チベット問題を左翼はどう考えるべきか(3)
1931年の憲法大綱「自決権を承認し自ら独立国家を建設する権利を認める」
中国共産党は残っていた民衆的基盤さえも最終的に解体
許 由(香港 先駆社)
民族自決権とチベット独立
現在の中国共産党は、チベット独立運動を中華人民共和国への裏切りと同一視している。だが中国共産党のこのような態度は、まさに自らの当初の綱領に対する裏切り行為なのである。八十数年前、中国共産党が結成されてすぐに、民族問題については、レーニンとソ連共産党の立場に従った。各民族には自決権、ひいては分離(独立)する権利があることを承認していた。
一九三一年末、中華ソビエト第一回全国代表大会で、中国共産党が提案した「中華ソビエト憲法大綱」が採択された(訳注19)。そこでは「中国域内の少数民族の自決権を承認し、各弱小民族が中国から離脱し、自ら独立国家を建設する権利を認める。モンゴル、回、チベット、ミャオ、リ、朝鮮人など、およそ中国域内で居住するものは、中国ソビエト連邦への加盟あるいは離脱、あるいは自らの自治区域を建設するという完全な自決権を有する」と定められていた(原注9)。
この立場は、抗日戦争の後期になって、少しずつ後景に追いやられ、抗日戦争に勝利した後、共産党が勢力を拡大していく過程で、ひっそりと退けられ、次第に民族自治を主張するようになった。国家形態についても、かつて主張していた連邦制から単一の国家を目指すことに変更された。それ以降、民族自決権と連邦制について語ることは、理論や路線の原則に対する裏切りであり、ひいては国家への裏切りであるとされた。
そして民族自治においても、中国共産党は最低限度の「行政自治」に限定し、政治的な自治さえも許さなかった。中国共産党は、一種の極度の中央集権的で官僚的な大統一国家制度を復活させたにすぎない。このような制度はその支配的集団にとってのみ有利なものである。
民主主義の原則に則れば、異なる民族が連合して国家を形成する場合は、自由意志が前提であり、強制であってはならない。そうしてはじめて民族的平等と民族的調和を実現することができる。自由意志にもとづく連合はまず各民族が自決権、ひいては分離する権利をも有することが条件となる。社会主義においてもこの原則は承認されなければならない。なぜなら社会主義はそもそも徹底した民主主義に他ならないからである。
自決の自由
分離の自由
民族自決権と分離の権利を承認することは、必然的に分離および独立を招くのだろうか。徐明旭はその著書『陰謀と敬虔—チベット騒乱の経緯』のなかで、何らためらうことなくこう述べている。「世界中には三千の民族があるが、国家は百七十しかない。もしすべての民族が自決、独立して建国を要求したら、圧倒的多数の国で民族戦争になってしまうだろう」(原注10)。
なんたる単純無知であろうか! このような考えは、離婚の自由を認めると、すぐに離婚する夫婦が増加して、家族制度が完全に崩壊すると考えたかつてのキリスト教あるいは家父長制主義者が離婚の自由に反対したことと同じである。だが現実はまさにその逆なのである。離婚の自由を承認することで、自由で比較的幸福な結婚を実現することが可能になる。同様に、民族自決権の承認は、分離を奨励するのではなく、全く逆に、各民族の真の自由で平等な連合を確実なものにする。このような連合こそが持続的で互恵的なのである。
中国共産党はマルクス・レーニン主義者を自認しているのではなかったか。当のレーニンは次のように述べている。「国家の民主的構成が分離の完全な自由に近ければ近いほど、それだけ実践上、分離の要求はいっそううまれにくくなり弱くなるのである。」(原注11)。
彼は別な論文で次のように述べている。「自決の自由すなわち分離の自由の支持者を、分離主義を奨励するものだといってせめることは、離婚の自由の擁護者を、家族の結合の破壊を奨励するものとしてせめるのと同様、ばかげたことであり偽善的である。ブルジョア社会で離婚の自由に反対するものは、ブルジョア的結婚のよって立つところの特権と金しだい主義との擁護者であるように、資本主義国家で、自決の自由、すなわち民族の分離の自由を否定することは、支配民族の特権および反民主主義的な警察的統治方法を擁護することと同じである」(原注12)。
レーニンとロシ
アにおける経験
