中国 新彊ウィグルの核実験反対デモと民族自決権

「世界革命」1986年1月20日号

高島 義一

 新彊ウィグル族の学生を中心にした、中国核実験に反対するデモが続いている。中国は六四年以来、ウィグル族自治区のロプノールで核実験を続けてきた。学生たちは、これが中国で今なお続く漢族によるウィグル族など少数民族差別のあらわれに他ならないと考えているのである。われわれは、ウィグル族学生たちの闘いを支持する。中国政府はロプノールでの核実験を中止し、少数民族に対する差別を一掃するための政策を強力に推進すべきである。

差別的政策に反対して

 中国で、ウィグル族など少数民族への中央政府―漢族の差別的政策の転換を要求する闘いが発展している。
 十二月二十二日、北京の天安門広場で、中央アジアの新彊ウィグル自治区出身の中央民族学院の学生たち約三百人が、同自治区での核実験反対など多くの要求をかかげ、中国共産党中央委員会のある中南海までデモを行った。
 学生たちが提出した嘆願書には、①ウィグル自治区における核実験反対②人民代表大会選挙をもっと民主的に行い漢族に対するウィグル族など少数民族の比率を増やせ③政治犯などを同自治区に送り労働改造するのをやめよ④少数民族に対する産児制度強要をやめよ⑤少数民族教育を強化せよ⑥少数民族学生が外国留学できる機会を増やせ⑦経済政策の決定権をより多く与えよ⑧政治的自治権を与えよ――などが記されていたという。
 これに先だつ十二月九、十二、十三、十九日と連続してウィグル自治区の省都ウルムチで市民や学生が民族差別政策に反対するデモを行い、最盛時一万人が参加したという。二十二日の北京のデモはこの闘いに呼応したもので、十二月二十五日には、上海でも復旦大のウィグル族出身学生百人が「核実験を中止せよ」「新彊を労働改造所にするな」などの横断幕をかかげてデモを行った。
 この事態に驚いた中国官僚は十二月二十五日、北京の中央民族学院で同市の四つの大学に学ぶウィグル族など少数民族学生八百人に対して、中央政府と党の少数民族政策説明会を行った。閣僚級一人を含む五人の幹部(いずれも漢族の出身)が、約二時間にわたり説明したが、彼らは今後も新彊ウィグル自治区で核実験を行うと述べ、中国の核実験はアメリカ、ソ連、フランスより少なく、安全には十分注意を払っていると強調した。この答弁に多数の学生が不満を示し、集会途中で退場したという。
 またこの説明会の際、当局者は、今回に限りデモ行進参加者は処罰されないが、再び抗議行動をとるなら処罰されるだろうと警告した。中国官僚の弾圧を許してはならない。ウィグル族学生の闘いを防衛しなければならない。
 われわれは、ウィグル族学生たちの掲げた要求を支持する。中国では、古来、圧倒的に強大な漢族が辺境の少数民族を抑圧し支配してきた。モンゴル族や満州族が中央権力を握り、元や清朝を築いた一時期があったとはいえ、基本的に漢族の支配が現在まで続いてきた。四九年中国革命の勝利以後も、この漢族による少数民族抑圧と差別が克服されたとは到底言えないからである。学生たちの要求そのものが、その事実を如実に物語っている。

