唯一の回答 民主運動への参加と要求の防衛
かけはし 第2662号 2021年4月19日
ベラルーシ 革命の「熱い春」に向けて
急進左翼の教訓、展望、戦術とは
パヴェル・カタルチェウスキー
1991年、ソ連邦とワルシャワ条約機構諸国における「社会主義」の官僚的モデルの崩壊後、ベラルーシは独立国家になった。自由民主主義の体制は1991年から1994年までの短期間存在したが、それはソビエトの遺産の一定要素を除去することができなかった。
1994年、官僚、発生途上のブルジョアジー、そして労働者階級間の社会階級的矛盾は、ポピュリスト政治家のアレクサンドル・ルカシェンコによる権力到達という結果になった。官僚は、その特権を放したがらず、ブルジョアジーは当時十分な強さをもたず、そして、新旧の主人両者は、労働者階級がスターリン主義だけではなく資本主義にも失望を覚えるかもしれないと、また彼らがソビエト期に存在してきた社会的保証の復活を求めるかもしれないと恐れた。
エリートの恐れが権威主義を
それらの怖れには十分な根拠があった。労働者が彼らの自立した大衆組織を築き上げ、ソビエト官僚制反対の闘いで相当な経験を積んでいたからだ。結果として官僚制とブルジョアジーは、1つの協定を結ぶことを、独裁者に彼らのカネと権力を保護するよう訴えることを強いられた。ベラルーシで確立された体制は、全社会グループ間で策謀を凝らし、明確なイデオロギー的枠組みの外部にとどまろうともくろむ、「ポストソビエト・ボナパルチズム」と表現され得る。
ルカシェンコが行った最初のことは、彼が国民投票と呼んだものを通して、彼の大統領権力を拡大することだった。結果として、民主的に選出された1院制議会は破壊され、司法権と立法権は執行権に従属させられ、ほとんどの大衆的労組組織は抑圧によって服従させられ、政治的反対派は公的空間から追い出された。
官僚はその影響力を保持し、ブルジョアジーはその保護者を容認するよう強要され、労働者階級は気前のよいロシアの貸し付けによってなだめられた。これがある程度まで何らかの安定の維持になり、ロシアやウクライナのいくつかのスターリニスト政党やポストスターリン主義政党は、さらに欧州でさえも、この体制を「社会主義」とみなすことになり、みなし続けている。
政治の冬を壊した深い理由
2020年5月、ベラルーシで巨大な抗議の決起が始まった。永続的な政治の冬にあるように見えた国は、その地下的な政治生活から浮上しつつあった。自由主義的な評論家や「左翼」の改良主義者は、選挙は意味をもつアピール行動もない形で行われるだろうと予想した。しかしながら、候補者指名に向けた署名集めの時から、人々は監視行動を抗議行動に変え始めた。たとえば、ミンスクや他の都市では、独立候補者を支持する署名を提供するために、数㎞の行列が形成された。これらの選挙の特殊性はまた、「古い」反政権派がそれらに立ち向かう準備ができていず、新顔が政治光景に現れ、それらのある者たちは以前既成エリートに近かった(元銀行家のヴィクトル・ババリコ、前外交官のヴァレリー・ツェプカロ)、という事実にもある。
諸々の大衆が抗議行動に加わり続けたことを見た体制は、ほとんどの民衆的候補者を受け入れず、彼らの何人かを投獄した。ルカシェンコの家父長主義的愚かしさが、彼に対し冷酷ないたずらとして作用した。中央選挙管理委員会は、立候補への意図のゆえに自身が投獄された反政府派ブロガーの妻、スヴェトラナ・ティハノフスカヤの大統領候補者登録を妨げないよう、暗黙に指令されたのだ。
ベラルーシの抗議行動は伝統的に、投票日に、あるいはその2、3日後に起きていた。今回は、反政府派を敵視したルカシェンコのほとんどあらゆる行為と言明が、街頭行動に対するいわば触媒になった。
8月、投票日の締め切り後、人々は街頭に繰り出し、票の公正な集計を要求した。警察は暴力と拷問に訴え、最初の死が起きた。8月15日、労働者階級が闘いに加わり、全国ストライキが呼びかけられる中、体制はこの抗議行動の中で拘束された者たちを釈放するよう強いられた。
これらすべてのできごとは、ベラルーシに独裁があり続ける中で蓄積されてきた底深い矛盾の証人となっている。しかしこの大衆的蜂起を生み出したものは何だろうか?
