新自由主義経済下のラテンアメリカ〔9〕
新自由主義経済改革を支えた政治構造
山本三郎
1 ポピュリズム政党の変身とその役割
ラテンアメリカにおける新自由主義経済政策への急激な転換は、〔Ⅷ〕―(1)で示したような広範な制度的改革を伴ったものであり、大きな社会的コストを伴うものであった。そして、その影響は労働者や都市貧困層だけではなく、農民、都市中間層、企業家層を含む広範な層に及んだのである。
そうした負のリスクを伴った急激な変化をなぜラテンアメリカの民衆は大きな混乱もなく受け入れたのだろうか。もちろんハイパーインフレをなんとか抑えたいという国民的合意があったことは間違いない。軍政の終焉と冷戦終焉による国内の融和的状況、左翼勢力の展望の喪失といった事態も背景にあったろう。しかし、この経済改革による急激な社会の変化、所得分配構造の不平等化、都市における貧困層の増大といった問題は、そうした要因を後景においやって社会不安を爆発させかねない問題であった。
チリの事例はそのもっとも簡潔な解答の一つである。チリはピノチェトの軍政期にこうした経済構造の転換を行った。この構造改革によってチリは激しい経済的後退と、貧困の増大に見舞われるのだが、この危機をピノチェトは激しい軍事的弾圧によって乗り切ったのである。
しかし、多くのラテンアメリカ諸国が新自由主義経済政策を選択する1980年代後半期、軍政は終焉し民政の時代に入っていた。この時期多くの国で新自由主義経済改革のイニシアチブをとったのは、従来国家主導型の輸入代替工業化政策を推進してきたポピュリスト政党だった。ベネズエラの民主行動党、アルゼンチンのペロン党、ボリビアの民族革命運動と左翼革命運動、メキシコのPRI(制度的革命党)等である。
メキシコにおける長期政権政党であるPRIを除くと、彼らを政権につけたのは、ハイパーインフレと経済破綻に苦しむ民衆、とりわけて貧困層のポピュリズム政党に対する期待であった。しかし、政権についた彼らは輸入代替工業化政策だけではなく、ポピュリズム的社会政策をも一掃し、激しい経済安定化策をとっていったのである。
彼らにそのような選択をさせたのは、経済危機とハイパーインフレに表現されたあまりにも大きなポピュリズム的政策の破産であった。そして累積債務危機の発生は、IMFの経済安定化策を受け入れる以外の選択肢を彼らから奪っていたという事情もあった。
大衆的レベルからすれば裏切り的ともいえるそうした政策を、彼らが比較的容易に実現できたのはなぜなのだろうか。第一の要因としてみなければならないのは、彼らの持つ社会的なコントロール装置の存在である。確かに彼らはポピュリズムの経済政策、社会政策、外交政策は放棄した。しかし、彼らはポピュリズム政党が持つ社会的なコントロール装置、とりわけ労働者に対するコントロール装置を放棄したわけではなかった。そして彼らは貧困に苦しむ民衆のポピュリズムに対する歴史的な幻想を大いに利用することができたのである。そうした意味で彼らは民衆の不満を抑え、民衆の持つポピュリズムに対する幻想を新自由主義経済への幻想へと転化させるには最適任者であった。
第二の要因としてあげられるのは、ポピュリストたちが従来彼らと激しく対立してきた保守派(伝統的な自由主義経済派)を一定程度取り込むことに成功したことである。ポピュリストの新自由主義経済路線の選択は、保守派との路線的違いをほとんどなくしていたし、保守派にとってもよりスムーズな経済的転換は望むところであった。
第三の要因は軍の直接的、間接的なこの転換過程への関与である。軍はこの転換期に軍事クーデターという形で関与するのではなく、文民政府と協力して社会混乱を抑える暴力装置として登場したのだった。
そうした意味でこの転換の過程を実行した政治構造とは、ポピュリストと保守派と軍の同盟的とでもいえる関係だったのである。
