ジョンソンは危機的状況へと英国を破壊中

英国 混乱深める国内情勢
労働党左派のプロジェクトの危機
と崩壊を教訓化した闘いの構築を

フィル・ハース

 労働党に対する選挙での圧勝から一年足らずで、ボリス・ジョンソン首相の保守党政権は混乱の中にある。そして、前例のない割合の社会・医療・経済的惨事に向かってイギリスを壊している。ジョンソンは、新自由主義的な視野の狭さと無能力が組み合わさることで、新型コロナウイルスの第二波を爆発させてしまっている。うち続く経済危機は、イギリスの欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)の悲惨な結果と合わさり、クリスマスまでに経済・社会的崩壊の切迫を招いている。政治的には、強硬右派の保守党は、反移民、反ヨーロッパの外国人嫌悪を強めることで対応している。
 危機がどのように展開されているかを理解するには、ウイルスによる惨事、ブレグジット、そして二〇一九年一二月選挙の政治的影響――ジェレミー・コービン前党首を中心とした労働党左派のプロジェクトの危機と崩壊を含めて――を見なければならない。

新型コロナウイルスによる惨事

 コロナウイルスに関するイギリスの記録は衝撃的なものだ。公式の数字によれば、この記事を書いている時点(二〇二〇年九月)で、公式には四万二千人の新型コロナウイルスの死亡者がいたが、これはほぼ間違いなく過小評価されている。
こうした死亡者の三分の一は、高齢者介護施設においてである。これを考慮すると、イギリスの人口はアメリカのほぼ二〇%だが、死亡者数はアメリカの約二一%である。言い換えると、ここまでの結果は、アメリカのトランプと同じくらい悪く、おそらく少しばかり悪いが、同一レベルにあるのだ。もっとも強硬な新自由主義政府のいくつか――アメリカ、イギリス、ブラジル――が、いかに新型コロナウイルスで最悪の結果を出したのかは印象的である。
イギリスにアメリカと同様の結果を招いた根本的な理由は、ロックダウンの開始が遅すぎたこと、ロックダウンの緩和が早すぎたこと、完全に不十分な民営化された検査・追跡体制、マスク着用やソーシャル・ディスタンスについて明確なアドバイスをしなかったことである。
イギリスは三月二三日にロックダウンに入ったが、その頃までには感染者数は四、五日ごとに倍増していた。ウイルスが病院を圧倒し、医療専門家の間で一二〇人が死亡したため、政府は、「回復した」と思われる高齢の新型コロナウイルス患者を介護施設に送り込んでスペースを確保するように病院に指示した。
予想された結果は、高齢者と病人の優生的虐殺だった。死者は、エッセンシャル・ワーカーズ(必要不可欠な労働者)の間で、とりわけ公共交通機関部門で驚くべきレベルに達した。たとえば、ロンドンのバス運転手では二九人の死者が出た。
ロックダウンは、接客・観光業や小売業に大きく依存していたイギリス経済に壊滅的な影響を与えた。人々が店やオフィスに行かなくなると、サンドイッチショップ、カフェ、ハンバーガーチェーンでお金を使わなくなる。パブやレストランは大打撃を受けた。
三月にリシ・スナック財務相は、大小の企業への支援に、そしてレイオフされた何百万人もの労働者の賃金の八〇%を支払う一時帰休制度に、五千億ポンド[約六五兆円]を投入することを決めた。たとえそうであっても、ロックダウンは爆発的な解雇を生じさせ、いまでは数十万人に達している。来月には一時帰休制度が終了するため、失業者数は約五百万人に達すると予想されている。ロックダウン期間中、政府は家賃未払いによる立ち退きを禁止した。この制限は現在撤廃されており、何万人もの人々が家を失う危険性がある。貧困が大量に生み出されるというのが現実的な見通しである。
しかし、すべての段階で、保守党の右翼は、個人的自由を侵害し、ビジネスをめちゃくちゃにしたとして、重要なロックダウン措置に反対してきた。その中には、『サン』紙と『デイリーメール』紙による過激な反応が含まれていた。何千人もの人々が、八月の日差しの中、ロックダウンの部分的緩和を利用して海岸に集まった。そこでは、ソーシャル・ディスタンスはほとんどとられていなかった。何千人もがギリシャとスペインで遅い夏の休日をとった。そこでは、イギリスの観光客が、ウイルスを克服している国々にウイルスを再輸出してしまった。
いま学校や大学が再開を許可され、人々が仕事に戻るように促されているため、感染者はまたも四、五日ごとに倍増している。学校の子どもたちはウイルスを拡散させないという考えは、不合理であることが示された。たとえば、グレーターマンチェスターだけでも、一〇〇校以上の学校で陽性反応が出て、学年全員が帰宅させられたとの報告があった。政府は地域的なロックダウンで対応しているが、全国的なロックダウンは必死に避けようとしている。
ほとんどの国においてそうであるように、ウイルスの社会地理学は貧困の地図である。マンチェスター北西部の町々は大きな被害を受けた。というのは、そうした地域は貧困の中心地であり、住宅が非常に密集しているためである。これはとりわけ、アジア出身者のコミュニティに影響を与えている。多くの場合、小規模な多世代住宅に住んでいるからである。同じことは他の主要都市でも言える。