レーニンが述べたのは資本主義国家についてである。ではいわゆる社会主義国家ではどうか。ロシア革命史をわずかでも学んだことがあれば、一九一七年二月初めに、ブルジョア臨時政府は民族自決権と分離権の承認・実施を拒否したが、十月に成立したソビエト政府によってはじめて真剣に貫徹されたことを知っているだろう。十月革命が勝利した直後に革命政府が採択した「ロシア人民の権利の宣言」のなかで、民族問題については次のように述べられている。
一、ロシア人民の平等権と主権
二、ロシア人民の自由なる自決権、それは独立国家の分離および形成という程度にまで及ぶ
三、特権と無資格は、いかなるものであれ、全国民的なものであれ、国教的なものであれ、廃止すること
四、ロシア領土内に居住する少数民族と人種的諸群の自由な発展(訳注20)
ソビエト政府のこの宣言は絵空事ではなく、その実現のために努力がなされた。では、帝政ロシアに併合されていたすべての少数民族が、この機会に永久に分離してしまったのであろうか。そうはならなかった。一部では確かにそれを機会に永遠に分離独立をした。最も明らかな事例はフィンランドであった。しかしウクライナにおいては民族自決権は行使され、分離独立の典型例にはならなかった。一九一七年十一月二十日、ウクライナのブルジョアジーはウクライナ人民共和国を成立させ、ソビエト政府はすぐにそれを承認した。独立するからといって、またそれがブルジョア政府だからといって承認を拒否するようなことはなかったのである。
しかしウクライナではすぐに労働者農民の大衆的な抵抗を招いた。ウクライナのブルジョア政府は、反共政策を実施し、結果的にドイツおよびポーランドの軍隊の侵略を招いたからである。一九二〇年の夏、ウクライナの革命的民衆は、ソビエト赤軍の支援のもとウクライナソビエト政府を樹立した。一九二二年末には、ロシア、ウクライナ、白ロシア、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの六つの社会主義共和国がソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を樹立した(訳注21)。これは自決権の承認という基礎のうえに建設された民族平等の連合の手本である。
ノルウェーと
スウェーデン
もう一つの近年の事例は、カナダのケベックが、二度の投票(1980年と1995年)で、分離をするかどうかを決めたことである。二回とも独立派が敗北し、その結果、ケベックはカナダに留まることになった。
大家父長制主義は、民族排外主義と同じく、強制的で暴力的な恫喝による連合しか知らない。「もしそうしなければ分離の方向へ進んでしまう」とかれらは四六時中予言する。しかし実際には、強制的で暴力的であればあるほど、まさにかれらの予言の実現に近づくのである。
被抑圧者の側は、差別と抑圧に耐えかねて、一切を省みず抑圧者に対する反抗に立ち上がる。逆に、分離の自由を承認すれば、たとえ双方が一時的に分離したとしても、将来にわたって統一が回復できないという事態にはならないだろう。さらに一歩譲って、たとえそれによって永遠に分離したとしても、軍事的に対立せず善隣関係を維持することは可能である。その最良の事例のひとつは一九〇五年にノルウェーがスウェーデンから分離し、スウェーデンは軍事的な干渉をしないどころか、ノルウェーの住民投票の結果を尊重し独立を支持したことである。ノルウェーが独立した後も両国は友好関係を維持した。
一般的な原則と歴史的な経験に基づき、民主主義者か社会主義者を問わず、チベット問題に対しては以下の立場をとるべきであろう。
(1)言論、出版、集会、結社などの政治的自由を保障し、民族問題と国家の政治・経済制度について人民の自由な議論を保障し、単一国家制と連邦制の長所と欠点について再検証すること。誰であっても意見や提案を提起することができ、主義主張によって罪を問われてはならない。
(2)チベット人民およびすべての少数民族の自決権、分離権を承認すること。チベット人民の自決権の承認が早ければ早いほど、チベット人民が中国に留まるという成果をかちとることが容易になる。逆の場合は困難になるだろう。
(3)チベット人民の自決権、分離権を承認することは、チベット独立を支持することと同義ではない。われわれは民族自決権の基礎の上に各民族が引き続き連合して統一した国家をなすこと、そして連合の形式は連邦制を念頭に置くことを主張する。この「連合派」はチベット人による住民投票を完全に支持するが、その一方で実際の投票の際にはチベット独立に反対を表明し、チベットが中国と連合して一つの国家を形成することを支持する。
