新自由主義経済下のラテンアメリカ〔7〕
経済危機と軍政の終焉(1980年代)
山本三郎
1 景気の後退とインフレーションの到来
1982年のメキシコの金融危機に端を発した債務危機は、ラテンアメリカ諸国を深刻な経済危機に追い込んだ。83年の域内平均GDP成長率はマイナス3・1%、81年から84年までの平均値でも0%であった。そして、この間の一人当たりのGDP成長率は実にマイナス8・9%を記録したのである。結局1980年から90年までの10年間のラテンアメリカ全域の年平均GDP成長率は1・0%、一人当たりの年平均成長率ではマイナス1・1%であった。
ただし、この間積極的な開発政策をとってこなかったコロンビアは、他諸国に比べて急激な経済成長の後退に見舞われず、この10年の一人当たりの年平均GDP成長率でも1・7%のプラス成長を達成した。またチリは82年にはGDP成長率でマイナス13・1%と急激な落ち込みを記録したのだが、84年には回復基調に入ることによって、同じくこの10年間の年平均一人当たりGDP成長率はプラス1・4%であった。しかし、他の国は、軒並一人当たりのGDP成長率をマイナスにしたのである。
この数字がどんなにひどいものであったのかは、1980年代以前の数字と比較したとき一層明らかになる。50年代、60年代、70年代のラテンアメリカ全域における年平均GDP成長率は、4・8%、5・4%、6・0%を記録しており、同時期の先進工業国の4・2%、5・0%、3・2%をいずれも上回っていた。また一人当たりの年平均GDP成長率で見ても、同時期にラテンアメリカ全域で2・0%、2・8%、3・5%のプラス成長を示していたのである。しかし、80年代に先進工業国では年平均3・1%の成長を記録したのに対して、ラテンアメリカ諸国ではわずか1%に留まったのであった。
一方、こうした経済成長の後退にもかかわらず、消費者物価は激しく上昇した。いわゆる経済不況下のインフレーション、スタグフレーションの発生であった。1978年にはラテンアメリカ全域平均で39%だった消費者物価上昇率が、80年には56・1%、82年には84・6%、83年には130・9%、84年には184・2%と急速に上昇する。とりわけ、アルゼンチンでは84年に627%、85年には672%、ボリビアに至っては85年に11980%という天文学的数字を記録したのである。
こうした成長率の低下もイフレーションの高進も、対外債務危機が直接招いた結果であった。対外債務利子支払いの資金を確保するための輸入抑制策が、経済成長に急ブレーキをかけることになったからであり、また、インフレーションの高進にはさまざまな理由があるのだが、貿易収支改善策としての為替レートの大幅切下げが、輸入品価格の上昇を招いたことがその大きな契機になったからである。
2 失業率の上昇と貧困の増大
こうした景気の後退と、IMF主導による調整政策は、当然労働者の雇用情勢に跳ね返ることになった。失業率・不完全就業率の上昇であり、実質賃金の低下である。1980年にラテンアメリカの都市部における完全失業率は6・2%だったが、85年には7・3%に上昇した。とりわけパナマ(首都圏)では80年の9・9%から85年には19・3%に、エクアドル(全都市)では同じく5・7%から10・4%に、ベネズエラ(全都市)では6・6%から14・3%と倍増し、ラテンアメリカの約半数の都市で失業率は10%を超したのである。
しかし、これらの数字だけではラテンアメリカの雇用の状況を正確に把握することはできない。通常ラテンアメリカにおいては、非常に不安定で賃金水準の低い不完全就業者が膨大な数で存在するからである。85年の統計は手元にないので、80年の不完全就業率をそのままスライドさせて考えても、84年に失業率が7・5%と6・3%と比較的低かったブラジルとメキシコの失業者と不完全就業者の合計の比率はそれぞれ、25%と20%に跳ね上がり、同じく85年にはペルーは40%、コロンビアは37%、チリは27%という数字を示すのである。
また一層深刻なのは実質賃金の低下であった。ラテンアメリカにおける1980年の実質最低賃金を100とすると、89年には75に下落、上昇したのはパラグアイ、コロンビア、コスタリカの三カ国のみであった。70年と比較するとその比率は多くの国で一層ひどくなり、上昇したのはコロンビアとコスタリカの二カ国になってしまうのである。
こうして、それでなくても激しい格差のあったラテンアメリカの所得格差は80年代に一層拡大し、貧困層は増大していくことになった。ラテンアメリカ主要19カ国における全世帯のうち貧困世帯の占める割合は、1980年の35%から90年には41%に、極貧層の占める割合は15%から18%に上昇したのである。とりわけ都市部におけるそれは激しく、貧困層の割合は同じく25%から36%に、極貧層は9%から13%に増えたのである。