ブレグジットの混乱が進行中


ブレグジットが危機をどのように悪化させるだろうか? イギリスは二〇二〇年の初めに欧州連合(EU)を離脱したが、実際にはほとんど変化はなかった。
イギリスは、「今年中には、できるだけ摩擦なしですむように、貿易協定が決着して、国境を越えた移動もうまく処理されるだろう」という移行の年に入った。いまは、イギリス側がより多くの反対を提起する中、一二月三一日の期限までには何の協定も結ばれないかのようだ。イギリス側からますます多くの反対意見が持ち出されているからである。したがって、イギリスとEUとの経済関係は、世界の残りの部分との経済関係と同じようなものになるだろう。
すなわち、多くの新しい関税が課せられるということである。表面上は、これは腹立ち紛れに自分の損になることをするように思える。イギリス資本の多くの部門にとっては確かにそうである。しかし、ブレグジットのナショナリズムと外国人嫌悪は、資本主義の合理性さえもくつがえすレベルに達している。どうしてそうなるのか?
EUとの貿易圏にとどまるためには、イギリスは環境や労働条件に関するEUの規制の多くを受け入れざるを得ない。それこそが、ウルトラ新自由主義的な保守党が撤廃したいものなのである。
おそらくもっと重要なのは、保守党右派は断固として親米派であり、アメリカとの貿易協定を結び、北大西洋自由貿易圏のようなものを開きたいと考えていることだ。そのためには、もちろんEUの規制ではなく、アメリカ政府の交渉担当者が要求する規制を受け入れることを意味する。それについては、アメリカ政府の驚くべき文書の中で次のように露骨に説明されている。
「イギリスは、国民保健サービス(NHS)をはじめ、すべての政府出資機関をアメリカ企業からの入札に開放しなければならず、その結果は商業的な基準のみで決定されなければならなくなるだろう。イギリス経済全体への『公正なアクセス』を保証するために、合同監視委員会を設立しなければならない」。
イギリスの「完全な主権」を主張することに執着している政府にとって、その多くがアメリカ資本主義に譲渡されることは明らかなように思える。
二〇二〇年末以降、「無協定」ブレグジットのもとで、混沌とした状態が生まれるだろう。多くの企業がEUの労働者に依存しており、彼らは来ることができなくなるだろう。ドーバー港やその他の主要な港では、税関書類をチェックするためにトラックの大行列ができそうだ。イギリスは、EUからの食品やその他の主要な物資を配達する一日に何百台ものトラックに依存しており、一部の食品の不足が起こるかもしれない。