(4)もしチベット人民の多数が独立を選択した場合、中国はその意志を尊重するとともに、政治的な手段を通じてチベット人民の友好をかちとる努力をしなければならない。これについては以下で説明する。
現代のチベットと民族主義
一九五九年までのチベットの独立運動は、農奴所有階級と上層の僧侶たちによる運動であり、現代的な意義における「民族」の基礎を欠いていた。当時、上層の僧侶や貴族に追随して中国共産党に対する武装闘争をした農奴がいたとしたら、それは中世的な身分的制度への依存と忠誠によるものであり、さらに宗教的にも僧侶へ服従することが必要であったというだけに過ぎない。
僧侶はチベット仏教を信仰するものにとって極めて重要な「来世」に関する一切を司るとされた。それゆえ農奴らによる中国への抵抗は政治的な立場(チベット民族主義)から出発したものではなかった。だが今日のチベット民族主義は、まさに中国共産党が六十年にわたって続けてきた民族抑圧および近年チベットに導入してきた独占的な現代化政策によるものであり、チベット民族主義の社会的基盤はこれまでになく拡大している。これは中国共産党が想像だにしなかったことである。
中国共産党のチベット政策の誤りの出発点は、大漢民族主義的偏見である。チベットにおいて漢民族による直接支配を行ない、数は少ないが比較的実直であったチベット人幹部を信用せず、逆にかれらを排除し、一九五九年以降はかれらを投獄した。これについてはプンツォク・ワンギェルの物語がもっとも代表的なものである。それ以降は、素直に従うチベット人幹部だけが比較的中央の信任を得ることになるが、それも中層以下か上層でも実権のない職務をあてがわれるだけであった。優れたチベット人幹部を排除し、質の悪いチベット人幹部を任用し続けた結果、質の悪いチベット人官僚集団が育成され、それはひろくチベット民衆の恨みを買うことになった。
ジグザクした
共産党の政策
次の問題点は、中国共産党の階級政策が極端から極端へのジグザグをたどり、結果的にチベットのすべての階級と階層の怒りを買ったことである。例外はチベット人官僚集団だけである。
一九五一年に、中央政府とチベット政府が締結した「十七条の協定」(訳注22)発効の前後の中国共産党の対チベット政策は上層の支配階級を取り込むというものであった。それはチベットにおいては土地改革を推進しないというものであった。当時は、農奴解放を宣伝しようとした者が、それを禁止されて批判されたことさえあった。しかしチベットの支配階級に対するそのような統一戦線では、ダライ・ラマとカシャ(内閣)を取り込むことはできなかったし(後者は共産党が未来永劫神権政治を容認し続けるとは考えていなかった)、下層大衆に対する階級的啓蒙活動にも悪影響を与えていた。
その後、東チベットの地主や僧侶の武装反乱がチベット全土に拡大していく際に、そしてダライ・ラマとの直接対決の必要性が明らかになったとき、中国共産党は突如として大衆を動員して土地改革を行う必要に迫られた。だがそのときにはもうチベット民衆は中国共産党が期待したような(社会主義革命に対する)熱意を持ってはいなかった。
「チベット民衆の考えと社会的現実は密接にからみあっていた。かれらは、それまでの生活以外の方式を全く知らないか経験がなかった。かれらは、漢民族が提示した新しい生活方式を理解できなかった。また漢民族への恐れもあった。なぜなら漢民族は一方で農奴を封建領主から『解放』したが、同時にかれらの主人たちと同盟を結んでおり、『解放された者』と同じ側に立っていなかったらである」(原注13)。
農奴の消極性を克服するため、中国共産党は往々にしてチベット人の無頼者を封建領主との闘争に利用した。そしてかれらがチベット人幹部に登用されていった。確かに(1950年代初期の)「民主改革」の初期には、農民と牧畜民には土地が分配され利益を得ることができた。
しかし、その素晴らしき日々はあっというまに過ぎ去ってしまった。「階級闘争を毎日掲げよう」という六〇年代において、中国共産党の民族政策は極左路線へと変化し、「民族問題とは実際には階級問題である」という主張が幅を利かし、階級闘争は全くでたらめに展開されていった。こうして農民、牧畜民の土地はあっという間に人民公社化されていく。その結果、一九六〇年から一九八〇年の二十年のあいだに、農牧畜民の生活水準は著しく低下した。同時に中国共産党はチベット仏教を弾圧し、チベット民衆に対して更なる精神的なダメージを与えた。