中国の少数民族と中央の政策

 人口十億余の中国は、その九三・三%を占める漢族と、五十五の少数民族からなる多民族国家である。そのうちチワン族(千三百三十万人)の広西チワン族自治区、回族(七百二十万人)の寧夏回族自治区、ウィグル族(五百九十万人)の新疆ウィグル自治く、チベット族(三百八十万人)のチベット自治区、モンゴル族(三百四十万人)の内モンゴル自治区の五つの民族が自治区をつくっている。この他、地方の省の中に自治州、自治県があり、それぞれ三十一、八十地域に設置されている。
 少数民族全体では六千六百三十六万人、このうち五千万人余りが少数民族自治区に住んでいるが、自治区域での総人口中少数民族の人口は平均して四二%であり、自治区でも少数派となっている。しかしチベットでは九五%、二番目に比率の高い新彊では六〇%を当該民族が占める。
 解放当初、認知された少数民族は三十五だったが、五〇年代に五十四にふえ、文革期の少数民族識別工作の停止を経て、七九年にイ族(五百四十五万人)からジーヌオ族(一万余人)が分離、五十五番目の少数民族として認められた。
 革命中国にとって、少数民族対策はきわめて重大な問題であった。少数民族居住区が主として中国の辺境地帯にあり、反革命の浸透やかく乱と闘って中国革命を防衛するためにも、少数民族の支持をとりつける必要があったからであった。また、少数民族の居住区は、広大で資源豊富な地域であり、革命中国の建設のためにその利用が不可欠であるという理由もあった。
 しかし、大躍進期と文化大革命から江青ら「四人組」支配の二つの時期、すなわちかなりの長期にわたって「民族問題は階級問題にほかならない」「民族問題は階級問題の解決を通じて解決される」という、階級重視、民族軽視の政策が支配した。そしてそれは、階級優先をうたい、民族問題を軽視することによって、現に存在する漢族の支配、大漢族主義を強化したのである。
 この時期、農業においては地方的特質を無視した全国一律の指令が出され、米、小麦の生産が最優先された。このため例えばチベットでは、主食であるチンクォ(青●のぎへんに果)の作付けが制限された。自留地や私家畜がなくされ、チベットでは牧畜が衰退した。
 幹部の民族比率も無視され、「階級的忠誠心」という名の毛沢東への忠誠のみが幹部昇進の基準となり、多くの民族自治区域で漢族が革命委員会の指導者となった。とりわけ文革期に、漢族の知識分子と青年が数千万人の規模で主要自治区に「下放」され、彼らが幹部層を占有した。彼らは民族や地方的特質を無視した行政指導を行い、混乱と困難を増大させた。「自力更生」が強調されて少数民族への援助金も減少した。
 民族言語、文字、文化、宗教が「非階級的」として抑圧された。ラマ教、仏教などの寺院、仏像が打ちこわされ、宗教活動が弾圧され、民族的風習も弾圧された。民族語教育も抑圧され、教員の多数を漢族が独占した。
 これら一連の「少数民族政策」は、かつてスターリンが第二次大戦中から戦後にかけて、自らの政策に抗議した諸民族の全体を先祖伝来の地から根こそぎにして、家畜列車に積んで不毛のシベリアへ送り込んだ「民族政策」に比べればいささかましであったとしても、たしかにそれに類するものではあった。これらの諸政策は、当然にも少数民族の中に中央政府への不信と怒り、反発を増幅させるのに役立ったのである。

文革後の政策転換と現状

 一九七六年の「四人組」打倒と七八年中国共産党三中全会(十一期)を転機とした「非毛沢東化」の進行の中で、こうした少数民族政策は次第に改められつつあった。しかしそれが極めて不充分なものであることを暴露したのが、八〇年春節(旧正月)後の「チベット事件」であった。チベット駐在独立五二師団所属の自動車大隊五百人が、当時中国共産党チベット自治区第一書記であった任栄のチベット政策を不満として反乱を起こし、遊牧民とともにラサ東方の林芝県党委員会を襲撃したのであった。
 反乱は結局鎮圧されたが、この事件は中国共産党を震撼させ、●小平は胡耀邦総書記と万里書記を急遽派遣して事態収拾にあたった。結果としてチベットの指導部のほとんど全部が更迭されたという。
 このとき胡耀邦が発表した六項目の民族政策は、文革的な階級優先や、自力更生という名の民族抑圧政策からの転換を示すものだった。①民族的地域自治権の十分な行使②経済的困難から抜け出すため、税金、割り当て産品の供出などの負担を軽減する③地元に適した融通のきく政策を行う④国の援助を生産的用途と住民の生活の必要のために使う⑤民族文化、民族教育の回復⑥地元幹部の昇進(数年内にチベット族幹部を三分の二以上にする)、というものである。
 この路線転換にそって、八四年五月の第六期全人代第二回会議で「民族区域自治法」が制定された。このもとで地元幹部への転換や税の減免などの優遇措置、技術協力などが積極的に行われ、自治区域も、この間自治州二、自治県十が増えた。
 これら一連の政策的改善にもかかわらず、少数民族への抑圧と差別は無くならず厳然として存在し続けていることを、今回のウィグル族学生のデモが示したのである。またこのデモが行われたのとほとんど同じとき、十二月十四日に陝西省西安で漢族の男多数が回族の青年を襲って乱闘となり、回族一人が死亡した。これに抗議して十五日、回族青年二千人が同市中心部で二時間にわたるデモを行った。この事件もまた、大漢民族主義による少数民族抑圧と差別の現実を鋭く突き出している。
 また新彊では、八一年の夏にも漢族との対立が起こり、外国人の立ち入りが一時期禁止されたことがある。
 中国の大学生の就職先や任地は、統一配分によって国家が決定することになっている。学生の間では「北京、上海、南京、天津なら行きたいが、ニュージーランドだけは行きたくない」と言われている。ニュージーランドは中国語で新西蘭と書く。それに新彊、チベット(西蔵)、蘭州(甘粛省)などの代表的「辺境」の地名をかけているのである。
 学生の「辺境」行きの不人気と逆に、八三年ごろからは北京や上海など大都市の犯罪者を青海省や寧夏回族自治区など西域に送りこむことが多くなっているという。それはかつてのロシアのシベリア送りと同様の流刑であるとともに、西域開発のための労働力確保という計算もある。また今回の学生デモの中でも言われているように、近年民主活動家多数が、ウィグル自治区などに「労働改造」ということで送られている。
 ●小平のもとで副首相をつとめる薄一波が、中国の「世界戦略」たる「三つの世界論」を中国自身に適用してみせたことがある。上海などの「超先進地帯」が第一世界、天津や南京などのそれらに次ぐ都市が第二世界、そしてそれ以外の「周辺部」が第三世界だというのである。薄一波が語らなかった先を言えば、もちろん中国の第一世界と第二世界を支配する漢族が、中国の第三世界たる周辺部と少数民族を支配しているのである。しかしわれわれが見落としてはならないことは、今回の学生の闘いが、この間の民族政策の大幅な改善のうえに、それをさらに徹底させようとするものとして展開されているということである。文革当時のような全面的弾圧体制のもとでは、このような闘いはなかなか地表にあらわれることは困難だったろう。そして「今回に限り」という限定つきではあれ、中国官僚はいずれのデモも弾圧してはいない。

