イタリア:パレスチナ連帯

ジェノバの大決起は例外か?

マルコ・ベルトレッロ

 「グローバル・スムード船団」(前号で掲載した「自由の船団」の公式名称:訳者)を支持する大決起は社会的空気の指標だ。そしてそれはわれわれに、人間性のための余地がまだある、と告げている。
 この日々にジェノバで起きたことは、まれなとは言わないまでも何かむしろ異例なことだった。国際連帯の成長一方の運動は、提供する食料品集めで始まり、「グローバル・スムード船団」に参加予定の4隻の小舟の出航に同行する巨大な行進で、土曜日(8月30日)夜最高潮に達した。それは、ガザへの人道援助を運び、その孤立を破ろうと試みるだろう。

ジェノバ市民は
立ち上がった

 以下は、私の市で起きたことの極めて部分的で、速報的な記事だが、私は深く考える価値があると確信している。「平和を求める音楽」(MfP)は、パレスチナからスーダン――おそらくもっとも重要だと名を挙げれば――までの紛争地帯の民衆に向け、またこの都市の貧困層に向け、何年も食糧と援助全般を集め続けてきた市民団体だ。
 それは、食糧援助を集めることでこの船団に参加すると決めた。最初の推進者の中には、MfPと共にCalp(港湾労働者独立共闘)の港湾労働者がいた。イエメンでの戦争のため武器を運ぶサウジの船舶の通過に反対する何年にもわたる抗議を経て、イスラエルに戦争資材を運ぶと思われた中国の船舶ともうひとつのサウジ船舶に反対する最近の行動は、ある種の画期的な飛躍を示していた。
 双方の例では、事実として港湾労働者が、高まる民衆的関心を伴って港を通した武器の通過を何とか阻止できた。このところの日々では同じ注目が指数関数的に高まっていた。ガザに送るために食糧40トンを集めようとのMfPの訴えの後、この街はわれわれがしばらく見たことがないようなやり方で立ち上がった。
 労組、住宅街委員会、市民団体、ガール・ボーイスカウト、スポーツクラブ、さらに多くの市民個人がMfP本部前に列をなした。集められた物資は、食糧を貯蔵するスペースがこれ以上全くないことを理由に推進者が停止を呼びかけざるを得なかったほど、300トン近くに達した。食糧を箱詰めし船に積み込むために現れたボランティアの何人かは、あまりに多すぎ道にあふれていたため帰らされた。

広範な人々が
大行進に合流


 高まる一方の決起というこの空気の中で、土曜夜の行進が8月末の午後9時に行われた。警察はおよそ4万人がいたと語った。現在の市の住民は57万人以下だ。それは、ほぼ25年前のG8サミット以後ではジェノバで私が経験したことがない規模だった。それは、ジェノバのような昔からの都市ではまれな、むしろ低い平均年齢になるあらゆる世代の市民が混じり合ったものだった。主催者たちは、人々にパレスチナの旗だけをもってくるよう頼んだ。それらには自然発生的に平和の旗が加えられた。それはほとんど無駄な訴えだった。この時にこの人々を他にどんな旗が代表できたのだろうか?
 行進の最後では、民主党(PD)の前国会議員が「このデモをもしPDやCGIL(イタリア労働総同盟)が組織していたとすれば、われわれは2百人にしかならなかっただろう」と語った。おそらく、2百人ではないとしても、多分千人以上にはならなかった。
 自然発生性と草の根の組織化の混じり合いは明確だった。そのような大決起における決定的な要素は、援助の具体的な目標、加えてあまりに僅かしか認めていないジェノサイドに本気で立ち向かうという政治的な目的だった。
 長い間街頭に繰り出してこなかった人々が、「パレスチナ解放」を唱和し、「ベッラ・チャオ」(「さらば恋人よ」、イタリアで歌い継がれているパルチザン運動のテーマソング、反ファシズムのメッセージが込められている:訳者)を歌った。多くの即興的プラカードがあり、それは、決起が住民の大きな部分内部に広げられる際にはしばしば起きるように、的確で皮肉に満ちていた。
 それはジェノバの場合、われわれに次のことを告げるひとつの大きな行進だった。つまり、少なくともこの問題で、抗議し、自分で立ち上がり、共に街頭に戻るという切望あるいは意志が一定の期間発酵し続けていた、ということだ。
 これは普通ではないルートを使った行進だった。それはMfP本部を出発し、いつも歩行者に閉ざされている高架道路を進み、旧港に到着した。その途中、列車がふたつのトンネルから現れるもっと上方で、列車の運転士がデモにあいさつを送るため汽笛を鳴らした。海側の別の側では、フェリーへの積み込みの夜番を終えたGNV船積み集団の港湾労働者が、かれらの霧笛であいさつを送った。