だれもが漢民族
政権の被害者
以上は下層階級に関してであるが、早くから中国共産党に帰順していた上層階級もこのときには迫害を受けていた。中国共産党はチベットのあらゆる階級の怒りを買っていた。帰順した者も帰順しなかった者も数十年にわたる「階級闘争」の対象となった。チベット人は上層階級も下層階級も中国共産党による苦難を味わった。チベット人にとって一切の苦難は中国共産党という漢民族政権がもたらしたものであることは明らかである。毛主席が神霊ではなく生身の人間であり、誤りも犯すということが証明されたからには、中国共産党の偽仏を信じるよりは自分たちの本当の仏を信じるだろうということもまた明らかではないだろうか。
このような共同体験が、多数のチベット人に次のような共同の結論を導き出す。「漢民族を追い出せ!チベット独立万歳!」実際には、このいわゆる「共同体験」は割り引いて考えなければならないだろう。チベット人も均一な共同体ではなく、逆に、貧富の差によって区別され、両者の経験は同じではないし、両者は往々にして対立する立場にあったからだ。たとえば土地革命の際には、旧封建領主は土地を失い、農奴は土地を獲得した。これが対立する経験のひとつの事例である。
問題は、チベットの社会変革がその段階に留まることなく、その後も発展し、解放された農奴が中国共産党の臣民となり、さらに文化大革命の荒唐無稽な悲劇にまで発展したということにある。それゆえチベット人は、中国共産党の漢民族政権の被害者であると感じているし、この共通性はチベット民衆の間の内部矛盾を大きく上回っている。民族主義それ自体は「想像の共同体」であり、想像の部分を大きく考えることは可能である。中国共産党は終始チベット人の民族的権利をないがしろにしてきたことが、上流階級のチベット人がチベットにおける一切の問題を漢民族による抑圧の問題であると解釈することを容易にしている。
しかし一九八〇年代の「誤りを正して正常に戻す」政策以降、すべてはスタート地点に戻った。このとき中国共産党はふたたびチベットの旧貴族と上層の僧侶を取り込もうとした。しかし二度目の統一戦線には限界があった。なぜなら後者は中国共産党が自分達を飾りものにしかしないということを完全に理解していたからだ(原注14)。一方で、中国共産党は下層幹部や積極的分子をかつてのように重用しなくなった。その結果、これらの人々は改革開放のなかでその地位と生活水準が下がり、不平不満を生み出すこととなった。
一九八九年の騒乱のあと、(中国共産党機関紙の)「人民日報」では次のような報道が掲載され人びとの怒りを伝えている。「共産党は変わってしまった、五〇年代には我々を必要とし、八〇年には貴族を必要としている、と一部の民衆は主張している。上層の悪徳地主階級らは政策の恩恵にありつくことができたが、一般民衆はどうなのか。退職者や公務員はどうなのか。お金もなく、公的住宅も保障されていない。かれらの主張はこのような現実に問いを発している」(原注15)。
中国共産党はチベットにおいてわずかに残っていた民衆的基盤さえも最終的に喪失した。残ったのは自ら育成したチベット人官僚集団と新世代の下層幹部だけであった。 (つづく)
【原注】
(原注9)『中国民族問題報告』中国社会科学出版社、二〇〇八年、六六頁
(原注10)『陰謀與虔誠—西蔵騒乱的来龍去脈』、徐明旭、明鏡出版社、三七三頁
(原注11)「社会主義革命と民族自決権」レーニン選集第二巻、一九九五年版、五六四頁(訳注:『帝国主義と民族・植民地問題』レーニン、国民文庫、一九五四年版、一七頁)
(原注12)「民族自決権について」レーニン選集第二巻、一九九五年版、三九六頁(訳注:『民族自決権について』レーニン、国民文庫、一九五三年版、一二七頁
(原注13)『現代西蔵的誕生』、T・グルンフェルド、中国蔵学出版社、一九九〇年、二二〇頁(邦訳『現代チベットの歩み』東方書店、一九九四年)
(原注14)長年ドイツで暮らしている関係愚謙は中国共産党の支持者であるが、彼は(香港紙の)「信報」のコラムで次のように書いている。「知識も豊富で私も尊敬しているチベット人のアジャドジに以前スイスで会った際に彼は筆者にこういった。『チベットの地方指導者は、チベット人の旧貴族らに副省長や副委員長、全人代代表、政治協商委員など政府の役職を与えた。かつての農奴たちはそれに対して不満に思っていたが、役職を与えられた側も不満だった。というのも、それらの役職が象徴的なものに過ぎず、一切の政策や重大事事項の決定権は漢人幹部に握られていたからだ。言葉も漢語を使わなければならない。漢語が分からないのは本人のせいにされた。ときには警戒心を持たれ、外国勢力と繋がっているのではないかと疑われたりもした。これらはチベット人を刺激した。人権の破壊という主張に根拠がないわけではない。右派とみなされるよりは左派とみなされるほうがまだましであるという文化大革命の余韻は、中国の多くの地方で、多くの領域で依然として残っている。』」信報、二〇〇八年三月二八日