もちろん、こうしたことが図式どうりに全てのラテンアメリカ諸国で起こったわけではない。ブラジルやペルーではポピュリスト的政権の破産を受けて、新しい政党、新しい政治家によって脱ポピュリズム化が実行された。またポピュリズム政党自らによって脱ポピュリズム化が図られたアルゼンチン、ベネズエラ、ボリビア、メキシコ等にしてもその過程は様々な形態をとったことは言うまでもないことである。
2 アルゼンチンの事例
アルゼンチンの事例はポピュリズム政党の変身と、その新自由主義的経済改革に果たした役割を語るのに最もふさわしい事例である。民政移管後初の大統領になったのは、民族主義的政党である急進党のアルフォンシンであった。その基盤は都市中間層と労働者の一部であり、したがってアルフォンシンは軍政下で抑圧されてきた彼らの賃上げ要求等に早急に応える必要性があった。
しかし、アルゼンチンはブラジル、メキシコにつぐ重債務国であり、IMFとの債務返済交渉の中で賃金抑制策を迫られていた。一方、労働総同盟は早くからIMFとの交渉に反対してゼネスト等の反対闘争を行っていたのである。
こうした中でアルフォンシン政権はIMFと合意、賃金抑制策を実施、87年には民営化路線も採用する。反発を強めた労働総同盟は対決姿勢を強め、以降アルフォンシン政権下で13回ものゼネストを打つことになる。
結局、アルフォンシン政権による新自由主義経済改革は中途半端なものに終わり、激しい経済混乱の中で89年5月の大統領選挙ではペロン党のメネムが当選する。メネムを大統領に押し上げたのはこの経済混乱の収拾への期待と、アルフォンシン政権の反民衆的政策=新自由主義経済政策に対する大衆的な不満であった。ペロン党は「社会正義」、「経済的自立」、「政治的主権」を掲げるポピュリズム政党の一つの典型である。
しかし、大統領に就任したメネムはこうした大衆の要求を無視し、アルフォンシン政権が挫折した新自由主義経済政策を実施に移す。徹底した民営化の実施と、公務員の削減、省庁の統廃合、公共料金の値上げ等の社会サービスの削減による財政赤字解消策の実行である。そして外交路線を親欧米路線へと転換する。
アルフオンシン政権下でゼネストを繰り返した労働総同盟は、この間92年11月に一度ゼネストを行っただけであった。メネムはポピュリズム政党からそのポピュリズム政策を一掃し、新自由主義的経済改革を大きな社会的混乱もなく実施したのである。
このメネムの成功の背景には、89年に3080%、90年には2314%にもなったハイパーインフレを抑えたいという国民的合意があった。そのうえ社会サービスの削減によって最も打撃をうけるはずの貧困層は、伝統的にペロン党の支持者であった。メネムはペロン党に幻想を持つ彼らの支持もあてにすることができたのである。
そしてなによりも労働総同盟はペロン党の指導下にあった。メネムはCGT内の反経済改革派を分断することによって、労働運動を完全に抑えることに成功したのである。メネムはポピュリズム政策を放棄はしたが、その社会的コントロール装置は十二分に利用したのだった。
そしてメネム成功の第二の要因は、従来反ペロン党だった保守派を政権内部に取り込むことに成功したことである。新自由主義経済政策を採用したことは、彼らとの政策的違いをなくし、彼らとの妥協を可能にしていた。メネムは経済大臣にアルゼンチンを代表する多国籍企業の関係者を就任させ、保守派の民主中道同盟の委員長を債務問題担当の大統領顧問に就けたのである。
第三にあげられるのは軍部との妥協を成立させ、軍部との協力関係を構築できたことである。前政権のアルフォンシンは軍政期の指導者を裁判にかけ、有罪判決をかちとっていた。しかし、メネムはアルフォンシンとは違って彼らに恩赦を与えて釈放し、軍部との妥協をはかったのである。こうしてメネムは軍部の協力も得ることができたのだった。
3 ボリビアとベネズエラ
