラテンアメリカ労働運動はソ連・東欧圏の崩壊とそれに伴う世界的な左翼運動の後退も影響して、70年代末以降のブラジル労働運動の高揚を例外として後退を続けることになったのである。
4 ブラジル労働運動の高揚とPTの結成
軍政下においてブラジルの労働運動もまた激しい弾圧を受ける。しかし、チリやアルゼンチンに比べるとはるかに軽微なものであった。活動家は公民権の停止や国外追放になることはあったが、チリやアルゼンチンのように拉致、拷問、虐殺等が広範におこなわれることはなかった。組織的にも労働組合の政治活動、団結権、団体交渉権は制限され、賃金の決定権は政府に握られてはいたが、労働組合運動そのものにとってはそれほどの打撃にはならなかった。
またアルゼンチンやチリとは違って、ブラジルは軍政下でブラジルの奇跡と称される1大工業発展をとげることになる。それにともなって工業人口も1960年の294万人から80年には1077万人と急増していたのである。しかし、労働組合の組織化は進まず,労働者は低賃金に苦しんでいた。
こうした情勢に風穴を開けたのが、サンパウロ州の自動車労組を中心とする金属労働者の闘いだった。78年、彼らは緊張緩和策として軍政が定めたインフレに対する賃金調整率(65・9%)との差額分を要求する、「34・1%」キャンペーンを開始する。既成の労働組合幹部が動かない中で、サンパウロ州のフィアット自動車工場の労働者は、機械の前に座り込みストライキを敢行した。ストライキは次々と他の工場に広がり、ついに会社側は労働者の要求を認めたのである。79年には闘いは他産業や、他州にも広がり、15の州を巻き込んだブラジル史上最大のゼネストへと発展していった。
この闘いは労働者にとっても、軍政にとっても重大な問題を孕んでいた。労働者にとってのストライキの当初の目的は賃上げであった。しかし、闘争の発展の中で必然的に労働権の回復をも求めるようになり、闘いは民主化運動へと発展していく。また組合的には国家に従属した既成の労働運動を否定し、自律的運動を追求していくようになる。こうした情勢を背景にして79年10月、運動の中心にいた金属労組委員長のルシオ・イナシオ・ルーラ・ダシルヴァ(通称ルーラ)たちは、労働者の声を政治に直接反映させるべく労働者党(PT)を結成するのである。
一方軍政にとって労使交渉による賃上げや、各種の労働権を認めることは軍政の根幹に係わる問題であり、絶対に認められないことであった。なぜなら労働権を認めるということは、単に軍事政権の制度的問題に係わるだけではなく、軍事政権の経済政策の基盤を揺るがしかねない問題だったからである。
ストライキの中心を担ったのは自動車産業を始めとした金属産業の労働者であった。それらの産業こそ軍事政権が最も力を注いできた産業であり、ブラジルの奇跡を現出させてきた産業だった。そうした産業の労働者の権利を制限し、賃金決定権を政府が握ることでブラジルの高度経済成長は実現してきたのである。軍事政権は軍隊を動員してストライキを弾圧することになる。
5 ブラジルPTの闘いの意義
結成まもないPTとブラジル労働運動にとって大きな転機と飛躍をもたらしたのは、こうした闘争の過程でキリスト教基礎共同体の運動と結合したことであった。このことによってPTは従来の労働者政党や労働組合運動とは異なった性格を与えられることになる。そしてそのことによってブラジルPTはラテンアメリカ左翼のみならず、混迷する世界の左翼勢力にとって進むべき一つの道を示すことになった。
キリスト教基礎共同体とはスラムや農村の貧しいカトリック信者によって構成される住民組織である。一般的には10数人から30人で構成され、週1、2回集まって聖書を読み、様々なことを話し合うことで成り立っている。この組織は軍事クーデター直前の63年にブラジルで誕生し、ラテンアメリカ各地に広がっていく。とりわけブラジルでは軍事クーデター後急速に増え、最盛期にはブラジル全土でその数は8万、構成員200万人に達する。