レーニン主義と民族自決権

 われわれは、世界社会主義革命をめざしている。その目的のひとつは、「小国家への人類の細分状態をなくし、諸民族のいっさいの孤立性をなくし、諸民族の接近をはかるばかりでなく、さらに諸民族を融合させることである」(レーニン)。
 われわれは、今回のウィグル族学生の要求を支持し、ウィグル族の中国国家からの分離の自由まで含めた民族自決権を、無条件で防衛する。これは「小国家への人類の細分状態をなくす」という目的に逆行するであろうか。
 そうではない。被抑圧民族が抑圧民族から自由に分離する権利が完全に保障されるほど、多民族国家の構造が抑圧的でなくなることによって、当然にも分離の要求は逆に減少していくだろう。諸民族の融合をかちとるためにこそ、一切の民族差別に反対しなければならないし、分離の自由まで含めた民族自決権を防衛しなければならないのである。
 言うまでもなく分離の自由とは、独立の要求そのものではない。分離し、独立するか否かの決定を、被抑圧民族自身が例えば投票によって自主的に決定する権利の完全な自由ということである。それは分離を要求し宣伝する完全な自由ということでもある。
 これがレーニン主義的民族政策の根本である。ところが中国では、八二年の新憲法においても「秦の始皇帝以来」諸民族の統一国家が存在し、諸民族の混交があったということを理由として、諸民族の「平等、団結、協調」が強調されてはいても「分離の自由」は認められていないのである。
 民族的抑圧が現に存在するにもかかわらず、共産主義者や労働者党がこの要求をとりあげず、あまつさえそれを踏みにじったとき、反動的ブルジョア民族主義者がそれを利用するであろう。今、アフガニスタンでは、ソ連官僚が乱暴に民族自決権を踏みつけにしたことによって、民族主義は反革命ゲリラの旗印となりあらゆる進歩的改革まで彼らの攻撃と破壊の危険にさらされている。
 諸民族の革命的融合のためにこそ、われわれは民族自決権を断固として擁護しなければならない。また、被抑圧諸民族の解放への希求と結びつくことによってしか、社会主義革命は勝利することができない。そして実際に民族的抑圧を除去し、一掃することのできるような革命こそ、真に労働者人民を解放することができるのである。ニカラグア革命におけるミスキト族政策の苦い失敗の経験も、その生きた教訓である。
 「他民族を抑圧する民族は自由になりえない」。かつてマルクスは、このように簡潔に述べた。

