チベット問題を左翼はどう考えるべきか(4)

反乱には僧侶の他に労働者・青年も参加
民衆への抑圧が階級意識の発展を阻害し民族意識を促進

許 由(香港 先駆社)

功を焦った近代化政策の失敗


 一九七九年、中国共産党は自らの路線の誤りで大きな痛手を受け、その後、いわゆる「階級闘争」は放棄せざるを得ず、生産力の発展を綱領とする政策を再び採用した。チベットの近代化によってチベット民衆を帰順させることができると考えたのだ。しかし、共産党はここでも間違いを犯した。
 チベットはきわめて貧しく、近代化の資金はほぼすべて中央政府の交付に頼っていた(原注16)。同じ理由から、チベットの近代化はチベット人自身によって決められたのではなく、中国共産党による外部からの横暴な方法によって一切合財を決めて進められた。
 一九八七年、�小平は次のように語った。「チベットは人口が少ない。二百万のチベット族では広大なこの地域を発展させる任務を完成することはできない。チベットを支援するために漢族を派遣しても害はない。チベットにいる漢族の人数だけで、民族政策とチベット問題を評価するのであれば、正しい結論を得ることはできない。問題の鍵は、チベット族にとって何が最も良いことなのかであり、どうすればチベットが急速な発展を遂げることができるのかであり、中国が進める四つの現代化(訳注23)を繰り上げて実施することである」(原注17)。こんなふうに「現代化」をチベット人に強制し、そのために漢人幹部を増派しつづけることが、民族の団結を促進するのか、それともその逆になるのかを、�小平は想像だにしなかった。かつて民族政策を担当した李維漢(訳注24)による戒めを省みることはなかった。「他人を援助するのであれば、相手がそれを望んでいるかどうかを判断しなければならない」。
 しかも中国共産党は常に自らの請負能力を過大に評価していた。だがチベットの近代化プロジェクトは、全国で実施されているものと同様に、その効果は極めて低かった。「過去三十年、チベットの農工業GDPは四倍に増加したが、中央財政からの補助金は六十五倍にも達している。一元の価値を生み出すのに一・二一元の投資が必要である。投資の乗数効果がマイナスになっている。チベットの全生産要素の生産性は、一九八六年から一九九〇年の期間においては〇・三%であり、全国平均に比べて一・四%低かった。一九九一年から一九九五年の時期には、生産性は〇・一%にまで低下し、全国平均よりも四・二%も低くなった」(原注18)。このような低効率の近代化では、チベット人から賞賛を得ることは実際難しいだろう。
 とはいえ、一九六〇年以降、中国共産党はチベットに対して大量の資金を投入することで、チベットの発展をいくらかではあるが促進させてきた。一九五〇年代のチベットにおいては近代工業と呼べるものはほとんど存在しなかったが、今日のチベットでは四大産業とよばれる近代産業が出現している。電力、紡績工芸品、鉱物産品、観光である。この新たな経済構造は新たな階級と階級関係を作り出した。とりわけ一九八〇年以降の資本主義化が、五九年から七九年の期間と比べて、その階級構造を大きく変化させることになった。

チベットにお
ける階級分化

 まず、チベット人官僚集団である。彼らは、全国のほかの地域と同じく、徐々に官僚資本グループに転換した。チベット人、漢民族、回民族(訳注25)の資本家は、このグループと癒着することで富を築くことができた。チベット人官僚グループはチベットの近代化と資本主義化の過程における主要な受益者である。王力雄は次のように述べている。「外部勢力によって育成され、徹底的に疎外され、完全に寄生的なこの集団は、チベットで根をはり成長すること半世紀近くがたち、北京から送られてくる大量の栄養剤に頼りながら、チベットで深く根を張り大きく枝を広げ、巨大に膨れ上がり、チベット社会固有の存在になってしまった」(原注19)。
 つぎに、多数の小資本家の登場である。一九八〇年から二〇〇〇年までに、チベットの私的な小規模企業は四百八十九社から四万三千社、およそ百倍近くも増加した(原注20)。ラサで漢族や回族が経営する小規模企業が町中にあふれている事態を見て、チベット人の小規模企業経営者はほとんどいない、という意見がある。しかし、それは恐らく正しくはない。チベット自治区全体では、経営に従事するチベット人は他の民族との比率においては七対三であり、チベット人のほうが多い。ラサに限って言えばその比率は逆転し、三対七になっている(原注21)。
 一九五〇年代のチベットにおいては産業労働者はほぼ皆無であり、その登場は中国共産党による近代化政策の展開を待たなければならなかった。二〇〇五年には、農牧畜民の人口比率は労働人口の六割にまで減少した。その他の四割はすでに近代的な労働者階級あるいは個人商であり、かれらは製造業あるいは第三次産業に分布しており、そこでは労働者の数が多数をしめている(原注22)。一九八一年、チベットには十七万人の労働者が存在し、おもに国有企業あるいは集団所有制企業の労働者であった(原注23)。中国が資本主義へむけて舵を切った後、チベットの労働者階級においても構造的な変化が発生した。公営企業の労働者は増加せず、微減した。一九九五年、二〇〇五年ともに十六万人のままである。その一方、小規模な私的企業の労働者の人数は、当初のごくわずかな規模から二〇〇〇年には六万三千百九十八人に増加した(原注24)。