基礎共同体は本来宗教的なものなのだが、解放の神学の影響を受けたこともあり、自分たちの生活の問題、社会問題に取り組んでいくようになる。軍政下でブラジルは農村も都市も社会矛盾の坩堝(るつぼ)であった。農民は土地を奪われ、あるものは農場での日雇い労働者になり、あるものは都会へと流入していく。都会では流入する住民を吸収しきれず、スラムが爆発的に膨張し、住環境、衛生問題、子供の問題、失業の問題は深刻化していくばかりであった。
基礎共同体のメンバーは自分たちの生活改善をめざして、上下水道の問題、電気、道路、学校、土地獲得の要求を掲げて闘っていく。こうした闘いを通じてキリスト教基礎共同体は、軍政下で唯一の民衆組織として軍事政権に対抗していくようになる。
一方、70年代末からの労働者の闘いの中心をなしたのは、自動車産業、金属産業といった近代産業に働く、それも労働組合に組織されたエリート的な労働者だった。その労働者が貧農や、スラム街のインフォーマルセクターの未組織労働者と結びついていったのだ。PTは賃上げの問題のみならず、スラム街の生活改善運動、農村での貧困問題にも積極的に取り組むことによって、労働運動に限定されない社会運動的広がりをもった政党へと成長していくのである。
また基礎共同体との結合はPTとその労働組合運動の組織的ありかたにも影響を与えることになった。従来の労働組合運動、左翼政党にあった官僚主義的ありかたにかわって、基礎共同体での「対話方式」が取り入れられたのである。つまり下部組織での討議に基づいて上部組織が討議したのち、再度下部組織の検討を経て決定するという形である。
一方、基礎共同体のメンバーにとってもPTの存在は重要な意味を持っていた。確かに基礎共同体の数は多く、全国に広がっていた。しかし、実際に個々の基礎共同体のもつ運動の影響は地方的に限定されたものであった。また民主化過程で復活した政党はエリート的な集団であり、政治的経験もコネもない基礎共同体のメンバーにとっては遠い存在だった。基礎共同体のメンバーにとってもPTを通じて自らを政治的に表現していくことは非常に重要な意味を持っていたのである。
こうしてPTは80年代を通じて影響力を拡大し、89年の大統領選挙でPTの候補ルーラは、コロルと大接戦を演じたのである。前述したように、現在PTではフランコ政権への参加問題、九四年の大統領選挙問題、レアルプラン、新自由主義経済改革問題等を巡って左右の亀裂が深まっている。
しかし、70年代末以降のブラジル労働運動とPTの闘いの軌跡は、ラテンアメリカの左翼のみならず、私たちの闘いの方向に対しても多大な示唆を与えているのである。
6 サンパウロフォーラム
1990年ブラジルPTの呼びかけによってラテンアメリカの左翼48組織が参加して、ブラジルのサンパウロでフォーラムが開催された。いわゆるサンパウロフォーラムである。ソ連・東欧圏の危機的状況の中で、ラテンアメリカ左翼の共通の討論と国際的連帯の基盤をつくりだそうとする重要な試みだった。会議では新自由主義経済政策に反対するとともに、その政策が生みだす矛盾へ対応していくことを決議し、左翼にとって情勢は有利であるとの認識を示した。
第2回メキシコシティー(91年)、第3回ニカラグアのマナグア(92年)での会議をうけて、93年にはキューバのハバナで第4回サンパウロフォーラムが開催される。この会議にはラテンアメリカとカリブ地域の112の参加組織と25のオブザーバー組織(中国共産党、ベトナム共産党等の他地域の組織を含む)が参加した。
会議ではキューバ防衛という強い立場を打ち出すとともに、自由開放経済政策の破綻と民衆の反発、及び闘争の高揚という情勢認識を示し、93年~94年の各国選挙での左翼の勝利の可能性を高らかに宣言した。結局、93~94年の選挙で左翼は勝利することはできなかったが、左翼にとっては過去25年間で最良の結果でもあった。
しかし第5回サンパウロフォーラム(95年、ウルグアイ)はそうした結果を総括せず、参加した多くの組織は議会主義の枠組みの中に自らをとどめる傾向を示したのである。それを象徴したのがメキシコの政権党PRIのオブザーバー出席であり、サパティスタ民族解放軍へ招請状を発行しなかった事実であった。
