キューバ モデルの枯渇と新しい市民の登場
変わるか否かではなくどう変わるか、が問題
無視されたシグナル
アリナ・バルバラ・ロペス・ヘルナンデス
キューバで物不足に対する民衆の不満が大衆的デモの形で噴出したことが大々的に報じられた。この間のキューバでは極めて珍しいことだ。コロナパンデミックによる観光の途絶が大きな影響を与えていることが推測されるが、キューバ指導部はもっぱら米国による経済封鎖に責を着せているように見える。何が起きているのか、今後に何を提起しているのか、を論じた評論を以下に紹介する。(「かけはし」編集部)
キューバでの社会的爆発を見るのは心が痛むことだ。しかしながら、それはまったく驚きではない。社会科学は正確ではないかもしれない。しかしそれはことに気づかないわけではないのだ。権力にある者が現実を見ないとしても、われわれ科学に携わる女と男はそうしてはならない。われわれの信頼性、またもっと重要なこととして、多くの民衆の暮らしと国の未来が問題となっているのだ。
もろもろの警報は出ていた
アレックス・フライテスは1年ちょっと前の「オン・キューバ」向けのインタビューで、この島では新たな歴史的画期が形をとっていると信じているかどうか、またそのもっとも可視的な印はどのようなものと思われるか、と私に尋ねた。私の回答は、次のようなものだった。
確かにそう考える。危機は、社会的な主体がそれを意識するようになるまで、つまり主体的要素が決定的である時までは危機ではない。何人かの評論家が比喩的だと判定することになるやり方で危機を表現すれば、それは時代が抱えるある種の沈滞だ。ひとつのシステムについて私が話しているのではないということに注意してもらいたいが、それはほとんど常に、ひとつのモデルの消耗に関係している(……)。
私の意見では、沈滞というこの時期に導いた要素には、ふたつの決定的なものがある。一方には、うまく進む改革の道に方向付ける点でのわれわれの支配者の無能力がある。社会主義陣営の崩壊から30年以上が過ぎ、また企図された改革のふたつの時期も過ぎた。そして後者の改革に関しては、1990年代のもの、もうひとつは2010年以後のものがあり、後者は公式の手段内のものを含んでいて、また大量の支えとなる文書に基づいている。
他方には、公衆の判断にこの無能力を提示する市民の能力がある。そしてそれは新しいものだ。一方向的情報の回路の衰弱は、警告サインを見えるものにした。そして権力にある者たちはこれに十分気づいているが、しかし十分に対応できずにきた。
私の観点は、われわれは、経済的、政治的モデルの、官僚的社会主義モデルの、決定的枯渇を今見つつある、というものだ。権力を握る者たちは古いやり方では国家を前進させることができない。しかし決定作成におけるもっと大きな市民の重みに基づいた、もっと参加型の形態を受け入れることもできない。
12カ月後私は、「ラ・ホベン・クーバ(若いキューバ)」に「キューバ:木々と森」と題した論考を発表した。そこで私が述べたのは次のようなことだ。
キューバでは、変革への客観的条件は、ある時間の間で熟成を遂げた。疑いなく国家は前進を止めている。つまり経済は何年も成長していず、対外債務は貧困水準と同様に今も着実に増え続け、それでも改革は不可解な程に遅らされてきた。頂点にある者たちが以前のようには管理も統治もできないことははっきりしている。しかし、底辺にある者たちはどうなのか?