労働者国家と核武装の権利

 今回の学生デモの第一の要求は、ウィグル自治区ロプノールにおける核実験の中止であった。この問題については特に一項設けて述べる必要がある。それは、労働者国家の核武装について、いかなる態度をとるかという、極めて重大な綱領的問題にかかわっている。
 われわれは、労働者国家の核武装の権利を防衛する。帝国主義の核独占の状態が続いているとすれば、彼らはいつでも国際階級闘争を破壊し、あるいは抑圧する武器として自由にそれを使うであろうからである。現にアメリカ帝国主義は、日本帝国主義の敗北が時間の問題であったにもかかわらず第二次大戦後の対ソ反革命政策のために広島と長崎で原爆を投下したし、その後も朝鮮で、ラオスで、ベトナムで、台湾海峡で、ベルリン危機で、キューバ危機で、民族解放革命の高揚や労働者国家との対立の激化に際して核兵器の使用を実際に考え、準備し、使用する寸前になった。帝国主義の善意や理性に、国際階級闘争と世界革命の運命をあずけるわけにはいかないのである。
 現在レーガンは、核巡航ミサイルトマホークとパーシングⅡをヨーロッパ、極東に配備し、核先制第一撃体制を飛躍的に強化しようとしている。さらにSDIによって労働者国家の核を無力化し、戦略的均衡をくつがえして、事実上帝国主義の核独占状態をつくりだそうとしているのであり、そうすることによって核使用のフリーハンドを得、核脅迫外交をいっそう強化しようとしているのである。全世界の労働者人民は、全力をあげてこのSDIを阻止しなければならない。
 しかしまたわれわれは、労働者国家の核武装が、ウランの採掘から精錬、濃縮、核兵器製造とその実験、そして核廃棄物の投棄あるいは管理のすべての過程において、多くの放射線被害者を出しているであろうことをはっきり認識しなければならない。八四年サンフランシスコで開かれた全米放射線被害者大会は、全米の核被害者を約百万人と推定した。核実験作業所員二十五万人、核兵器関連施設の作業員二十五万人、核実験場風下住民十二万人、ウラン鉱山労働者一万五千人などである。これらの人々の多くがガンや白血病をはじめとする晩発性放射線障害で死に、あるいは病に苦しんでおり、今彼らは国家を加害者として告発しはじめている。
 あらゆる徴候から見て、中国でもソ連でも米英仏など帝国主義諸国より放射線被害について慎重であると考えることはできない(『第四インターナショナル』52号の高島論文「原子力と社会主義」参照)
 中国は、昨年までに西ドイツ、フランス、アメリカ、日本と原子力協定を締結し、原子力発電の全面的な導入をめざしている。帝国主義諸国において完全に行きづまった原子力産業は、今世紀中に二百億ドルにも達しようと予想される中国の原発市場によだれを流しているのである。
 原子力発電にどのような意味でも未来がないことは、すでに完全に明らかである。それは、長期的将来までの放射性廃棄物の管理まで考えるとエネルギー収支においてもマイナスであり、放射線被害者と核のゴミしか生みださない。アメリカの二大ブルジョア政党のひとつ民主党でさえ、八〇年に決定した綱領で「原発からの整然たる撤退」を打ち出しているのである。
 その原発を導入するために、李先念国家主席をはじめた中国最高指導部が諸国を歴訪し、原子力協定を結ぶために帝国主義に頭を下げてまわったのである。そればかりか中国は、八四年一月、西ドイツから一兆四千億円の貯蔵料を取って四千トンの核廃棄物を引き取り、ゴビ砂漠など人里離れた所に貯蔵するという契約を結んだという。ゴビ砂漠は、内モンゴル自治区、寧夏回族自治区などに広くかかっている。ここにも、中国官僚が放射線被害を軽視するとともに、少数民族にそれを押しつけようとする姿勢が現われている。
 帝国主義諸国の核実験、核開発の被害を集中的に受けたのも、アメリカインディアンであり、ミクロネシア、ポリネシアの人々であり、オーストラリアのアボリジニーなどの少数民族であった。彼らの居住区からウランが掘りだされ、彼らの居住区が核実験場となった。
 中国においても同様だったことを、今ウィグル族の学生たちは告発しているのである。ロプノール周辺において、多くの被害が出ていることは疑いない。事実八三年には中国当局自身が、六九年にロプノールで大きな事故があり、その症状の程度は明らかではないが少なくとも作業員二十人が被爆したことを初めて認めている。