ボリビアとベネズエラで新自由主義経済改革を実行したのもポピュリストであった。ボリビアでは1985年、1万1980%を超すインフレと経済破綻を背景にして、「民族革命運動」のパス・エステンソロが20年ぶりに三度目の大統領に就任し経済改革を実行する。彼は52年のボリビア革命の英雄であり、ポピュリストであった。従って彼が行った新自由主義経済改革とは、ボリビア革命を通じて彼自身が建設した経済社会制度を逆転させるものであった。鉱山公社の労働者を3万人から7000人に削減することに代表される彼の新経済政策に対して、労働者は猛反発しゼネストで対抗する。しかし、パス・エステンソロは軍部の協力を背景に戒厳令しいて鎮圧したのである。そしてこの政策は同じポピュリスト党である左翼革命運動のパス・サモラ政権下(89年)でも継続されることになる。
ベネズエラではアルゼンチンやボリビアのようにはポピュリストは成功することはできなかった。300人をこす犠牲者をだしたカラカッソ大暴動(89年2月)、続発する抗議行動と労働者のストライキ、軍事クーデター未遂事件(92年2月、11月)、憲法の一次停止措置、大統領の更迭など、新自由主義経済政策導入を巡って、ラテンアメリカ諸国の中で最大の抵抗、政治的混乱状況を示すのである。
89年ベネズエラでは「民主行動党」の第二次ペレス政権が成立する。彼はIMFの構造調整策を全面的に受入れ、新自由主義経済政策を実施する。しかし、その政策は豊富な石油資金を背景にした第一次ペレス政権(74年に成立)が実施した石油国有化や、ポピュリズム的社会政策を全面的に否定するものであった。それにもかかわらず国民がペレスを支持したのは第1次ペレス政権時代の豊かさへの幻想があったからであった。しかし、ペレス政権は国民の不満を抑えることができず、軍事クーデター未遂事件もあり、政権基盤が弱体化し、彼自身の汚職疑惑の中で倒壊する。
93年、ペレス政権とその新自由主義経済政策を批判して国民の支持を集めたカルデラが大統領に就任する。彼はIMFと一定の距離を置き、新自由主義経済政策を一部後退させる。しかし、93年、94年と経済成長はマイナスに落ち込み、96年にはインフレ率が同国では史上最高の100%を超えたのである。これをうけてカルデラはこれまでの政策を一転させ、ペレス以上の経済改革路線をとったのである。
そして98年12月大統領選挙で当選したのは92年のクーデター首謀者のチャベスであった。彼の当選は従来のベネズエラの二大政党制の崩壊を意味していた。彼は新憲法制定のための制憲議会開催を掲げ、政治の改革を訴えて当選した。
彼を大統領に押し上げたのは、貧困の増大、社会的不平等の拡大、治安の悪化、政界・官界の腐敗に対する国民の間に広がる不満であった。彼はそうした不満を、クーデター未遂事件を背景にした強力なカリスマ性と巧みな話術で取り込むことに成功したのである。
しかし、彼にこれらの問題に対する処方箋があるわけではない。98年のベネズエラの経済成長率はマイナス1・0%であり、財政収支は対GDP比マイナス5・7%であった。財政収支の赤字は99年度は対GDP比マイナス9%に拡大するだろうと予測されている。3月末チャベスが発表した経済政策は前政権の新自由主義経済政策を受け継いだものであった。すなわち増税を含んだ緊縮財政であり、外国投資促進策であり、債務支払い期限遵守というものである。
彼に何らかの政治的基盤があるわけではない。彼の政治スタイルは個人的パフォーマンスによって国民に直接訴えかけ、その支持を背景にトップダウン方式で独裁的に重要事項を決定していくというラテンアメリカに伝統的にある形態である。そして彼はその政権基盤の強化のために多数の軍人を登用するとともに、92年の軍事クーデター参加者の復権を行ったのである。このことは彼が軍部と提携することによって、新自由主義経済改革を行おうとしていることを示唆しているのではあるまいか。
4 メキシコ、ペルー
メキシコにおいて大統領のサリナスがそのことに成功したのは、PRIが伝統的に持っていた労働者をはじめとする国民各層に対するコントロール組織が有効に働いたからに他ならない。サリナスは労働組合、政府、財界による経済安定化協約を成立させることで労働者を抑え込むことに成功したのである。