あらゆる事が
不公平に映る

 まとめると、全国と同じように、チベットにおいても改革開放の後に、二極分化の現象が登場した。チベットの資産階級は現在、二つの部分に分けることができるだろう。ひとつは官僚資本、もうひとつは私的資本である。労働者階級も同じく、国有企業の労働者と私的資本の労働者に分けることができる。この二つの階級の間に多数の小資本家と都市部の個人経営者が存在する。
 チベットの各階層は、経済生活が改善したにもかかわらず中国共産党に帰順することはなかった。逆に、同じ理由であるいは異なる理由で恨みを抱えていた。普通のチベット人小商人は、チベット人官僚グループや権力を持っている資本からの抑圧を感じている。『経済師』という中国の雑誌に次のような文章が掲載された。「(チベットの)一部の法律執行機関による個人経営者、小企業に対する課徴金徴収の乱発現象がたびたび発生している」(原注25)。これは商人たちの反感を大いに招いている。漢人地区では、政府に対する反感は漢人への反感には発展しないが、チベットにおいては容易にそのような方向に発展する。
 多数のチベット人が小資本家となっていることで、かれらが商業化の中で利益を得ていることを説明している、だからチベット人は商業化によって利益を得ているのは漢族と回族だけであると主張してはならず、漢族、回族を恨んではならない、という主張もある。だが、たとえチベット人の小資本家が利益を得ていたとしても、依然として一部では不満を抱えている。「なぜチベット自治区政府は漢族や回族の非居住者に居住者と同じような企業登記の自由を与えているのか。なぜ地元の脆弱な経済を保護しようとしないのか」と。チベット人商人にとって、これは不公平な競争に映る。また敬虔なチベット人にすれば、商業が自らの聖地を占領しているだけでなく、外部からの商業によって占領されており、風俗産業が発展しているが、それは侮辱である、と。そして問題はすぐに根本的な原則に戻る。「なぜすべてのチベット人が聖域の商業発展に対して決定権がないのか」。こうして商業の中から利益を得るチベット人がいたとしても、やはり中国共産党に対しては恨みを抱いているし、多数のチベット人は漢人に対しても同じく恨みを抱いているのである。
「虎の威を借る
孤」高級官僚集団