国境めぐるあつれきが再発

 しかし、「無協定」ブレグジットは他にも多くの影響を与える。とりわけアイルランドには大きな影響を及ぼす。
北アイルランドはもちろんイギリスの一部だが、経済的にはアイルランド共和国と緊密に統合されている。国境を越えての移動は制限されておらず、多くの場所では実際に国境がどこにあるのか見極めるのは困難だ。しかし、アイルランド共和国は欧州連合(EU)の忠実な一員であり、もし国境を越えて商品やサービスが自由に流通し、アイルランド海を越えてイギリス本土へも流通できるのなら、ブレグジットにとって厄介な問題を生み出す。
これまでに編み出された協定は、北アイルランドは経済的にはEUに残るが、北アイルランドとイギリスの残りの地域の間をゆきかう商品やサービスは検査の必要があるし、EUの商品には適切な関税が課せられるというものである。強硬なブレグジット派にとっては、これはとんでもないことだ。
というのは、イギリスが北アイルランドの完全な主権を持たなくなることを意味するからである。「無協定」ブレグジットでは、国境検問所や税関検査をともなう、アイルランド共和国との「ハード」な国境が再構築されることになるだろう。その結論は、一九九七年のアイルランド和平協定を問題にして、大きなトラブルとアイルランド国家問題の大規模な再燃が予想されるということである。
デリーのベテラン社会主義者イーモン・マッカンが言うように、「もし彼らが国境検問所を再設置したら、六週間以内に人々が国境検問所に向けて発砲するだろう」。国境は、地元のビジネスマン、国境を越えて働く労働者、ダブリンの買い物客などが、国境を回避する非公式ルートを見つけることで広範に無視されることになるだろう。
また、ブレグジットのために、スコットランド政府を率いる穏健な社会民主主義政党のスコットランド国民党(SNP)と、スコットランドの独立に関する新たな国民投票というSNPの提案への支持が急増している。SNPの政治は穏健な社会民主主義であり、右翼ナショナリストではない。スコットランド首相で、SNP指導者のニコラ・スタージョンは、国境の北側のパンデミックにロンドンのボリス・ジョンソンよりもはるかに優れた対処をしたと見られている。実際には、スコットランドの死亡率はイングランドのものよりもわずかに良いだけであるが、スタージョンは、言い逃れに終始し、ことばが辛辣なジョンソンよりも、もっとオープンで正直であると見られている。
今のところ、スコットランド政府は、スコットランドの問題のいくつかについてのみ限定的な主権を持っている。完全独立のための新たな国民投票はイギリス政府の合意を得なければならず、今のところ可能性は低いと思われる。
一見すると、欧州連合(EU)離脱が、強硬右派が保守党を掌握したり、イギリス政治全体を急激に右傾化させたりするための重要なメカニズムになっていた可能性は低いように思える。ブレグジット派の長期にわたる攻勢の鍵は、EUと移民を結びつけることであり、二〇一六年の国民投票でのブレグジット派のスローガン「支配権を取り戻せ」に集約されている。そのスローガンは、イギリス左翼の一部によって「欧州資本主義から支配権を取り戻す」意味だと意図的かつ明白に曲解されていた。しかし、それは実際のところ、有権者には「国境の支配権を取り戻す」、つまり移民を締め出すという意味で(正しく)理解されていたのである。

レイシズムによる移民攻撃継続

 一五年前、ブレグジットは保守党内ではごく少数が関心を抱く問題でしかなかったが、イギリス独立党(UKIP)とその当時のリーダーだったナイジェル・ファラージとの連携によって注目されるようになった。
ファラージは、ルパート・マードックの新聞社および実際には右翼マスコミ全体による強い支援を受けていた。ファラージは、保守党の一種の「外部派閥」のリーダーとなった。そのことは、とりわけ二〇〇七~八年の金融危機と何年も続いた緊縮財政の後に、党内の力のバランスを変え、世論に圧力をかける上で非常に効果的であった。
今日、反移民感情の爆発は、穏やかな夏の海を利用してゴムボートや間に合わせのいかだに乗ってフランスから英仏海峡を渡ってくる――いわゆる「死のルート」の「不法」移民の流入――実際には少人数なのだが――が伝えられていることに向けられている。プリティ・パテル内務相は、国境警備隊を支援するために海軍を動員し、彼らをフランス領海に押し戻している。イギリスとフランスは、お互いに責任があると非難している。パテルはまた、亡命申請が却下された数千人の亡命希望者を迅速に排除するための新しいプログラムを発表した。