また注目されることは80年代末以降、与党PRIと野党右派のPAN(国民行動党)が接近しはじめたことである。80年代初頭以来、PRIの一党独裁の長期政権に対する批判と民主化を求める声の高まりの中で、PRIへの支持率は急速に落ちていた。その中心になったのはPRI左派のカルデナスが結成したPRD(民主革命党)と、北部の企業家、中間層を基盤にした右派のPANであった。
サリナスの新自由主義経済政策は元々PANの主張であった。またPANにしても左派のPRDの支持の拡大に歯止めをかける必要があった。利害の一致した両者は新選挙法を成立させる。PANはそのことによってPRIへの批判票を右へと取り込むことに成功し、党勢を全国的に拡大し、結果的にPRIを右から補完することになるのである。そのこともサリナスの経済改革を安定的に実現させた大きな要因であった。
ペルーでは90年7月にフジモリが大統領に就任する。彼を大統領に押し上げたのはハイパーインフレと経済の後退の中で苦しむ貧困層であった。ペルーの経済危機は激しく、経済成長率は八八年にはマイナス8・4%、89年にはマイナス11・5%を記録、消費者物価上昇率も89年には3398%、90年には7481パーセントに達していた。
こうした経済の後退は83年の債務危機以来のベラウンデ政権の新自由主義経済政策と、85年のアプラ党の反新自由主義経済政策=ポピュリズム政策のもたらしたものであった。もはやペルー国民は既成政党だけではなく、新自由主義経済にもポピュリズムにも期待することはできなかった。また取って代わるべきペルーの左翼勢力も、世界的な社会主義の後退の中で急進派と穏健派へと分裂し、民衆の選択肢になりえなかったのである。
こうした情勢を背景に大統領に就任したフジモリは、議会をバイパスして国民と直接結びつき、その国民の支持を背景にして経済改革を実行するのである。反対派を抑え込むために軍部と結びつき、その力を動員して大統領自らがクーデターを実施、国会を閉鎖し、憲法を停止してこの過程を乗り切ったことは周知の事実である。
5 ブラジル
ブラジルが従来のポピュリズム政策と完全に決別して新自由主義経済政策をとるのは、89年大統領に当選したコロル政権以来である。コロル自身は92年の汚職事件によって辞任に追い込まれるが、この経済改革路線はフランコ政権の蔵相として94年にレアルプランを実施したカルドーゾ大統領の下で本格的に実行されていく。
カルドーゾを支えているのは、インフレの収束と貿易自由化路線によって安価な外国製品流入によって潤った低所得者層を中心とした国民の支持である。しかし実際には、レアルプラン(〔Ⅰ〕―(3)参照)下での激しい企業の淘汰現象、リストラの拡大、そして失業の増大は、多くの労働者をインフォーマル部門へとおいやり、ラテンアメリカ諸国の中でも最も激しいブラジルの所得格差を一層ひどいものにしていたのである。
こうした情勢にもかかわらずカルドーゾが国内政治的には大きな破綻をもたらさずに経済改革を実行しえている大きな要因の一つは、社会民主主義的中道派から保守派までの強固な連合を形成しえたことである。その構造は長期にわたるポピュリズム政権下で、利害関係が錯綜し、小党が乱立しているブラジル政界にとって非常に重要な意味を有していた。そしてこの構造は昨年末の国会で否決された財政安定化計画関連法案が、今年の1月以降成立していることに見られるように、今回の通貨危機の圧力の下で一層強まっているようである。
第二の要因は労働運動を一定取り込み、コントロールするのに成功していることである。ブラジルでは軍政末期から、独立派の労働運動が高揚し、労働運動にとどまらず社会運動、政治運動にも大きな影響力をもたらしてきた。ブラジル労働者党(PT)と統一労働者組合(CUT)の存在である。
