空爆下のマケドニアとアルバニアの難民キャンプを訪れて

空爆は非軍事的解決への努力と可能性をつぶした

豊田直巳さん(フォト・ジャーナリスト)に聞く

 6月4日、78日間に及ぶNATO軍のユーゴ空爆は終結した。以下は、空爆の続く4月下旬、マケドニアとアルバニアの難民キャンプと、5月にオランダのハーグで開かれた「ハーグ平和市民会議」に参加した豊田直巳さんへのインタビューを、編集部の責任でまとめたもの(インタビューは6月はじめに行った)。


驚いたこと、感じたこと

 NATO軍のユーゴ空爆が始まってから1カ月になろうとする4月下旬、コソボに隣接するマケドニアとアルバニアの難民キャンプに行ってきました。この間、世界でさまざまな難民問題を取材してきた者として、この戦争をどう見るか考えたかったからです。ユーゴ側が国境を閉じていたので、ユーゴとコソボには入れませんでした。
 まず入ったのはマケドニアです。マケドニアは旧ユーゴ分裂の過程で戦争にならなかったので、インフラはキチンとしていました。学生がアメリカ大使館に投石したということで、閉鎖されている道路もありました。
 何万人も収容する3つの難民キャンプがあって、どんどん拡張工事をやっているんですが、増える難民の数に追いつかない。ひとつのテントに数家族が入っているという状況。びっくりしたのは、マケドニアが難民を受け入れないという政策をとっていたことです。キャンプは、第三国に運ぶための一時滞在地という位置づけでした。国内に難民を勝手に流出させない。
 したがって難民キャンプは閉鎖された空間で、マケドニア人も自由に出入りできない。僕もNATOとマケドニアの情報省のプレス証をとって入りました。戦争の中という緊張感はなく、NATO軍が食糧配布などの仕事をのんびりやっているという状況。
 アルバニアにまわる途中で検問にひっかかった。何かと思ったら、そこに十数人のコソボの青年たちがいた。アルバニアに出て、そこからコソボ解放軍に合流するということでした。
 アルバニアは難民を受け入れていました。街を出歩いてもいい。だから、トラクターで国境を越えてどんどん入ってきていました。国境の町クカスでは、人口の3倍もの難民が入っていて、最初は民家に入れていたのでどの家も一杯。それでどんどん南の方に回していました。
 それは大変な状況でした。マケドニアとちがって、例のネズミ講で政府が崩壊して以降、アルバニアはほとんど国家の態をなしていない。産業は世界銀行とIMFの構造調整策で、皆つぶされてしまって、工場はほとんど止まっている。しかもその工場も古いものばかり。政府には難民受け入れ能力はない。
 そこへ困っている人たちがどんどん入ってきても、2~3日は良くてもあとはウンザリというのが実情だろうと思います。援助も、難民には入っても、難民を受け入れる貧しい人たちには渡らない。アルバニアのインフラはメチャメチャで、国連難民高等弁務官事務所も、難民を南下させるにしてもまず道路作りからという状況ということでした。
 アルバニアに入ってびっくりしたのは、全土にキノコがニョキニョキ生えているように、大きなトーチカが作られていたことです。200万個のトーチカがあるらしい。まわりの国はみんな敵という政策だったから、道路はボロボロでも全土が要塞になっていた。
 難民に対する民族主義的連帯とか一体感という雰囲気はなかったんじゃないでしょうか。むしろマケドニアの方が、もともといっしょの国で本当は親しい関係という感じなんだと思いました。コソボ解放軍に入るのも、あくまでもコソボ出身者で、アルバニアから行く人はいない。
 コソボ解放軍に入るという若者たちとは何人も会いましたが、彼らはやはりNATO軍の空爆を支持している。他に解決の道はあるのか、ということです。非暴力・対話による解決をめざしてきたルゴバ派の人たちとは会えませんでした。