この事態の深刻さは、現実の数字で見ると一層はっきりする。1970年当時ラテンアメリカの貧困人口は1億1200万人であり、そのうち都市部での人口は410万人であった。80年には貧困人口は1億3590万人になり、都市部では6290万人だった。90年にはその数は激増し、貧困人口は1億9720万人になり、そのうちの都市在住者は1億2千80万人になったのである。
3 債務危機の要因
債務危機の直接的要因は、ラテンアメリカ諸国の経常収支の急速な悪化によって、対外資本の流入が減少し、それと同時に急檄に資本の海外への逃避が生じたからである。
ラテンアメリカ諸国の1975年当時の対外債務総額は685億ドルであった。それが78年には1509億ドル、81年には2754億ドル、債務危機発生時の82年には3184億ドルへと急上昇する。
〔Ⅴ〕で述べたように1960年代末、輸入代替工業化政策は限界期をむかえていた。第一次産品の輸出による外貨収入では、輸入代替工業化の高度化にともなう資金需要の増大を支えきれなくなったのである。とりわけ非産油国にとってこのことは重大な問題であった。この資金不足を補ったのが海外資金の流入であった。
また輸入代替工業化に伴うインフラ整備、国営企業への資金の投入、ポピュリズム政策等による財政支出の増大は、ラテンアメリカ各国政府を慢性的な財政赤字へと追い込んでいた。こうした点からも積極的に海外資金が導入されることになったのである。
70年代に入ると、こうした資金の供給を可能にする国際的環境が急速に整えられていく。一つにはユーロダラー市場における資金量の急速な拡大と、73年の石油ショックによるオイルマネーの急増である。第二に先進国においては石油ショック後のインフレ対応策として、経済成長が抑制されることになり、そのため投資資金はその運用先を求めていた。一方、ラテンアメリカ諸国ではこの時期、成長率を下げることによって経常収支の赤字を縮小する道ではなく、海外資金を導入することでその赤字を解消し、高度経済成長政策を続ける道を選択したのである。第三にラテンアメリカ諸国のこの間の工業発展と多くの国が資源保有国であるという事実は、資金供給側にとってラテンアメリカ諸国を融資対象として魅力あるものとしていたし、国際金融市場での信用度も高めていた。
こうした国内外の状況によって、ラテンアメリカ諸国には豊富な海外資金が流入し、先進諸国が経済成長率をマイナスにしていったオイルショックの時期においても、ラテンアメリカ諸国は74年には7%、75年には3・8%、76年は5・4%という成長率を達成していった。そして当然、ラテンアメリカ諸国は累積債務増大の構造の中に入り込んでいくことになる。経常収支の赤字解消のみならず、債務利子の支払いと元本支払いのために海外資金を導入するという隘路に入り込んでいったのである。
この構造に追い打ちをかけたのが79年以降、アメリカがインフレ抑制、及びドル防衛のために実施した高金利政策と、世界的な景気後退による第一次産品輸出の停滞であった。アメリカの高金利政策はユーロ市場を高騰させ、その多くが変動利子率のもとで契約されていた債務利子負担を急増させることになった。そして当然第一次産品市場の停滞はラテンアメリカ諸国の経常収支の赤字を急激に拡大していくことになる。
こうしたラテンアメリカ経済の先行きに対する不安によって、81年以降、ラテンアメリカへの資本の流入は急激に減少し、82年に入ると、資本の逃避が一斉に始まっていくことになったのである。
ここで注視しなければならないのは債務危機が非産油国のみならず、石油ショック以降、石油価格の高騰によって貿易収支の黒字を大幅に拡大したはずのベネズエラ、メキシコ、エクアドル等の石油産油国でも起こったという事実であり、国家主導型の積極的経済発展政策をとっていたブラジルのような国だけではなく、自由主義経済政策をすでに採用していたアルゼンチン、チリ、ウルグアイ、ペルー等でも生じたことである。
しかも、コロンビアのように石油の自給度が高く、どちらの経済政策も積極的には採用してこなかった国でさえ、確かに債務額は他諸国に比すれば低いのだが、その債務額の拡大と債務利子支払いの増大は無視しえない水準に達することになったのである。
こうした事実は発展途上国、あるいは中進国といわれる諸国がいかなる経済発展政策をとっても、債務危機は避けることができない普遍的問題であることをうかがわせている。
4 軍政の終焉と民政への移管