ほとんどの自由主義の評論家と改良主義者は、選挙は円滑に進むだろう、と予測した。政治革命が幽霊であった状態から現実になるように動いた時、彼らは、新型コロナ感染に関する体制の立場、選挙法に対する不愉快な侵犯、そして蜂起の原因としての抑圧を挙げた。
ただ一つの問題は、抑圧と選挙不正の増大はいわば結果であり、原因ではない、ということだ。もちろん多くのベラルーシ人は、警察が犯した拷問や流血や殺人を見た時、抗議行動に立ち上がった人々に味方した。しかしながらそれらの要素は、量的変化を質的変化に転化した最後のものだった。つまり革命的爆発は、権力を握ったルカシェンコの年月を通じたベラルーシの全歴史によって準備されたのだ。
独裁は、「社会的志向」をもっていると主張し、ソビエトへの郷愁を秘めたレトリックを使用した。しかしそれは、権威主義的政治体制に新自由主義の経済政策を組み合わせた。ルカシェンコの任期下で、学生、年金生活者、チェルノブイリ事故の後処理要員、そして他の社会的にもっとも脆弱なグループに対する手当は破壊された。加えてほとんどの労働者は、彼らの雇用契約を有期契約に転換された。そしてそれは、労働者が契約の持続機関に関する雇用主の同意を得ずに彼や彼女の職を離れることを妨げている。そして雇用主に、いつでも労働者を取り除く余地を与えている。
累進税等級も廃止され、2017年に体制は、最低賃金の職やひどい労働条件でも受け入れるよう人々に強いる目的で、失業者への課税導入をもくろんだ。その間、民主的な諸権利は完全に破壊され、独立労組は職場から追い出された。自立した労働者組織の場には、労働者を監視するために政府が完全に支配する「労組」が設立された。まさにナチスドイツの「労働者戦線」を偲ばせる。これらすべての要素は、われわれが1つの政治革命と呼ぶものを引き起こすことに終わった。
抗議の波は静まったのか?
不幸なことに、8月18日に告げられた全国ストライキは不発に終わり、数十万人を結集したミンスクと他の都市で行われた集会には、見ることのできる結果はまったくなかった。
体制の左翼的擁護者と左翼の「建設的評論家」は、全国ストライキは労働者階級が「間違った」抗議を支持しなかったために不発だった、と主張している。しかしこの考え方は全面的に薄汚い。われわれがこの論理に従ったならば、その後の数ヵ月に向けてその潜在力が十分であった革命的な波がまさに頂点であった時、労働者は1日で、その抗議は彼らのためになっていないと実感した、ということになる。
ストライキ失敗の主な理由は、25年間、職場に自立的労組がなかったことだった。事実、独裁の年月にわたって、独立諸労組は独立労組運動の老兵や活動家たちにとっての政治クラブになっていた。こうして、8月の蜂起が好機の窓を開けた時、諸労組は、彼らが行うと想定された機能を再学習しなければならなかった。留意されなければならなかったこととして、反体制派共産主義者から社会民主主義者までの全左翼政党が公共空間から追い出され、それら自身の生き残りと維持という方法で活動したために、労働者たちは長い間、政治的代表者と政治闘争の学校をも取り上げられていた。
彼らにそうする準備ができていた時に人々に勝利させることをしなかった自由主義者の戦術も、無視できる要素ではなかった。彼らの最初の失策は、プロレタリアートの抗議が高みにあった時、調整会議にただ1人の労働者もいなかったことだ! 次いでそれが遅すぎとなった時、1人の労組活動家が飾りとして含められた。
第2の問題は、調停に傾いた反政権派指導者たちが、投票日以前にも、独裁者とは妥協の可能性があると言明し、ルカシェンコに新たな民主的な選挙に参加する機会を与え、体制崩壊のあかつきに来る移行期に向け権力を握る官僚徒党を維持したことだ。そこで、彼の職や彼の家族の安全や彼の命と健康を犠牲にするつもりがある、しかしまた抗議参加者を殺害し傷付けている者たちとの妥協の可能性について聞かされている、革命的な労働者のことを想像してみよう。
はっきりした計画、ストライキ委員会の手抜かり、そしてまったくひどい抑圧が理由になって、諸行動は次第に僅かな人々しか動員できなくなった。11月には、抗議参加者の1人であったラマン・バンダレンコの残忍な殺害があった。彼は単に、彼の建物の中庭にあった抗議のシンボルを壊さないでくれ、と警察に頼んだだけだったのだ。しかしこの恐るべき事件さえも、数ヵ月間の収監、捜索、逮捕、拷問に疲れきったデモ参加者の急進主義と数に関して、多くを変えることにはならなかった。