また特筆すべきことはこの会議には社会主義インター、国連のラテンアメリカ経済委員会、米州開発銀行総裁等への招待状が出されたことだった。彼らは結局この招待をうけなかったのだが、この事実はフォーラムの多数派の中には新自由主義経済とその矛盾に対して闘うのではなく、当事者との話し合いによって新自由主義経済の改良を勝ち取ろうとする傾向があることを明確に示したのである。
翌96年、エルサルバドルで第6回のフォーラムが開催される。この会議に参加した圧倒的多数の参加者は、EZLNの提起した「大陸間会議」への連帯を表明する。また、社会主義的未来へむけての討論、移民の権利等での具体的行動のための討論、女性だけの会議等も行われ、第5回フォーラムの傾向に対して一定の歯止めをかけることになった。
サンパウロフォーラムはラテンアメリカ左翼にとって極めて重要な会議である。フォーラムへの参加組織は120から130以上にのぼり、左翼社会主義組織、民族解放戦線組織、左派民族主義組織、伝統的共産党、トロツキスト組織と多様であり同質的なものではない。また革命的潮流は少数であり、議会主義的左翼が多数を占め、従来の階級闘争的立場を放棄した組織も少なくはない。
従ってフォーラムがたとえば「新自由主義経済」反対を宣言したとしても、額面どうりに受け取ることはできない。既成制度内にとどまっている左翼の多くは、現実的政策判断、現実的な政治への関与という名目によって新自由主義経済政策を受け入れているからである。従って、新自由主義経済政策に反対する大衆運動を現実的に組織し、闘っている左翼との乖離が生じてきており、今後、問題になっていく可能性をはらんでいる。
7 サパティスタ民族解放軍の闘いとその背景
1994年1月1日、NAFTA(北米自由貿易協定)発行の日、サパティスタ民族解放軍(EZLN)がメキシコ、チアパス州で武装蜂起する。彼らはメキシコ政府に戦争を宣言するとともに、メキシコ人民に向かって、「メヒコの人民へ。--中略--それゆえ、われわれは君に要請する。仕事、土地、住宅、食料、健康、教育、独立、自由、民主主義、正義と平和を求めて闘うというこのメヒコ人民の計画を支持し、断固とした決意をもって参加してほしい」(「メヒコの覚醒者」EZLN機関紙第1号)と訴えた。
そしてこの呼びかけに応えるように、1月から3月にかけてチアパス各地で農民・先住民は土地占拠闘争にたちあがる。3月末までにチアパス全州で20近い土地占拠闘争が起き、占拠された土地は四万ヘクタールを越えたのである。
EZLNの闘いはメキシコ、チアパス州のラカンドン地域を中心とする農民・先住民の闘いである。しかし、その背後にはラテンアメリカ各地の先住民の自治と権利を求める多くの闘いがあり、新自由主義経済下で自らの僅かな共有地さえ収奪の危機に瀕している多くのチアパスの農民・先住民の土地奪還の闘いがある。
1990年6月、エクアドルの首都キトの中心部は先住民集団によって占拠され、幹線道路も封鎖される。エクアドルの先住民連合の闘いだった。実力をもって彼らは政府に自治権、先住民文化の尊重、居住環境の保全、教育の権利、憲法での多民族国家の規定等を要求したのである。そして92年、4000人を越すエクアドルの先住民はアマゾンからキトまでの400キロを行進し、前記の要求を再び政府につきつけた。
結局、政府は地下資源の開発権はその手に残したものの、110万ヘクタールの国有地を3つの民族集団に授与したのである。こうして先住民連合は90年代のエクアドルの新自由主義に反対する中心勢力となり、大統領を解任に追い込んだ97年の「民衆反乱」で決定的役割を果たすことになる。
1991年12月、不正選挙に抗議してチアパス州のパレンケ市役所を占拠した先住民100人が逮捕される。翌92年3月7日、300人の先住民がメキシコシティーに向けて1100キロメートルの徒歩行進に出発した。連邦政府に逮捕者の釈放、土地の分配、先住民の人権、食料の確保を要求するためだった。「先住民族の平和と人権を求める行進、シニッチ(チョル語で蟻の意味)」である。