コービン指導部を支えた幸運

 政府の混乱がおおむね無傷のままでいるのは、現在はジェレミー・コービンの後任キール・スターマー率いる野党労働党が、議会で有効に反対することができなかったためである。それは、二〇一九年一二月の労働党の選挙での敗北と、コービン・プロジェクトの崩壊という点から説明しなければならない。コービンと彼の指導部チームが重要な政策課題で失敗した一方で、実際のところ、彼らのアプローチ全体には最初から欠陥があった。そのアプローチは、構造的な弱点によって損なわれていたのだが、二〇一五年の党首当選に続く左翼の幸福感の中に隠されていた。
そもそも、コービンの当選は部分的には偶然の産物だった。二〇一四年、右派に支配された党官僚機構は党首選挙の新しい方法に合意したが、これは誰でもネット上で三ポンドを払えば党員登録をすることができ、さらに党首選挙に投票できるというものだった。何十万人もの人が登録し、そのほとんどがコービンに投票した。これはもちろん、厳しい緊縮財政に直面している多くの若者の急進化を表しており、過激な右派を後押しする二極化のもう一つの側面だった。
しかし、労働党右派は議会内労働党の中で非常に支配的だったため、コービンのリーダーシップを決して受け入れず、コービンを排除するためには何でも、文字通り何でもすると決意していた。
コービン・チームは、党内のキャンペーン部門である「モメンタム」を結成し、すぐに四万人以上のメンバーが集まった。しかし、彼らは「モメンタム」の役割を主に党内選挙で支援を結集し、国政選挙で票を得ることに限定したため、彼らはそれを用いて役に立つことを何もすることができなかった。
コービンと彼のチームは、議会内の右派と闘う必要性や地方レベルで右派議員を「再選」しようとする試みと闘う必要性を理解することができなかった。すべての右派議員をとり換えることは不可能な任務だったが、こうすることによって右派に守勢をとらせ、全国指導部に対して攻撃をかける気を起こさせなくすることになっただろう。
しかし、より一般的には、コービンとジョン・マクドネル下院議員や広報戦略部長シェイマス・ミルンのような彼の主要な顧問団は、致命的に欠陥のある仮定、つまり党内右派とは妥協に達することができるという仮定の上に自らの戦略を立てていた。党内右派は、現にある指導部と急進的政策を嫌々でも支持せざるを得ないだろうと考えていたのである。
それはあり得ないことだったし、そうはならなかった。コービン政権が、右派に支配されている議会政党に対して、急進的な左派政策を押し通すという望みは決してなかったのだ。議会内右派は、党本部の官僚組織や多くの地方党役員の間に定着した右派によって支持されていたからである。
新党首を選ぶ選挙での最初の試みは、二〇一六年にあっさりと返り討ちにあった。その後、右派の議員や組合指導者は、コービンが二〇一七年に当時の首相テレサ・メイがおこなった突然の選挙で屈辱的な敗北を喫することに希望を託した。彼らにとって残念なことに、そして右翼マスコミにとっても残念なことに、コービンは屈辱的な敗北を喫しなかった。保守党は議会で第一党を維持したが、労働党は大幅な躍進を遂げた。

右翼の猛攻撃とスコットランド


保守党は過半数を失い、自らの施策を議会で通過させるためには、北アイルランド民主統一党との議会でのでっち上げ的癒着に頼らざるを得なくなった。コービンが次期首相になる可能性が広く議論された。
これが大きな転機となった。そのときから、コービンを反ユダヤ主義であると非難する大規模な政治的中傷キャンペーンが開始された。コービンを誹謗中傷する者たちを束ねていたのは、イスラエルへの支持とパレスチナ人の権利への反対だけでなく、労働党左派を傷つけることなら何でも言いたいという単純な欲求だった。
たとえば二〇一八年には、右派新聞はコービンが一九八〇年代にロシアの工作員だったと非難した。しかし、名誉毀損訴訟の中で、保守党副「党首」ベン・ブラッドリーは、それが保守党中央事務局の単純な捏造だったことを認めた。
二〇一五年以降の労働党の党員数は五〇万人以上に急増し、全員がインターネットにアクセスしていた。党内に、ソーシャルメディアに反ユダヤ的な感情を投稿していた者が数十人いたことが判明した。しかし、それは党全体、左派、あるいはコービン自身が反ユダヤ主義者である、あるいは反ユダヤ主義の党を率いているということとは程遠いものであった。
労働党指導部は致命的なミスを犯した。中傷を断固として拒否する代わりに、彼らはきっぱりと謝罪することにしたのだ。これは、とんでもない攻撃で非難された際の最悪の対応だった。これは、それ自体が戦術的で悲惨な動きだったが、左派全体やパレスチナ連帯運動に対して無責任な行動でもあった。彼らは反ユダヤ主義という中傷で汚名を着せられる可能性があったからである。
第二の失敗は、スコットランドにおける民族問題を労働党がまったく理解していなかったことだった。それは、ロンドンから発せられたと見られる新自由主義的緊縮財政への反乱によって後押しされたものだった。労働党は独立や実質的な自治権拡大に強く反対したため、国境の北側では崩壊してしまった。
二〇年前、労働党はスコットランドで七一人の議員を当選させた。今ではその数字は一議席にまで落ちている。労働党政権が成立するときにはいつでも、スコットランドの強力な下院議員団が存在していた。現在では、中道左派の地盤はSNPによって支配されている。その中には、イギリスでもっとも急進的な都市の一つであるグラスゴーも入っている。コービンは、「組合主義」政党としての労働党のイメージを打ち破ることができなかったのだ。