軍事政権はその初期においては、左翼を弾圧し、労働運動、農民運動を抑え込むことで急速に社会の秩序を回復し、中間層や、ブルジョアジーの支持を獲得した。そして、ポピュリストたちが行ってきた社会政策を廃止して、国家財政を長期的経済政策への投資へと集中させ、また情実、縁故等に左右されてきた行政を、テクノクラートによる合理的なものへと改革しようとしたのである。しかし、軍政はブラジルを除くとはかばかしい経済発展を達成することはできなかったし、社会問題を解決することもできなかった。
そのことは当然、長期化する軍政の正当性を失わせ、インフレの高進と失業の増大は労働者、低所得者層の反軍政熱を高めていく。ラテンアメリカ諸国における軍政反対の動きは国民の広範な層に広まってくことになった。そして、ブラジルにおいてもその経済的成功ゆえにブラジル社会の政治的緊張は緩和され、民政を要求する声が高まっていったのである。
そうした事態に拍車をかけたのが、82年の債務危機とそれに引き続く経済危機であった。そのことは、軍事政権反対の動きを加速させ、軍の政治への介入権を制度化した上で民政を実施するという軍事政権のもくろみを破産させていく。またその過程での軍部の暴力的な弾圧政策のエスカレートは、民主主義者や、中間層のみならず保守層の支持をも失わせることになったのである。
ブラジルでは70年代後半以降、軍部の上からのコントロールの下で民政化が進められてきた。しかし、経済危機の進展は経済実績をその正当性のよりどころとしていた軍部の威信を一挙に低下させ、民政移管の動きは軍部の思惑を越えて進展していくことになる。軍部は自らのコントロール下での民政の実施というもくろみに失敗、85年には野党の大統領のもとでの民政が実現する。
ブラジルに比してはかばかしい経済的実績を上げえなかったウルグアイ、チリ、軍政期に経済的に後退したアルゼンチンにおいては、そうした軍部の試みは一層困難であった。ウルグアイ軍部は民政移管に先立って、軍部の政治介入権を承認した新憲法を制定しようとするが国民投票で否決される。そのため軍部は反対派への弾圧政策を強めるのだが、84年には民政移管への総選挙を余儀なくされ、翌85年には民政に移管する。
チリではブルジョアジー、中間層に社会主義に対する恐怖が強く、80年には軍政の制度化を盛り込んだ新憲法が一旦は国民投票によって承認される。しかし、教会、キリスト教民主党等を中心とする反軍政闘争はやまず、82年以降の経済危機は労働者、学生の街頭での闘争を公然化させていく。そして、ついには中間層、ブルジョアジーの離反をも招き、88年にはピノチェットの大統領任期の延長は国民投票で否決されるのである。
経済運営に失敗したアルゼンチン軍部は82年4月、マルビーナス諸島占領という軍事的冒険に軍政継続を託したが失敗、翌83年10月民政移管のための選挙を実施、12月には民政移管が実現する。
また、中米においても、軍事政権による激しい弾圧は国民各層の幅広い軍政に対する反発を呼び起こし、中間層の軍政からの離反を招き、反政府ゲリラの基盤を拡大していく。こうした情勢を背景に1979年にはニカラグアではサンディニスタ革命の勝利という形で軍政は終焉、84年にはエルサルバドルで、86年には極めて形式的ながらグアテマラでも民政に移管することになる。
こうして60年代から70年代にかけて、ラテンアメリカを覆いつくした感があった軍事政権は、1993年に民政移管したパラグアイ、94年にアメリカ合衆国の軍事介入によって追い落とされたハイチの軍事政権を最後に、ラテンアメリカから姿を消すことになる。
しかし、この軍事政権の後退と民政の実現の過程で留意しなければならないことは、この過程が軍事政権を打倒し、軍を解体して成立したのではないということである。確かに反軍政闘争、民主化要求の闘争の高まりはあったのだが、軍の政治からの退場は軍自らの決定に基づいて、軍自らのイニシアチブによってなされたものであった。
従って、軍は自らが歴史的に持ってきた特権、この間の軍政の過程で獲得した制度的特権はそのまま維持することになった。つまり、現在でも軍部は行政からの制度的な自立性、軍人の軍事法廷での被裁判権、軍事予算の決定権、治安対策での支配裁量権、原子力開発を含む軍事産業の管轄運営権、憲法改正への拒否権(チリ)等を所有したまま厳然と国家の中に存在することになったのである。また当然、軍政期の人権侵害は不問に付され、あるいは恩赦法で救済されることになった。
このようにラテンアメリカ諸国では民政が実現したとはいえ、軍部の力はいぜんとして強く、民政の基盤は脆弱であり、「民主主義」が実現したとはいいがたい状態が続くことになる。こうした政治情勢、経済情勢の中で、ラテンアメリカ諸国は新自由主義経済の時代を迎えるのである。
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