 資本主義の台頭は必然的に多数の労使紛争を招く。前述の同じ文章では次のような指摘がなされている。「多くの私営企業は労働者の最も基本的な合法的権利を無視あるいは侵害し、労使関係の矛盾は日増しに拡大しており、労使衝突の案件も増加傾向にあり、今日の社会においてますます突出する社会矛盾になっており、社会的安定に深刻な影響を及ぼしている」(原注26)。
 ここにはもちろんチベット人の労使紛争も含まれてはいるが、中国全土の労働者と同じく、チベット人の労働者も一般的な労使紛争から自立的な政治意識を発展させることはない。しかし(漢民族からの)分離の意識は存在している。報道によると、今回の一連のチベット騒乱において、僧侶だけでなく、都市の普通のチベット人労働者や青年が主要な参加者であり、かれらはチベット独立を叫んでいたという。このような労働者がどれだけの普遍性を持つのかについては不明である。農村の農民、牧畜民の考えは都市部の労働者と同じではないだろう。チベット人労働者のなかで、民族主義感情がどれほど普遍的であるのか、それはさらに研究が必要である。しかし、中国共産党によるチベット民衆への抑圧は、まさにチベット人労働者階級の階級意識の発展を阻害し、まさにかれらの民族意識を促進させていることは間違いない(訳注26)。
 中国共産党が当初予想できなかったことは、自らが丹精込めて育成してきたハイクラスの知識人たちの多くが、分離主義的感情に染まっているということであった。これは想像に難くないことである。知識人は人権、尊厳、自民族文化などに比較的敏感であるからだ。その文化的水準が高ければ高いほど、中国共産党の横暴な後進性に対しては批判的であろうし、大漢民族ショービニズムの害悪も拒絶するだろう。
 中国共産党に対する恨みは、一般のチベット人だけが持っており、チベット人官僚は共産党へ恨みを持っておらず、チベット民族主義に汚染されていないと考えるのであれば、それは大きな間違いである。チベット宗教と民族感情の復興は、少なくとも一部のチベット人官僚にも影響を与えており、信仰を深める者や子どもをインドへ留学させてダライ・ラマのチベット亡命政府で教育を受けさせる者も増えている。もちろん高官と中下層役人との違いは大きい。高級官僚集団は「虎の威を借る狐」であり、中央政府のかわりにチベット支配を行うことで何とかその権力を維持することができる。プンツォク・ワンギェルは彼らのことをこう批評している。「(中央政府の政策である)反分裂政策で飯をあさり、反分裂政策で昇級し、反分裂政策で金儲けをしている」。しかしたとえ高級官僚であっても、そして中央政府に対して忠誠を示していたとしても、実権の掌握が難しいことは彼らにもわかっている。それゆえかれらと漢族の高級官僚たちとの矛盾は存在し続ける。お天道様の明るいうちは中央政府を奉るが、夜にはダライ・ラマへ礼拝をするという二重生活をおくるチベット人高級官僚が存在しないとはいえない。中下層のチベット人官僚の二重生活はさらに広く知られている。チベット人官僚に関する以下のブラックジョークがこれらの人々の民族感情を巧みに表現している(原注27)。
 一九五〇年~六〇年、われわれは土地を失った(解放軍のチベット進攻)
 一九六〇年~七〇年、われわれは政治権力を失った(チベット政府の瓦解と亡命)
 一九七〇年~八〇年、われわれは自らの文化を失った(文革による寺院破壊)
 一九八〇年~九〇年、われわれは自らの経済を失った(改革開放にともないチベット人以外の民族がラサなどの都市部の経済を掌握した)
 中央政府はこのことをはっきりと認識している。認識すればするほど、ますますチベット人官僚に実権を譲ることはできない。逆に、チベット人高級官僚グループのなかでも打算があることは確かである。ダライ・ラマの帰還を恐れてはいるが、全身全霊を中央政府にささげることもない。中央政府の決定もチベットでは機密保持が難しく、往々にしてその決定はすぐにダライ・ラマの耳に入るということも納得できる。それゆえ、中央政府がチベット政策を実施するにあたって、力点の置き所を探すことがますます難しくなっているのである。
(つづく)


