チベット事件 第四インターナショナル国際書記局決議 1959年7月

「The 4th International」誌(No.7 1959年秋)

第四インターナショナル国際書記局

中華人民共和国の軍民当局とチベットの武装勢力との間の衝突をもたらしたチベットの今年の出来事は、われわれの隊列をも含めてさまざまな解釈を生み出している。帝国主義の宣伝は、とりわけアジアの民衆の中の中国革命の吸引力に打撃を与えると同時に、アジアの「中立的」世論の中で、特にアジアと世界の植民地ブルジョアジーが見守る中で、北京政府の信用を落とすという明白な目的のために、この出来事を利用している。北京は、クレムリンの手本に従って、これらの植民地ブルジョアジーの善意やそれとの同盟を追求している。
 この宣伝から、今回の出来事に先立つハンガリーの出来事を類推することは容易かもしれないが、そのような類推は明らかに皮相なものである。
 最近の出来事が提起している問題を明確にするためには、歴史的、社会的な性格をもついくつかの事実を思い起こす必要がある。
 とりわけ、13世紀以降から19世紀に至るまで、チベットは統治の面では中華帝国の一部であり、この期間、チベットが独立国家として登場したことはけっしてなかった。19世紀になると、チベットは、イギリス帝国主義の保護国となり、イギリス帝国主義は、「インド解放」の時点でその権限をチベットに移譲したが、中国革命に反対する活動を行う、自身の諜報員を駐留させ続けた。
 1951年、中国革命軍がチベットに入り、北京は現地当局と「チベットの平和的解放のための政策」に関する協定を締結した。1954年、インドのネルー政府は、チベットに関する自己の権利を中国に譲り渡し、その時(1954年5月)、ネルー自身が「過去数百年間のいかなる時であれ、チベットに対する中国の主権が、あるいはこう言ってよければ宗主権がそれ以外の外国から異議申し立てを受けたというような事実を私は知らない」と宣言している。
 とりわけ13世紀以降、漢民族と呼ばれる中国民族とはエスニック的には明確に区別されるチベット民族は、(約50にも及ぶ)モンゴル族、ウイグル族、チワン族、ミャオ族、朝鮮族などの他の民族的少数派とともに中華帝国の枠内で生活してきた。これらの諸民族が、中国の名称で知られる多民族国家を歴史的に形成してきたのである。
 以上の歴史的事実が存在する。そしてまた、19世紀以降、帝国主義によるチベットの中国からの分離が疑う余地なく中国の安全と統一に反対する帝国主義の綱領になってきていたという事実も存在する。これらの事実は、中華人民共和国の枠内に、(省という地位ではなくて)、自治区という地位のもとに、中国革命軍が帝国主義からチベットを取り戻そうとする試みが正当であることを示すものである。
そのうえ、とりわけ最近の年月では、中国からの民族独立を求めるチベット人の運動が存在していることを示す証拠は存在していない。
 北京政府の民族政策は、チベットの勤労大衆に対するその態度という観点からのみ基本的に批判し得る。
 この国は、極端に時代錯誤的で野蛮な封建的・宗教権威的な社会・政治体制という点で際立っている。約二百家族から三百家族の貴族が、直接に自身で、そしてまた政府内で支配的な役割を果たすことを通じて、土地の約3分の2を所有しており、残りの3分の1の土地は上級聖職者が支配する僧院に属している。人口の圧倒的多数を占める百万人以上の農奴は、世俗的、宗教的貴族のための農民、羊飼い、召使いとして、極度の物質的、文化的窮乏状態のもとで、これらの土地で働いている。