主体的要素の成熟がなければそのような改革はあり得なかった。それは、変化を強く求める民衆の意志を、政治的、教育的、さらにメディアの調教によって砕かれてきた市民のエネルギーを必要とした。市民はどうふるまうべきかをシステムがある程度まで統制する社会主義のモデルには、「学習された無力感」もまた存在している。
主体的要素が欠けている中で、客観的要素単独では何もものごとを決定しないと思われる。しかしながら今、その存在の極めてはっきりした印がいくつかある。そのような印はこれまで、イデオロギー機構によって理解されずにきた。これらの機構は誤って、不満の表れを「静かな反乱」へと、「広範な操作」へと、あるいは「政府に関する否定的見解の発生源創出」へと切り縮めている。とはいえ私は、それもまた起き続けているということを断定的に否認するわけではない。
キューバに新しい条件が出現
この国の指導部は以下の状況に自身をまだ構えさせていない。それは次のようなことだ。
――インターネットとソーシャルネットワークの大衆的利用が生み出した新しい環境。それは彼らから、何十年間も彼らが確保していた情報に関する絶対的独占を奪い取り、情報の流通を民主化し、運動と独断に対する非難の可能性をつくり出した。
――ネットワークの中で可視的になり、新憲法を起草するための民衆的諮問の結果として国の指導部自身によって助長された永久的論争状態。彼らはおそらく、諮問が一端終わり、われわれの考えがもはや必要でなくなれば、われわれが彼らに考えを出すことを止めるだろう、と考えた。それは彼らの側のうぶさであり、われわれには今や手段があり、われわれは彼らの指示を必要としていないのだ。
――法の支配の下での社会主義国家としての、キューバに関する言明。それは、キューバ人男女の大権を見えるものにし、憲法それ自身が保証する自由を求めるようキューバ人に迫った。
――自問する若い世代の存在。そしてその自問は、満たされない約束と遅らされ中断された改革にすでに疲れ果てた古い世代の中に反響を見出した。
社会変革に向けた客観的条件と主体的な条件のこの共存は、キューバの社会主義モデルにおいては完全に新しい。今賭けられている問題は、変わるかどうかではなく、どう変わるかなのだ(……)。
キューバが今日自身を見出している時点で、社会変革には、平和的か暴力的か、というふたつの道がある。私がまったく同意する最初のものは、政治的な信条に基づく差別がまったくない国民的対話という枠内において、経済的、政治的、法的な変革に圧力をかけるために、法的な場――その多くはまず生み出されなければならないと思われる――を利用するということを意味するだろう(……)。
これはこの国における極めて深刻な画期だと警告したい。政府によってだけではなく、不幸なことに、知識人や社会科学の専門家によっても極めてまずく分析されているひとつのシナリオの中で、諸々の対立に向かう潜在的可能性が蓄積しつつあるのだ。そして後者の、社会的事実を解釈する訓練と能力は、単なるイデオロギー的言明から自らを離さなければならないのだ(……)。
彼らはわれわれの少女であり少年なのだ。彼らと、そして変革と平和の道を切望しているキューバ市民社会と対話しよう。対応として、暴力的衝突を政府が選ぶならば、すでにわれわれがベダード(ハバナの新市街地区:訳者)で見たこと、あるいはマタンサス(ハバナの東北岸に位置する都市:訳者)の独立広場で起きたことがより大きな規模で起きる可能性がある。前者では、若者の平和的な集団が催涙スプレーで攻撃され、後者では、小集団が国家治安部隊メンバーから攻撃を受けた。彼らが2、3時間の間インターネットへのアクセスを止めていることは重要ではない。あらゆることが知られている。そしてあらゆることが遂行されている。
私の良心は私が沈黙を守ることを許さない。
決起した民衆の抑圧は大間違い
何カ月もの間より大きな勢いのある社会的爆発の可能性について政府に警告した知識人たちは、傭兵と呼ばれた。党と政府諸機関は怠慢にも諸々の警告サインを無視した。今回の事態は彼らの姿勢の結果にほかならない。
7月11日、この島の多くの都市や町で何千という民衆がデモを決行した。変化、より良い生活条件、そして政治的自由を求める者たちと並んで、この規模のあらゆる紛争では共通することとして、ただ犯罪と破壊の追求をこととした者たちもいたが、これは例外であり、常のことでもなかった。
キューバの近年の歴史では前例のないこれらのできごとに、大統領であり第一書記であるミグエル・ディアス・カネルは次の訴えで応じた。つまり「闘いへの指令はすでに与えられた。革命家は街頭に出よう」と。