ブレグジットめぐる右往左往


第三に、労働党の指導部は、労働党の左に位置する左翼全体と同じように、ブレグジット問題に対処することができなかった。強くブレグジットを支持していた年配の白人労働者階級のコミュニティと、強く反ブレグジットだった多数の若者を含む多くの都市部の多民族コミュニティの間にはさまれて、労働党指導部は逡巡していた。二〇一九年の選挙キャンペーンでは、コービンは、労働党が欧州との新たな交渉をおこなって、そのあとで新たな国民投票を組織するというばかげた立場を思いついたが、「状況」に左右されるため投票方法をあらかじめ述べることを拒否した。
実際には、党内や労働組合にいる年配のコービン支持者の多くはブレグジットに賛成だった。EU、つまり「ボスによるヨーロッパ」への反対は、一九七五年の国民投票でイギリスの加盟を確認して以来、イギリス左翼の中にある長い伝統だった。
実のところ、EUは資本主義同盟であるが、左翼的な離脱(「レグジット」)は得られなかった。レグジット派は、共産党と最大の極左組織である社会主義労働者党を含めて、ブレグジットが保守党右派の重要な旗印であること、イギリスにアメリカの政治的・経済的支配をもたらすものであること、何よりも反移民レイシズム、とりわけEUの自由な移動の条件によってイギリスに住んだり働いたりすることが許されているポーランドやルーマニアのような国からの移民に対する反移民レイシズムによって正当化されたものであることを理解していなかった。
そして、保守党右派のEU規制への反対は、環境と労働者の権利に関するEU規制のもっとも進歩的な側面に焦点を当てていた。ブレグジットを左翼的なレグジットに変えることは不可能であった。左翼の比較的小さな声は、雪崩打つ反移民レイシズムの中にかき消された。
労働者階級の民族構成や職業構造の変化を反映して、二〇一六年にはバーミンガムを除くすべての主要都市が、反ブレグジットの大きな多数派をとり戻した。北部やミッドランドにあるかつての工業都市は、民族的に多様性に乏しく、アメリカのラストベルトと同じように経済的・社会的に絶望的な状況にある多くの地域を含んでいて、ブレグジットに大きく票を投じ、多くの農村部や中産階級が住む郊外地区も同様にブレグジットに大きく票を投じた。
ブレグジットは労働者階級を分裂させることに成功し、多くの年配白人労働者をレイシズムに向かって二極化させることに成功した。ブレグジット国民投票の三日前、SNP指導者ニコラ・スタージョンは、ブレグジットを「保守党右派によるクーデター未遂」と鋭く表現した。

左翼に政治的組織的刷新の課題


いずれにしても、労働党は、二〇一九年の選挙でブレグジットについての明確な見解を持っていたら、もっと良い結果が得られただろう。コービンの逡巡は彼のリーダーシップを弱々しく、不適格に見せた。それは、保守党のシンプルな「ブレグジットをやり遂げろ」というスローガンとは対照的だった。
二〇一九年の選挙での敗北に左派が動揺している中、はるかに穏健な社会民主主義者のキール・スターマーが党首に選出された。政府に対する「建設的な」批判のみに専念するという彼の決断は、ジョンソンの多くの失敗を救ってしまった。
左翼は、その多くが労働党に残っているが、長期的な政治的・組織的刷新に直面しており、その一部は明らかに敗北の後遺症に苦しめられている。左翼は、NHSやその他の公共サービスを守るためのキャンペーンに従事しなければならないし、反移民レイシズムや、反ワクチン・グループや陰謀論グループによって組織された反ロックダウン集会でのファシストの動員の新たな兆候にも反対しなければならないだろう。そして、左翼は最近の時期の中心的な戦略的教訓を把握しなければならない。
左翼が穏健な社会民主主義政党を奪い取ることはできないし、激しい内部闘争なしには、それを急進的な社会変革のための道具としても使うことはできない。変化のためのそうした闘いは、労働者階級の蜂起と大衆的な急進主義の時代においてのみ成功することができるのだ。
(フィル・ハースは、『ソーシャリスト・レジスタンス』紙や『ミューティニ』サイトに執筆している。また、『Creeping Fascism』(二〇一九年)の共著者である。)
(『インターナショナル・ビューポイント』九月二九日)

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