唯一のオルタナティブ

 僕はやはり、暴力は解決の道を閉ざしていると思います。イラク危機の時、アンマンで反フセイン派の指導者という人物に会ったことがあります。ラジオ局を持ち、新聞も出しているんですが、CIAのエージェントそのものという感じ。まっとうなジャーナリストなら皆、そう思う。
 コソボ解放軍についても、彼らにどのような正統性があってNATOは支援したのか。そもそもアメリカは彼らをテロリストと言って非難していたはずだ。ミロシェビッチとねばり強く話し合いを続けてきたルゴバ派の方が、はるかにまともだと思う。ルゴバ派の場合は、独立と言ってもモンテネグロのような、連邦内の独立共和国化を望んでいた。
 ミロシェビッチは、ロシア軍が国連軍として入るのなら治安部隊を撤退させると言っていた。でもアメリカは絶対にそんな解決策は認めたくない。だから爆撃を徹底的に続けた。空爆によって難民はどんどん増えて、毎日何万人も出た。自分たちが難民を出しておきながら、NATOの広報官は難民を支持すると言う。
 今日合意が発表された和平協定では、NATO軍が入って難民を戻すという。お前たちが追い出しておいて戻すのか、と言いたい。アルバニア系住民とセルビア系住民の対立は修復できないほど深まったし、空爆は何も解決しなかった。誤爆による民衆殺害も含めて、NATOは一切の責任をミロシェビッチに押しつけようとするだろう。
 アルバニアから、5月にオランダのハーグで開かれた「ハーグ平和市民会議」に参加しました。そこで感動したのは、昨年の10月からコソボに入って人権擁護活動をしてきたという、非暴力インターナショナルのアメリカ人スタッフとの出会いでした。
 彼の名はミハエルと言いましたが、彼は「昨年秋から年末、非暴力による解決派が急速にコソボ解放軍支持に流れていくのがくやしかった。戦争が起きる前の活動がいかに大切かということを、あらためて感じた」と言っていました。「反戦平和」という言い方ではなく、「非暴力」という言い方の意味を学んだ気がします。
 人権抑圧や紛争を、アムネスティのような告発と世論で止める。ねらわれている人には外国人がいることで防波堤になる。何かあれば世界に告発する。50年前なら不可能だったことが、メディアの時代のいまなら可能です。非暴力による解決をめざして紛争地に入る人のうしろに、情報を広げるネットワークがある。
 95年のボスニア内戦の時、クロアチアで会うことができた反戦グループの人たちは、セルビアの反戦グループとネットワークを作っていました。ハーグの会議に参加していたドイツの「兵士の母たち」というグループの人たちも、ベオグラードの女性たちとも共同で、NATO加盟国の兵士の母親にも呼びかけて、ユーゴに「母親たち」の使節団を送ろうとしていました。
 このような行動だけが、軍事による解決ではない唯一の現実的オルタナティブでした。その可能性はあったと思います。しかしNATOの空爆はこの可能性をつぶしました。NATOはルゴバではなくコソボ解放軍を押し立てました。NATOは、コソボ問題を解決したかったのではなく、戦争をやりたかったんだと思いました。

ハーグ市民会議での異和感

 ハーグの会議では2回、「日本デー」というのがありました。日本から広島市長や長崎市長、社民党の土井党首もふくめて何百人も来ていて、「日本デー」に参加しているのはほとんど日本人という状況でした。会議では「公正な国際秩序のための基本十原則」というのが採決され、その中に「日本の憲法九条を見習う」という文言が盛り込まれたんですが、すごい異和感がありました。
 だれもが9条の素晴らしさを語って、それが徹底的に空洞化している現実を語らない。世界第2の軍事費の問題、核持ち込みやプルトニウムですでに「非核」でない現実について語らない。新ガイドラインについて語らない。これではわけがわからなくなってしまう。劣化ウラン弾による被爆の問題も議論にならない。これでは政府のお題目といっしょじゃないかと思ってしまいました。
 本当に平和憲法と結びついて「国際的に名誉ある地位」を獲得しようとするならば、今度だっていくらでも「国際貢献」できたはずです。もし日米安保条約がなく、自衛隊がなければ、今回の和平をめぐってフィンランドが果たした役割を、大きな権威を持って日本が果たすことができたでしょう。1万人の非武装派遣団を送ることもできたでしょう。非武装で入ったって撃たれることはない。全世界がパラボラアンテナとサテライトでつながっていて、世界中が見ているからです。
 こういう発想を、「9条は素晴らしい」と言う人たちはなぜしないのかと思います。安保があるから「国際貢献」できない。自衛隊があるから「国際貢献」できないんです。(文責編集部)

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