CUTを中心とする労働組合は80年代末期のハイパーインフレの中で、生活防衛を掲げて89年には四千件以上のストライキで闘うのである。しかし、90年代に入ると労働組合の闘いは後退し、新自由主義経済改革の中に取り込まれていく傾向を示していく。
コロル政権には官製労働組合の流れを組むCGT(労働総同盟)の委員長が入閣、コロル政権を引き継いだフランコ政権にはPT、CUT系の人脈からも入閣者をだす。そしてカルドーゾ政権下で労働組合は企業、政府との三者間交渉へと入っていくにいたるのである。
通貨危機の中で99年3月のサンパウロ州(ブラジル工業生産の40%を占めている)の失業率は19・9%という記録的な高率を示した。しかし、それにもかかわらずこれといった労働者のストライキ闘争は伝わってはきていない。ちなみに九八年におけるブラジル全土でのストライキ数は320件にすぎなかった。
6 予測されうる今後の政治構造
この間のラテンアメリカの政治構造の再編成は、新自由主義経済改革路線の必然的な結果である。なぜなら、新自由主義経済改革とは、従来の経済的・政治的利害関係を解体し、再編成する過程にほかならないからである。
ポピュリストによるポピュリズム政策の放棄と保守派との結合、国家が上から中央集権的に利益団体を取り込んできたラテンアメリカ的コーポラティズムの一翼を担ってきた労働組合の力の解体、パトロン・クライアント関係の変質は、そのことを象徴する出来事である。
こうした伝統的なラテンアメリカ的政治形態の後退、そして民政が比較的長期間継続しているという事実は、ラテンアメリカの政治がいわゆる欧米型の民主主義政治(三権分立、代表制民主主義)の方向へと進んでいることを単純に意味しているわけではない。
少なくとも発展途上国においては、新自由主義経済と民主主義は相いれない制度である。新自由主義経済改革は当初の段階において、所得分配構造を一層不公平にし、貧困を増大させる。そしてその期間もかなり長期にわたるのである。民衆の反発を抑え、経済改革を安定的に、そして長期にわたって実行するためには、必然的に何らかの暴力装置と民衆に対するコントロール装置が必要とされるからである。
しかし、冷戦の終焉という国際政治の状況の中で、軍事政権という選択は国際資本にとっても、ラテンアメリカブルジョアジーにとっても、今、直ちに採りうる手段にはなりえない。彼らにとってなによりも都合がいいのは、民主主義的体裁をとった強権政治なのである。
進歩的社会政策、外交政策を放棄して、民衆支配の構造を国際資本に提供したポピュリズム(ネオ・ポピュリズム)、労働組合に対するコントロール装置を利用して経済改革にとって邪魔になる労働者を切り捨てたコーポラティズムは、彼らにとっての一つの有力な選択肢であるだろう。
またペルーのフジモリ、ベネズエラのチャベスの政治スタイルも考えうる政治形態である。彼らは経済危機と既成政党の腐敗に対する不満を背景に、個人的パフォーマンスで人気を集め大統領に当選した。彼らの登場にはテレビを始めとしたマスコミの力が大きかったことは言うまでもない。彼らこそまさに強いカリスマ性を備えた現代のカウディーヨなのである。
彼らは議会や政党をバイパスして国民と直接結びつき、その支持を獲得する。そうした形での国民の委任を背景にして、独裁的に大統領としての強権をふるっていく。つまり、委任型民主主義とでも言うべき政治スタイルである。
そして、ネオ・ポピュリズム体制にしても、委任型の民主主義体制にしても、その強権的政治を背後で支えているのが軍部の存在であることは前述したとうりである。
こうして、新自由主義経済下のラテンアメリカにおけるブルジョアジーの国家の形態は、いわゆる民主主義的なものになるのではなく、外見上は民主的な体裁をとりつつも、国民に対する直接的なコントロール装置と、強権的な抑圧機構を持ったものになっていくと予測されるのである。
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