今日、街頭行動は極めて局地的であり、人々自身の中庭の中で行われ、時には集合住宅内の抗議シンボル配布にまで切り下げられている。捜索、および労組活動家、人権活動家、ジャーナリストの逮捕は毎日あり、単なる通行人ですら、「誤った」色やソーシャルメディア上のポスターからとった写真を身につけているという理由で、収監に至る可能性がある。
しかしながら、この一時的敗北は無駄ではなかった。それは、それなしには将来の勝利が単純にあり得ないと思われる闘争の経験を、人々に与えたのだ。体制の敵内部にある全般的空気は、「熱い春」を待つというものだ。それはいくつかの事実に基づいている。この闘争の数ヵ月の中で抗議参加者が生み出した諸構造――「居住地委員会」、工場内のストライキチーム、工場および大学内の独立労組細胞――は保持されてきたからだ。ベラルーシKGBの長官さえも、当局は春の抗議を押さえつける準備をしている、と認めざるを得なかった。抑圧のエスカレーションという事実そのものが、ルカシェンコの王座がかつて普通であったようには堅固でない、と示している。
次へ向けた左翼諸勢力の準備
われわれのベラルーシ左翼政党「公正な世界」は、この国で今起きていることを1つの民主革命と評価している。そしてそれは党の綱領と一致している。党はまた、民主的な要求を過渡的な社会的諸要求で補うことが必要、とも考えている。その後者の要求とは、累進税等級の復活、賃金切り下げのない労働日の7時間までの短縮、独立労組結成に対する全面的な自由、あらゆる反労働者法の廃絶、そして体制が破壊してきた社会的手当と保証の復活だ。党はまた、ベラルーシの民主革命は1つの社会革命に転換可能であるだけではなく、そうでなければならない、とも確信している。
残念なことに、われわれの綱領からは今も1つの重要な点が見逃されている。つまり、労働者階級の諸グループの代表から構成された過渡的な機関の招集だ。というのも、それが、現在の民主的な要求から社会主義的要求へと、道を開くはずの要求だからだ。しかしながら筆者は、それは時間の問題にすぎず、抗議参加者の決起が前のレベルに達するならば、政治過程の発展は、左翼政党全体をこの要求取り入れへと押しやるだろう、と確信している。
2021年2月7日に開催された「民主的左翼フォーラム」もまた肯定的なものだった。このフォーラムの参加者は、3つの社会民主政党の中で最大の政党(グロマダ―会議)、緑の党、「公正な世界」、そして指導部が社会主義の立場を擁護している金属労働者の自由労組だ。これは完全に、「あらゆる民主派の統一戦線」に代わる、左翼統一戦線建設という立場に一致している。
トロツキーにしたがって私は以下のことを何度でも繰り返したい。つまり、ブルジョワジーとの一時的連携は、共通の綱領をもつことなく、また一時的連携者を批判することへの拒絶なしに、デモの組織化や抗議の扇動をつくり出すといった実践的な目的のためにのみ形成可能、ということだ。
結局、急進左翼にとって確かな道は1つしかない。それは、新たな抗議の決起に向け準備すること、そしてその諸政党、労働組合、民衆的権力の自己組織機関を保持するために闘うことだ。急進左翼は、民主的綱領をそれ自身の勝利的結論にまで導かなければならない。二分法――ティハノフスキー(あるいは彼女の場を占めることも可能と見られる他のすべての自由主義者)、またはルカシェンコ――に寄りかかる人々は、原理的に誤った立場をとり、労働者階級と他の被抑圧諸グループの政治的主体性を否認している。
可能な唯一の回答は、民主運動への参加――自由主義反体制派指導部との一枚岩的合同に巻き込まれることなく――、そして、独裁の解体へと至る、また同時にブルジョア民主主義の先へと進む、デモ決起者たちの要求の防衛だ。(2021年3月9日、ミンスク)
▼政治学者かつトロツキスト活動家の筆者は、ベラルーシ左翼政党「公正な世界」中央委員会メンバーであり、その青年組織指導者の1人。(「インターナショナルビューポイント」2021年3月号)
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