【原注】
(原注16)プンツォック・ワンギェルは次のように皮肉を述べている。「チベットでは必要ないと言っても中央政府は資金を投入する。新疆では必要だといえば資金が投入される。内蒙古では必要だと言っても資金は投入されない」
(原注17)『西蔵日報』一九九三年十一月二十二日付け。『達頼喇麻與中国―西蔵問題的解決之道』メルヴィン・ゴールドスタイン、明鏡出版社、二〇〇五年、一五八頁より引用。
(原注18)Economic Development in Tibet Under the People’s Republic of China, by June Teufel Dreyer. Contemporary Tibet — Politics, Development and Society in a Disputed Region,Edited by Barry Sautman and June Teufel Dreyer, M.E. Sharpe, New York, 2006.
(原注19)『天葬』二三五頁。
(原注20) Market Formation and Transformation – Private Business in Lhasa, by Hu Xiaojiang and Miguel A. Salazar. Contemporary Tibet — Politics, Development and Society in a Disputed Region,Edited by Barry Sautman and June Teufel Dreyer, M.E. Sharpe, New York, 2006.
(原注21)同右。
(原注22)しかし二〇〇五年には製造部門ではわずか九%の労働力しか雇用していないが、第三次産業では三割にも達している。チベットの近代化が中央政府の財政支出によるプロジェクト以外では、製造部門ではなく、商業と観光業が基盤になっていることを反映している。
(原注23)当時の中国の統計における「労働者」には、五~六万人の唐行政機関の公務員も含まれている。
(原注24)同右。
(原注25)「西藏非公有制経済発展存在的問題與対策研究」、ニマラム、潘明清、『経済師』二〇〇六年第九期。
(原注26)同右。
(原注27)『達頼喇麻與中国―西蔵問題的解決之道』メルヴィン・ゴールドスタイン、明鏡出版社、二〇〇五年、一六〇頁。
【訳注】
(訳注23)四つの現代化:一九七五年、第四期全国人民代表大会で周恩来首相によって提起された方針で、農業・工業・国防・科学技術の四つを現代化すること。
(訳注24)李維漢:一八九六年~一九八四年。一九一八年に毛沢東、蔡和森らと長沙で「新民学会」を結成。一九年には勤工倹学でフランスに留学し、二二年にパリで周恩来や�小平、鄭超麟らと少年共産党を結成し、組織活動を担当する。同年に中国共産党に入党。帰国後も中共指導部として活動。二七年の蒋介石による上海クーデターの後の八月七日に湖北省漢口で開催された「八・七会議」で議長を務めた。この会議では、陳独秀を「右翼投降主義、右翼日和見主義」などと批判し、陳独秀を総書記から解任し、李維漢、瞿秋白らからなる臨時中央政局を選出し、コミンテルンの第三期路線にそった極左冒険主義へ進む。三一年にソ連へ留学、三三年に帰国した後は江蘇省の中華ソビエト地区で中央組織部部長。その後も中共中央の重職を歴任する。四八年から六四年まで中共中央統一戦線工作部長。民族政策においては、四九年十月から五四年九月まで中央民族事務委員会の初代主任委員として国家および党の民族政策をつかさどる。建国以前に中共が掲げていた「連邦制」は中国の国情には合わないとして民族自治区の実施を提唱。五一年四月からチベット政府との間で行われた十七条協定に関する交渉では中国側代表として交渉をまとめた。五二年には「民族自治区実施要項」をまとめて、その後の中国共産党の民族区域政策を定着させる。六〇年にはパンチェン・ラマと四川・広西などを視察し「李維漢とパンチェン・ラマの談話紀要」などにまとめる。パンチェン・ラマはこの視察で垣間見たチベットの惨状を「七万言書」にまとめ中国政府の民族政策の転換を提言するも、それを理由に弾圧される。李は六二年の全人代の民族工作会議において、民族地区にはいくつかの問題が生まれていることを認め、これまでの民族政策の事実上の過ちを認め、自己批判した。これをきっかけに「階級闘争をしない」「修正主義と投降主義」と批判を受け、六四年に一切の役職を剥奪される。七八年に�小平が実権を握った後に政界に復活。八二年には同じく名誉回復を果たし、正しい民族政策への転換のために精力的に活動を開始していたプンツォク・ワンギェルの民族理論を誹謗する意見書を�小平などに送り、プンツォクの全人代代表の人気継続を妨害しようと画策をした。(『初期中国共産党群像 トロツキスト鄭超麟回憶録』一、二巻、鄭超麟著、長堀祐造等訳、『もうひとつのチベット現代史』等より)