同じ1992年10月2日、「侵略の500年」を告発する2万人を越す先住民・農民のデモ隊が、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスを埋めつくし、北米自由貿易協定反対、憲法27条(先住民族に関する条項)改悪反対を唱えて行進した。彼らの大部分はチアパス高地の村々からやってきたきた先住民だった。
チアパスはメキシコでも最も貧しい地方である。メキシコ革命の後も大土地所有制が残り、自らの土地を持たない農民は大農園での低賃金労働者として働く以外なかった。そして土地を所有する農民の、その僅かばかりの農地さえ新自由主義経済改革は奪っていくことになった。80年代末から90年代初頭にかけてのコーヒーの国際価格の急落はチアパスのコーヒー生産農家を直撃する。農業資金融資の返済が不可能になった弱小のコーヒー農家は、農園を手放さざるを得なくなったのだ。
今、メキシコでは新自由主義経済改革によってエヒード(農業共同体)の譲渡さえ認められ、農地は再び大土地所有者と農業資本に急速に集約しつつある。NAFTAの発効はその状況に追い打ちをかけることになる。アリゾナ産の安いトウモロコシのメキシコへの流入は、トウモロコシの生産によって生活を維持している先住民の小規模農家に潰滅的な打撃を与えることになるからだ。
EZLNの蜂起の直後、メキシコ政府はEZLNの孤立を内外に示すために、チアパス州先住民・農民集会を開催する。もちろんEZLNを支持しそうな戦闘な組織は排除したうえでである。しかし、310の組織が参加した1月22日の第2回会議では武力闘争ではなく対話路線を進めるが、EZLNの武装蜂起には反対しないという合意がなされる。そして2月に行われた第3回の会議では、チアパス州の主要な先住民・農民組織45団体がEZLNを無条件で支持することを表明したのである。
8 EZLNの闘いの意義
新自由主義経済改革は、冷戦終了後のラテンアメリカの再編成政策の要をなす政策であった。この再編成政策の下で中米の左翼ゲリラ勢力は、和平合意を余儀なくされ、軍政終焉をも含むラテンアメリカの冷戦後の新秩序が形成されていったのである。
EZLNの武装蜂起は、この新秩序に対する公然とした反乱であり挑戦だった。ラテンアメリカの左翼の多くが武器を置き、その闘いを議会主義的枠組みの中に限定しようとしている時に、EZLNはラテンアメリカの過酷な階級関係の中にあっては、武器を取って闘わねばならない状況があることを、そしてそのことが依然として有効であることを世界中に示したのである。
しかし、EZLNはラテンアメリカの現実がかつての冷戦時代とは決定的に違っていること、それゆえ現情勢下にあっては自らの武装のみでは勝利できないことをも知っている。従って彼らの戦術は非常に国際性に富み、多彩で柔軟だ。
メキシコは世界資本主義の最も弱い環の一つであり、EZLNの闘いはそのメキシコに突き刺さった刃なのだ。そのことをEZLNは明確に知っている。EZLNが蜂起した1994年1月1日はNAFTA発効日であり、94年12月の再占拠闘争はペソの大暴落を引き起こし、世界の金融危機へとつながっていくことになる。EZLNは武器のみでメキシコ政府と対峙しているのではない。彼らは自らの闘いをメキシコの国内情勢と、国際情勢の中に位置づけることによって政府と対峙しているのである。
メキシコのマスコミやインターネットを使って登場する雄弁なマルコス、「新自由主義に反対する大陸間集会」の開催、市民社会の統一戦線としてのサパティスタ民族解放戦線の結成、99年3月に実施され、メキシコ内外に在住するメキシコ人300万人が参加した「先住民族の権利を認め、絶滅戦争に終止符を打つための住民投票」等の闘いは、彼らの国際主義的で柔軟な戦術を十分に示している。彼らにとっては武装もまたそうした戦術の一つの要素なのである。