 北京は、この国において勤労大衆による革命なしで済ませるために、また、アジアの支配階級、とりわけインドの支配階級、ならびにアジアの仏教界との関係を損なわないようにするために、革命的な大衆動員と組織化にもとづく既存社会秩序の転覆を注意深く回避した。実際、北京政府が基盤にしてきたのは、北京自身が現在、非難しているもの、すなわち、チベット政府とダライ・ラマを頂く上層社会層なのである。北京の待望している改革の漸進的な導入とは、これらの層の「再教育」と「理解」を通じてのことなのである。 この日和見主義的な政策は完全に失敗した。上級聖職者や世俗的貴族のこれらの社会層は、結局のところ、中国の他の地域と社会構造が同一のものとなっていく不可避的な過程を恐れて、無期限に改革を延期させ、時間を稼ぎ、自分たちの「独立」を守るために帝国主義と結託することにのみ関心があるのである。
 北京は、内戦を促進し封建的支配層に対する農奴大衆の決起を支援するのではなくて封建的支配層に事実上の支持を与えている。北京のこのような試みは、当然、それに幻滅したチベットの最も遅れた勢力の間に一定の反応をもたらす可能性がある。
 まさにこうした情勢のもとでは、チベットに駐留する中国軍が白衛軍の徒党からの攻撃の脅威にさらされることになる。ずっと以前の昨年3月にはラサそれ自身において中国軍はより大規模な攻撃を受けた。
 その当時、中国軍は「独立」国家を「侵略」したのではなかった。中国軍はすでに数年間にわたって現地に駐留していたのであった。帝国主義やダライ・ラマ自身の書いた手紙、ならびにその後ネルー自身も本当だと認めた証拠によれば、中国軍は、封建的勢力によって訓練され、準備された武装勢力の攻撃を受けたのであった。
 ハンガリーでは、クレムリンに忠実な、官僚的、警察的政治体制に反対する労働者の蜂起が起こり、それを鎮圧するために、形式的には独立していた労働者国家がソ連軍による侵略を受けた。したがって、ハンガリーの場合とのアナロジーは皮相なものであり、それゆえ有効なものでない。
 北京政府のこれまでのチベットへの態度に対する批判はまったく別として、革命的マルクス主義者は、衝突それ自身が起こっている現瞬間において、相互に対峙し合っている社会勢力を、すなわち、誰が誰に対して闘っているのかという点を、考慮に入れて、自らの立場を定める。この観点からすると、革命的マルクス主義者は、封建的反動の武装勢力に反対して中国革命の軍隊を無条件に支持する。
 後者が大衆的な性格を持っているという点は、明確な証拠にもとづいていないために、チベットの具体的なケースでは疑問が残る。この点は、ひとたび封建的反動が打ち砕かれ、革命軍の勝利が勝ち取られた後には、将来の解決策を決定するひとつの要素として問題になってくる。
 北京は、経験に教えられて、そしてまた事態の強制されて、当面、農奴に依拠することによって、そして聖俗の貴族層の地位と権限を破壊することによって、チベットにおける社会革命に最終的に着手しつつある。
 革命的マルクス主義者は、この行動を支持しながらも、他方では、それが基本的にチベットの民主的な諸機関--委員会、労働組合、民兵、政党--に委ねられ、中国の他の地域からの完全な分離の権利を含む、チベットの真の地域的自治の枠内でそれが実施されるよう求めるものである。
 チベット民族は明らかに別個の民族であり、革命的マルクス主義者は、中国からの分離の権利を含むこの民族の自決権を認める。この権利が行使されるようにするためには、全チベット民族の多数が明確に自らの意見を表明することが必要である。というのも、封建的指導者たちによるチベット独立の宣言は全チベット民族のこの願望を示す証拠とはならないからである。しかしながら、独立の権利の承認とこの権利のための革命的マルクス主義者の積極的闘争とは別のことである。
 他方、チベット自身の内部では、すべての革命的マルクス主義勢力は、チベットが、中華人民共和国における他の諸民族や他の自治区との平等を基礎にした友好的な連合関係のもとにとどまるという立場を支持する必要があるだろう。

   第四インターナショナル国際書記局
    1959年7月

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