困難な時代にも
予想外はいつも


 つまり、支持の広範な空気があり、それは私に、前回G8の間のコルソ・トリノ第一市民病院とコルソ・サルディーニャ市場で受けた支持を思い出させた。それは、それらの街頭をまさに燃え立たせた衝突の後に起きた支持だった。私は、2001年7月の酷暑と悲劇的な日々の中でデモ参加者の体を冷やすために窓から水を降り注いだ住民たちからの驚くような支援の光景を思い出している。
 しかしこの日々の震央は、サムピエルダレナ(ジェノバで最も人口の多い地区の1つ:訳者)と市中心部間の場所である、MfP本部だった。それは、昼も夜も往来に包まれ、いまは大手スーパーの到来で見下ろされている場、混雑した交叉路内部にある社会的空間の存在として、市のあらゆるところから何千人も何とか引きつけることができた場だ。
 そのような場にこれほど多くの人々が集まるのを見るのは印象的だった。MfPは何年もそこでその諸部分を組織化し続けてきた。しかし土曜日の人出は否定できないほどいつもより多かった。
 行進は、旧港で、出航準備中の小舟の正面で、終わった。夜遅い時間と長い歩行にもかかわらず、聴衆は多かった。もっとも評価されたものの中には、MfPの主な鼓吹者、ステファノ・レボラの発言があったが、彼の声はこの数日の疲労からかすれていた。彼には港湾歴史家のリカルド・ルディノが続き、パレスチナ民衆支援の行動がもし妨げられるならば、港湾労働者はイスラエル向け武器を阻止するだけではなく、当該国を終点とするあらゆるものを阻止するだろう、と伝えた(注1)。市長のシルヴィア・サリスは、レジスタンスで金メダルを受けた市は、抵抗する人々の支援に背を向けてはならない、と強調した。
 ジェノバ大司教区の代表は、この市でのG8以来人々がもうひとつの世界は可能だとどれほど信じているかについて語った。最後は、アーティストのピエトロ・モレッロに委ねられた。そして彼は全員に、沈黙にとどまらないことを求め、最後に1回「ベッラ・チャオ」を歌うよう促した。
 Calpの港湾労働者が着火した花火を合図に、そして見えなくなるまで航行を見守った興奮し謝意を表した群集に送られて、最後に小舟が出航した。
 私はこの記事を、単に興奮を覚えているからではなく、まさに私が簡単には興奮しないがゆえに書いている。私の考えでは、それは私の市にとってひとつの重要な画期だった。私は、それが将来や他の都市にとり何を意味する可能性があるか分かっていない。
 しかし私には、それが社会の空気を示す可能性がある指標であるように見える。私は、それは単なる一時の例外ではないと期待している。困難な時代にも、常に予想外の驚きの余地が、人間性にとっての余地がある。(2025年9月1日、「ジャコバン・イタリア」からIV向けにデイヴ・ケラウェイが訳出)

▼筆者はジェノバ港で働き、「イル・マニフェスト」(イタリアの左翼系日刊紙:訳者)に寄稿している。また経済、通貨、債務に関するエッセイの著者。
(注1)Novaramedia2025年9月2日、「イタリアの港湾労働者、ガザ援助船団が阻止されれば『欧州のすべてを遮断』と脅す」。(「インターナショナルビューポイント」2025年9月5日) 

THE YOUTH FRONT(青年戦線)

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