EZLNは自らの闘いの展望と未来が、従来の社会主義と、その革命闘争の否定的側面の総括抜きに成立しえないことを知っている。彼らは「前衛主義」を否定し、「兵士のない社会」に言及する。そして、「権力をほしいという希望を持たない」と語り、「民主主義と自由と正義」のための闘いと自らの闘いを位置づける。そうした事実はかちとるべき未来社会を模索する彼らの姿をかいま見せてくれる。そして「女性による革命法」の制定とチアパスの先住民女性の闘いは、そのすぐれた実践なのである。
EZLNは現在のメキシコの権力構造が、なによりも暴力的であることを知っている。EZLNの呼びかけによって、サパティスタ民族解放戦線が市民社会における政治勢力として結成された時、EZLNは自らはその組織に入ることをしなかった。メキシコの現状勢下では、EZLNが武器を置いて市民社会の政治勢力になる時期ではないと判断したからにほかならない。
今、EZLNはラカンドン地区を中心にしたサパティスタ支持基盤の村々で自らの首長を選び、教育、医療等の行政を司り、小規模で不完全とはいえ二重権力的状況を作りだしている。
一方、メキシコ政府は政府軍6万人をラカンドンとその周辺地域に配置して、道路を整備し、サパティスタ支持基盤の村々に毎日軍事的示威行動を行い圧力をかけている。そしてPRIは脅しと金と食料で支持基盤の住民の切り崩しをはかり、来年の大統領選にむけて現在、緊張が高まっている。(注)
(注)今夏、EZLNの拠点のラ・レアリーダを訪れた女性の話によると、ある朝の軍事示威行動の陣容は以下のとうりであった。装甲車15台、軍用トラック8台、ジープ2台、クレーン車1台、医療車1台、総兵員165人である。
EZLN、及び住民はこうした軍事行動に対しては無視して、軍事挑発にはのらないようにしている。一方、こうした軍事行動を監視する平和市民キャンプが組織されていて、ラカンドン地区を中心に8か所にキャンプを置き、政府軍の軍事行動を監視している。このキャンプには世界各国から多くの人たちが参加しているそうだが、日本人の参加者はほとんどいないようである。
市民平和キャンプへの参加はそれほど難しいことではなく、スペイン語でなくても、英語で一定の意思を表現でき、時間にゆとりさえあれば(ラカンドン地区への出入りに時間を要する)いいとのこと。各国にあるサパティスタの支援組織の推薦状をもらい、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスにあるNGO、エンラセ・シビルを訪ねればしかるべき手段をとってくれるという。詳しくは11月中旬発行の「ラカンドン」7号(メキシコ先住民運動支援委員会発行03ー3293ー9539)にこの女性の報告記事が掲載される予定なので、それを読んでほしい。
9 80年代以降の社会運動の新たな発展
ラテンアメリカ諸国は1950年代以降急速な都市化現象に見舞われる。先進国の都市化現象は農業の発展によって余剰になった労働力を、急速に発展する都市の工業が吸収する過程であった。しかし、ラテンアメリカの都市化現象はそうではない。大土地所有制、商品経済の農村への浸透等による農村の貧困化の進行によって、農業人口が急速に都市へと押し出されていく過程だった。都市に流入する人口はラテンアメリカの工業の発展、労働力としての吸収能力を遙かに上回り、都市問題が爆発的に拡大することになった。
従って、土地占拠闘争等の都市下層住民による闘いは、現在のラテンアメリカに特有の闘いなのではなく、1950年代以降ラテンアメリカ各地で発展した闘いであった。とりわけ60年代末以降、従来の運動が政治権力に従属することが多かったのに対して、反体制派による社会変革運動を実現する手段として土地占拠闘争が推進されていく。チリやメキシコの事例がその典型的な例である。またチリやペルーやウルグアイの生活防衛のための自助グループの活動は、単なる生活防衛だけではなく民主主義を求める運動としても発展していったのである。
こうした状勢に変化をもたらしたのが、外的要因としての民政の実現と新自由主義経済改革であり、内的要因としてのNGO依存的な運動形態と、自らの組織内部に抱える人間関係等における保守的なラテンアメリカ的体質であった。社会運動もまた再編成の過程に入るのである。