スターリニズムと反核闘争

 われわれはかつて、六四年の中国核実験を防衛した。当時中ソ対立が全面化しつつあり、ソ連邦が中国や植民地解放革命を犠牲にした米帝との平和共存へ踏みこんでいくという状況のもとで、米帝は中国包囲網を強め、核脅迫を含む反革命的締めつけを公然と強化していたからである。六四年の中国核実験は、このような状況に対する中国革命防衛の意志の表現でもあった。
 しかし中国官僚は七一年以降、反動的な反ソ親帝路線を採用し、帝国主義との政治的、経済的、軍事的妥協とゆ着の道を歩み始めた。米日西独フランスとの原子力協定もその端的なあらわれに他ならない。このような国際路線と結びついて推進されている中国の核軍拡は、中国国家の民族的威信を強めようとするものでしかない。今労働者国家としての中国に要求されていることは、核軍拡につとめることではなく、SDIを阻止する闘いの先頭に立つことである。
 労働者国家の核武装は、帝国主義の核使用に制動をかけるための必要悪であった。しかしそれは必要であるとしてもそれ自身巨大な悪であり、現に人民を傷つけている。しかもそれは、スターリニズムの裏切りによって世界革命が何度も挫折したことによって「必要」となった。スターリニズムそのものがその必要性を作りだしたのである。一九二〇年代、三〇年代、ドイツでフランスで革命が勝利すれば、第二次大戦は起きず、したがって核兵器は生み出されなかっただろうし、戦後革命が勝利すれば、核戦争の危機が全世界を覆い尽くす前にそれを取り除くことができたであろう。
 しかもソ連邦スターリニスト官僚は、帝国主義の核独占を打ち破ったあと、全世界の労働者人民と固く結んで帝国主義に核廃絶を迫る闘いを組織するよりも、帝国主義との対抗的核軍拡の道に次第に踏みこみ、労働者人民の原水禁・反核運動とは切り離されたところで帝国主義とのむなしい交渉に明けくれ、帝国主義を説得しようとしてきたのであった。先日の米ソ首脳会談においても、ゴルバチョフは会議を公開して世界にSDI(宇宙核戦争計画)の危険性を暴露する道をとらず、密室でレーガンを説き伏せようとしたのであった。
 帝国主義は、労働者人民の闘いによって包囲され、屈服しなければ打倒されるような状況に追いつめられない限り自らの基本政策を変更しようとはしない。ゴルバチョフは、全世界の反核運動を闘う労働者人民に、今こそSDIの闘いをと呼びかけるべきであった。しかし彼は、レーガンと空しい談笑をする道を選んだのである。そして中国官僚は、ゴルバチョフを批判することができない。

レーガン核軍拡との闘いを

 労働者国家における核開発が必要であるとすれば、それは最大限の慎重さと放射線被害にたいする出来うる限りの配慮をして行わなければならない。しかもそれは、核廃絶の展望と一体のものとして推進されねばならず、米帝の核戦略の危険性についても常に全世界の人民に明らかにし、自らが世界の反核運動の同盟軍であることを証明することが必要である。しかし中国官僚もソ連官僚も、そのような配慮や戦略を持ちあわせていない。
 現在緊急に問われていることは、労働者国家が核軍縮のイニシアチブを取り、そうすることによってレーガンの核軍拡を孤立させ、SDIを阻止する闘いに決起するように全世界の労働者人民に呼びかけることである。真正スターリニストであるゴルバチョフは、自らがこのように呼びかければレーガンが交渉を中断するであろうと考え、そのような手段に訴えることはできない。
 しかし国内の経済再建のために軍事的重圧を少しでも減らさなければならないゴルバチョフは、レーガンとの取り引きのため自らの真剣さを示すものとして核実験の一方的停止を行っている。
 われわれはこの政策を支持する。これによって、SDIのための核実験を続けるレーガンだけが、核軍拡の起動力であることを証明することができる。ゴルバチョフが自らの政策を積極的に利用しないだけである。しかしこの政策が反核運動の高まりと結びつかないとすれば、レーガンは核軍拡をやめないであろうし、従ってソ連邦はいずれ核実験の再開に追いこまれるであろう。
 今中国官僚が、新彊ウィグル族の要求に従ってロプノールでの核実験を停止し、それにとどまらず全世界の人民にすべての核実験の全面的停止とSDIの阻止を呼びかければ、それは反核闘争へのこのうえない励ましとなるだろう。
 いまや、問われているのは国際反核運動である。ゴルバチョフの一方的核実験停止を支持し、新彊ウィグル族の中国核実験停止の要求を防衛し、SDIを阻止する闘いを強力に推し進めなければならない。
 新彊ウィグル族の自決権断固支持! 中国政府はロプノールでの核実験を中止せよ!
 決起したウィグル族学生への弾圧を許すな! ソ連邦の一方的核実験停止を支持する! レーガンはSDI計画をただちに中止せよ! 帝国主義は一切の核実験を中止せよ! 中ソは反SDI・反レーガンの国際統一戦線をつくれ! レーガンの核軍拡を阻止する国際包囲網をつくりだそう! 日本帝国主義のSDI計画参加を阻止しよう! 核巡航ミサイルトマホークの極東配備を許すな!
 帝国主義の核を廃棄させるために、労働者国家と国際階級闘争を帝国主義の核から防衛するために、われわれはこのように闘わなければならない。
「世界革命」1986年1月20日号

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