(原注15)『天葬』、王力雄、五〇三頁
【訳注】
(訳注19)中華ソビエト憲法大綱:一九二七年四月十二日、国民党・蒋介石による反共上海クーデターに対して、「革命情勢」という誤った情勢判断から導き出されたコミンテルンの「第三期論」に従って中国共産党は南昌蜂起、秋収蜂起、広州蜂起を決行したが敗北、江西省の井崗山に撤退し、革命根拠地を建設する。根拠地は江西、湖南、福建など十数の省の三百以上の地域に拡大し、支配人口は一千万に達した。一九三一年十一月七日、江西省瑞金で第一回全国工農兵代表大会(中華ソビエト第一次全国代表大会)が開かれ、中華ソビエト憲法大綱が採択され、中華ソビエト共和国臨時政府が置かれた。憲法は全十七条からなり、民族自決権に関する第十四条では、引用した文言のあとに次の一文が続く。
「中国ソビエト政権は現在、これらの弱小民族が帝国主義、国民党、軍閥、王侯、ラマ、土司などの抑圧支配から脱して完全に自立できるよう支援するよう努力しなければならないし、ソビエト政権はさらにこれらの民族において、かれらの民族文化と民族言語を発展させなければならない」。
土司とは、元代から置かれた武官職で、西北および西南の各民族地域の民族支配者に与えられた世襲の役職。明朝からは同様の文官職も置かれ、清朝末期まで続いた。土司には一定の賦役と必要な際には軍隊の提供が義務付けられる一方で、その地域一帯の支配を許された。
(訳注20)「ロシア人民の権利の宣言」:『世界をゆるがした十日間』(下)ジョン・リード、岩波文庫版、八九頁。「ロシア諸民族の権利宣言」とも呼ばれている。
(訳注21)ソビエト社会主義共和国連邦:アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアは、三つがそれぞれ独立した社会主義共和国としてではなく、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国というひとつの連邦社会主義共和国としてソ連邦に加盟した。これは当時「グルジア問題」と呼ばれ、後のスターリニスト支配の端緒がこのときすでに現れていたことを示す。「グルジア問題」の詳細は『トロツキー研究』第二号などを参照。
(訳注22)十七カ条の協定:正式名称は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」。中華人民共和国がチベット東部を軍事的に制圧した後、一九五一年五月二十三日、北京において締結された中国とチベットの間で交わされた全十七カ条からなる条約。チベットにおける中華人民共和国の支配権を認める一方で、中央チベットにおいては、チベット政府の政治体制を維持することなどが盛り込まれている。ただし東チベットにおいて軍事的に敗北を喫した当時のチベット政府にはこの協定を拒否することは事実上不可能であり、押し付けられた条約であるといえる。また中国政府はこの十七か条の約束すら守らなかったという批判などもある。全文は
http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/17agr-j.htmlなどを参照。
交渉の過程などについては、『もうひとつのチベット現代史』の「第三章 解放されたのか」一七九~二〇三ページに詳しい。またこの「十七カ条の協定」の中国語の原文が、締結にさかのぼること一年まえに、すでに軍事的に制圧されたカム地方(東チベット)において西南軍政委員会主席・劉伯承、中国人民解放軍西南軍区司令員・賀龍、同政治委員・�小平の名前で公布された布告で使われている文言と言い回しがおなじであった。これは、「交渉の際にチベット側代表の意見というのはほとんど反映されていなかったことの傍証になると思う」(「中国研究月報」二〇〇八年八月号、チベット特集、十二頁)
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