1980年代の経済危機によって、ラテンアメリカの都市人口の増加には一時的にブレーキがかかることになる。しかし、新自由主義経済改革の過程はラテンアメリカの所得格差の拡大の過程であり、貧困の増大の過程だった。それのみならず経済安定化計画の美名の下で、社会サービスは切り捨てられ、都市インフラストラクチャーの整備は放棄されていく。80年代から90年代にかけて、ラテンアメリカの都市の矛盾は爆発的に増大する。ブラジル、メキシコのストリートチルドレンの問題はその最も深刻な例である。
都市下層住民は自らの自助努力によって、あるいはNGOの支援によって、土地の取得、住宅建設、上下水道、電気の供給、環境衛生、健康、教育等の広範な要求を掲げて闘っていく。
こうした社会運動の高揚は、都市に限定されているわけではない。チアパスにおける土地奪還闘争、ブラジルにおける「土地なき農民運動(MST)」の土地占拠闘争に代表される農民の運動である。今、ブラジルでは14万家族、200万人の人々がブラジル政府、あるいは大土地所有者から奪還した700万ヘクタールの農地で生活し、それに加えて占拠中の土地でキャンプを張っている4万家族、25万人の人々がいる。
そして挙げなければならないのは、ラテンアメリカ各国で民主主義と政治の公正さを求める人々の多くの闘いである。ラテンアメリカ諸国では確かに軍政は終焉し、民政が実現した。しかし、そうした事実はラテンアメリカにいわゆる民主主義的社会が成立したということを意味してはいない。政治の構造は依然として暴力的で、強権的で、権威主義的なのだ。そして実現した民政を担う政治の構造、政党もまた政治家も、腐敗と情実と縁故と利害関係によって動く伝統的ラテンアメリカの政治の構造から一歩も抜け出てはいない。そして、その構造を守るための不正選挙が横行しているのである。
しかし、こうした政治の構造にも大きな変化が訪れようとしている。大統領の汚職を追求し辞任に追い込んだブラジル、ベネズエラ、エクアドルの民衆の闘いであり、メキシコ等における不正選挙を追求し、民主主義を求める闘いである。
労働運動、左翼運動が一定後退していく中での、こうしたラテンアメリカの社会運動、市民運動の広がりと発展は、ラテンアメリカ社会の未来に対する大きな可能性を秘めて存在しているのである。
10 ラテンアメリカの社会主義的未来を求めて
激しい経済後退とハイパーインフレに苦しむラテンアメリカ民衆にとって、新自由主義経済改革は国際資本によって強制された負の選択であった。確かに新自由主義経済はラテンアメリカに新たな経済成長をもたらした。しかし、その代償としてラテンアメリカ民衆が受け取ったのは、所得配分の更なる不平等化であり、貧困の増大であった。
新自由主義経済論者は声高に語っていた。「経済発展の初期には所得格差は拡大するが、経済発展の後期においては市場メカニズムによってこの格差は縮小していく」と。そして彼らはこっそりと付け加える。「ただし自由で、公正な市場の場合ですよ」と。
ラテンアメリカに存在する市場は、世界で最も不公正な市場である。ラテンアメリカの民衆にとって、「経済発展の後期」とは決してやって来ることのない永遠の未来のことなのだ。
この貧困の増大という問題は、ラテンアメリカの民衆を苦しめているだけではない。貧困の問題こそ、〔Ⅷ〕--(5)で述べたように、ラテンアメリカにおける新自由主義経済の資本主義的限界を形成している基本問題なのであり、独立戦争以来、営々と続けられてきたラテンアメリカにおける資本主義的発展、経済的自立のための営みの前に立ちふさがってきた問題だった。
そしてこのラテンアメリカの貧困を形成してきた最大の要因の一つが大土地所有制なのである。独立戦争をも含めて、ラテンアメリカには数多くの革命と称される闘いが存在する。しかし、キューバ革命以外、大土地所有制を解体しえた革命は存在しなかった。土地の解放は実行に移そうとしても、革命勢力内部の力関係で常に実行されることのない課題だった。そして、そのことを真剣に実行に移そうとした革命政権は、例外なくアメリカ合衆国の直接的、間接的な軍事干渉によって倒壊させられることになる。