彼は、テレビへの最初の登場の中で、デモ隊の中には混乱した革命的民衆がいた、と認めた。同12日における2度目の登場で彼は、彼らはすべて反革命派であり、傭兵である、そして起きたことは外部を源に作られた計画の結果だ、と主張した。これはずっと維持されてきた物語だ。彼にとって、抗議に立ち上がった数千人は人民の一部ではない。とんでもない大間違いだ。
法と秩序の諸部隊――内務省からFAR(革命軍)、特別部隊、諸々の軍学校生徒、さらに予備役まで――がそれらを暴力的に抑圧した。抗議に立ち上がった者のいくつかのグループもまた暴力的だった。
分かっていることとして、少なくとも一人が殺害され、他は負傷し、殴打され、拘留された。うち何人かは翌日釈放された。これは、2ヵ月前「社会主義イエス、抑圧ノー」と書かれた横断幕を掲げたことで逮捕された、ハバナ大学の若い物理学学徒、レオナルド・ロメロのような、他の場合で起きたことがないことだ。彼は彼の予科学生と一緒に国会議事堂の近くを歩いていた。その少年はその場に集まっていた大きなデモ隊を映像に撮ろうとした。彼は悪意のこもった攻撃を受けた。彼は未成年者であり、レオナルドは彼を守り、両者とも逮捕されたのだった。
その日午後3時にキューバ内のインターネットサービスが切断されたために、起きたことを正確に知ることは不可能だ。われわれは、情報に対する権利がなければ、われわれ自身を表現する可能性がなければ、いわば視界を奪われた人民になる。公認のジャーナリストは、彼らの姿勢をもって、彼らが単に政府のための宣伝担当者である、と示している。この職業に対する恥全部が彼らに降りかかるかもしれない。
指導部に依存しない道の探究へ
正しいとされた、そして時につじつまの合わないいくつかの声明が政府の基調を定めた。ラウル・カストロ出席の下に、本日政治局が会合を開いたが、何が討論されたかについては何ひとつ出てこなかった。明らかに、今回の爆発のような国内情勢を解決するために練られたロードマップはひとつもない。そしてその爆発は、SOSキューバなる名称をもつものから出てきた大きな国際的陰謀として、世論に提示されている。
彼らは自らを、米国の封鎖の除去を要求することに限定してきた。そこには、遅らされた改革と憲法違反に関するただひとつの自己批判もない。対話への誘いすらない。彼らは、数十年にわたって蓄積されてきた計り知れないほどの社会的負債をわきまえることもなく、ここ数週間の不便を強いた停電が市民の不快さに責任を負っている、と信じている、あるいは人びとにそう信じてほしいと思っている。
外相のブルノ・ロドリゲス・パリラは、公認外国報道機関との記者会見で、キューバでは「誰も飢えない」と語った。この言明は、政府と普通の人々との関係切断の程度を示すもうひとつの証拠だ。それは、現職書記長としての8回大会への彼による「中央委員会報告」におけるラウルの批判と同等であるに過ぎない。そこでの批判は、ドル導入による商業化がキューバで生み出した「不平等とされたもの」を攻撃する中で何人かの指導的幹部が犯したとされた、「一定の混乱」に向けられたものだった。
人々の絶望感が彼らを、この島でのパンデミックが最悪である時の真ん中で、大衆的な抗議行動の爆発へと投げ込んだ。人は、感染の巨大な高まりを見ると予想できる。その高まりは、抗議行動参加者と法と秩序の部隊双方の内部でのことであり、また政府支持を示すために職場で集まった即応グループの中でも同様だ。
このすべてに、キューバのための軍事的解決を求めて声を上げる何人かの亡命者が抱える政治的日和見主義が加わった。彼らは、人道的介入というテーゼに基づいて民族主権に影響を及ぼすことは、これらの民衆の圧倒的多数には全面的に受け入れられない、ということをわきまえなければならない。そしてその民衆には、政府に反対して本日デモを行っている者たちの多くも含まれているのだ。
ロドリゲス・パリラは外国報道機関に向かって、これはキューバがこれまでに経験した最悪の時ではない、と軽率にも強調した。確かにわれわれは1990年代に、恐るべき危機を経験した。しかしながら私は読者に次のことを思い出すよう注意したい。つまりわれわれには当時、短期的な変化を提供するに十分なビジョンをもつひとりの指導者がいた、ということだ。さらにまた、欧州内の現にある社会主義の倒壊を前に、政府には急速かつ連続的な変革の道を切り開く十分な知性があるだろう、との希望をもつ民衆もいた。
今日、これらのものごとの中で残っているものは何ひとつない。しかし、キューバ政府に諸々のシグナルに注意を払うよう求めることは、われわれが見てきたように、完全に方向を外している。(2021年7月15日、「ラ・ホベン・キューバ」より)
▼筆者は、哲学の博士号をもつ教員、エッセイスト、かつ歴史家。(「インターナショナルビューポイント」2021年7月号)
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