(訳注25)回民族:中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム民族集団。言語は漢語を使い、中国全土に広く居住している。人口は二〇〇〇年の時点で約九百万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。民族の起源は、唐から元の時代に中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと結婚・改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。寧夏回族自治区などでは集中して居住するが、全国各地に分散していることから、民族的なアイデンティティは、イスラム教やその教えに基づく習慣などによって表現される。民族対立としては一八五六年雲南・大理を陥落させた杜文秀による反清朝蜂起が有名だが、現在でもイスラムを冒涜したなどとして回族の抗議行動がごくたまに報道される。今年三月にラサなどで発生した騒乱では、漢族だけでなく回族の店舗なども襲撃の対象となった。回族はチベットにおいては商売に長けた民族として認識されており、地元チベット人の反発を招いたといわれている。
(訳注26)階級意識と民族問題:今年三月のラサをはじめチベット人居住区各地で発生した騒乱を受けてたくさんのチベット関連の書籍が出版された。その中で、民族問題と階級問題を関連させて書かれた書籍はそう多くはない。『もうひとつのチベット現代史―プンツォク・ワンギェルの夢と革命の生涯』(阿部治平、明石書店)や『中国の民族問題―危機の本質』(加々美光行、岩波現代文庫)などは中国共産党の民族政策をマルクス主義の立場から批判・再検証したものであり必読である。しかし一八〇度逆の立場から中国共産党の民族政策を「マルクス主義の立場」から語ろうとした大西宏氏の『チベット問題とは何か現場からの中国少数民族問題』(かもがわ出版)は、別の意味で必読である。大西氏は「中国の真の友人」として、中国政府とダライ・ラマ亡命政権に対していくつかの提案を行っているが、彼の主張の核心はこうである。「チベットの問題は、この『企業家』に上昇できるものが少なすぎるため、『企業家は漢族』『労働者はチベット族』というふうに本来は社会階級間の矛盾であるものが『民族矛盾』として現象してしまっているということにある」(三十七頁)。「チベット族にいま求められているのは、その『一部』でも良いから、そうした資本家・企業家となる人物が層として現れることである」(五十二頁)。そして「マルクス主義と民族問題――民族性とは何か」とつけられた項で、次のように結論付ける。「少数民族問題の解決は、彼らが近代産業に就き、経済的にも繁栄することなしには達成することはできない。……さらに付言しておきたいのは、もし彼らがそうした近代的産業に就いたとしても、それは必ずしもすべてが、企業家、資本家になれるというわけではないことである。……資本主義社会では一部は資本家に、一部は労働者に転化する。したがって、彼らが近代的産業に就くということは彼ら自身の間に資本主義的な対立関係を含むようになるということであって、これができてはじめて彼らの多数は民族と同列に並ぶことができる。逆に言うと、ある特定の少数民族がすべて労働者となり、資本家階級にこの民族がほとんどいないのであれば、資本主義的対立関係は民族的対立という形をとらざるを得ない。」「資本主義的対立関係を民族的対立関係として現出することを避け、純粋に(つまり民族に無関係に)資本主義的対立関係が現出されるようにすることである。……少数民族にも『幹部』となるものを層として形成し、また資本家として上昇するものを支援する。少数民族自身の努力もこの方向でなされなければならない」(以上、一〇六~一〇七頁)。
 これは典型的な経済還元主義であり、「豊かになりたまえ」というブハーリンや�小平を髣髴とさせる主張である。このような大西氏の主張はいまの中国国内では決して珍しいものではない。なぜならこのような主張は現在の中国共産党の民族抑圧政策や資本主義化路線とは衝突しない、いやむしろそれを補完するものだからである。だが、そのような展望は、チベットの地理的、経済的、文化的特殊性による資本蓄積の困難さによっていつ何時実現されるのかも分からないものであり、中国共産党の一層厳しさを増す民族抑圧政策などによってますます実現から遠のいているといわざるを得ない。
 しかし大西氏は、資本家になれるまで我慢せよ、フリーチベットやチベット独立という主張などせずに勉学にいそしめ、とでも言わんばかりである。現実はそのような「純粋な資本主義的対立関係」の登場を待つことなく、民族矛盾として、あるいはチベット独立問題として(そしてそれは主要には中国共産党の民族抑圧政策による)さまざまな対立や衝突を作り出している。大西氏の著書には極めて偏った日本の報道や一部の主張に対する正しい批判とデータ資料などがあることは確かであり、その意味でも必読であることには違いないが、そもそもの立脚点が間違っていてはどれだけ豊富な資料を駆使したとしても何の解決にもならないだけでなく、逆に民族自決や民族問題の解決にとって有害にすらなってしまうのである。歴史は民族問題を通じて常にマルクス主義者をテストしてきた。大西氏の主張に対して正しく批判することは、民族抑圧と愛国主義の淵に沈みつつあるマルクス主義と、トロツキーが「永遠の人類のゆるぎない資産」と賞賛したレーニンの民族論を救い出すことでもある。

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