言うまでもなく、土地革命はブルジョア革命の根幹をなす課題である。しかし、ラテンアメリカの歴史が示していることは、ラテンアメリカのブルジョアジーにはそのことを実行する能力も、意志もないということであった。
そして国際資本にとってはどうなのか。アメリカが農地解放を実行しようとした政権をことごとく軍事力で打倒してきたのは、冷戦構造がなせるわざだったのか。冷戦後の今日、ラテンアメリカにおける土地の解放は、アメリカにとって許されるべき政策になったのか。そうではあるまい。農地解放されたメキシコ農民の土地は、今また、土地所有の自由化、規制緩和によって大土地所有者と国際農業資本によって再集約されつつある。
国際資本にとって必要なのはラテンアメリカの自立した資本主義的発展ではなく、ラテンアメリカ経済を自らの支配下におくことである。また彼らにとって必要なのは民主主義的なラテンアメリカ社会なのではなく、彼らの投資を保証するラテンアメリカの安定的な社会なのだ。
しかし、新自由主義経済改革を通じてラテンアメリカ経済を完全に支配下においた国際資本にとっても、バラ色の未来だけが広がっているわけではない。ラテンアメリカの第1次産品だけではなく、経済全体を取り込むことによって、国際資本はラテンアメリカ経済のその弱さをも取り込むことになったからである。
95年のメキシコの通貨危機、今回のブラジルの通貨危機はそのことを象徴する事件だった。そしてメキシコの通貨危機の引き金になったのがEZLNの再占拠闘争であり、ブラジル通貨危機のそれが、ミナスジョライス州知事の債務のモラトリアム宣言と議会における財政安定化策の否決だったことは、国際資本のアキレス腱を労働者階級を始めとするラテンアメリカの民衆が握っていることをもまた明確に示したのだ。
こうしてラテンアメリカの現実はブルジョア革命の課題でさえも、ラテンアメリカの労働者階級と民衆の革命的闘いによってしか実現しえないという古典的命題を、私たちの前に提出しているのである。
もちろん、そうした事実が単純に近未来におけるラテンアメリカにおける革命的情勢の到来を示唆しているわけではない。ラテンアメリカ左翼の現実もまた厳しい。しかし、新自由主義経済10年の負の遺産は、ラテンアメリカ社会の矛盾を確実に拡大し、ラテンアメリカ民衆の生き延びるための闘いを日々発展させている。こうしたラテンアメリカにおける社会運動、住民運動の発展こそが、ラテンアメリカ左翼の新しい基盤を形成しているのである。
社会運動、住民運動の場はまた、権力への従属者、ポピュリスト、社会民主主義者、各種改良主義者の活動の場でもある。都市住民運動こそ政権与党の伝統的利益誘導の場であったからであり、新自由主義経済改革による社会サービスの低下の限界的状況の中で、地方自治体政府が住民組織、NGOの闘いを容認し、取り込むことでその矛盾を解決しようとしているからである。
しかし、そのことはラテンアメリカの左翼の不利な状況を意味しない。ラテンアメリカの左翼はこうした闘争の場で彼らとせめぎあうことによって初めて、公平で、貧困のないラテンアメリカ社会の実現のためには、社会主義革命という手段しかないことをラテンアメリカ民衆の前に再提示できるのだから。
そしてまた同時に、彼らはそうした闘争の過程を通じて、従来の硬直的な社会主義像に代わる、民主的で、多元的な社会主義像を見いだしていき、ラテンアメリカの社会主義的未来を自らのもとに引き寄せていくにちがいない。
EZLN、ブラジル農民の土地占拠闘争、ブラジルPTの闘い等に代表されるラテンアメリカ左翼の新しい闘いと、彼らの闘いにおける民主主義的あり方は、そうした多大な可能性を私たちに示しているのである。私はそう信じている。
The KAKEHASHI
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