タリバンのアフガニスタン支配(2021年9月6日発行)
誰が「帝国の墓場」に埋められたのか
ジルベール・アシュカル
米軍に支えられたアフガニスタンの政権崩壊とタリバンの支配は、米国のアフガン軍事支配が完全な失敗に終ったことを衝撃的な形で明らかにした。前号でのファルーク・タリク同志の分析に続き、中東問題に精通したジルベール・アシュカル同志の分析を掲載する。(編集部)
事実に反する2つの解釈
バイデン・アメリカ大統領は、この貧しい国からアメリカ軍の撤退を早めるという決定を正当化するために、アフガニスタンについて歴史的に言われてきた「帝国の墓場」という言い方を引き合いに出した。バイデンはこう言うことで、アフガニスタンの支配権を確保しようとする試みは失敗する運命にあると主張し、その責任をまさにアメリカによる占領によって樹立されたアフガニスタン政府に押し付けたのである。
アフガニスタン政府の崩壊にともなうアフガニスタンの状況、およびアフガニスタン社会の大部分、とりわけ都市部、なかんずく首都カブールにおいて引き起こされたパニックを写した悲劇的な写真は、正反対の2つの極の間で全く異なる反応を引き起こした。つまり、一方の極は、バイデンが状況を見誤り、アフガニスタンの親欧米政府が存続できるためにすべきだったことをしなかったと非難した。もう一方の極は、アメリカ軍が南ベトナムから撤退した2年後の1975年、首都サイゴンが共産主義勢力に制圧されたときにサイゴンで起こったことと比較しながら、アメリカ軍の企図していたことが被った敗北の大きさを喜び祝ったのである。この2つの反応のどちらがより先見性のないものであるかを決めるのは難しい。どちらも基本的な事実を無視しているからである。
カイライ政権の崩壊
バイデンがアフガン政府のタリバン攻勢に耐える能力を見誤った(言い換えると、情報機関が見誤ったのだが)という非難についてまず考えてみよう。20年間の占領によっても、外国軍に守られなくても立ち上がれるだけの信頼性と民衆の支持をもつ国家の基盤を築くことができなかったことが、NATO軍の駐留を数カ月間延長することで補えると考える人がいるというのは、実に不思議なことだ。この主張は、批判者の誰一人として、アメリカの占領が20年間かけてもできなかったのに、あと数カ月間のアメリカの占領によって何ができるのかを全く説明できないという点で、さらに驚くべきものである。
現実には、アフガニスタン政府の運命は、外国の占領によって作られた傀儡政権が占領の終了とともに崩壊するという事例の長いリストの中で、もっとも新しい例に過ぎない。アシュラフ・ガニはモハマド・ナジブラと同じ道を辿ったのだ。ナジブラは、ソ連支配者によって、バブラク・カルマルの後釜として大統領に任命された。カルマルは、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した際に、権力の座につけられたのだ。
このことは、アメリカ軍がアフガニスタンに侵攻したときに、アメリカ軍がハミッド・カルザイを政権の座につけ、さらにカルザイに代わって、ワシントンがガニを任命したのと同じやり口だった。このことは、2001年9月11日の同時多発テロの後、アメリカがアフガニスタンを占領したことはアフガニスタンの「解放」ではなかったという明白な事実を意味するものだ。それは、それから2年も経たないうちにイラクを占領したのがイラクの「解放」ではなかったのと同様である。アメリカは、中央アジアにおける、ロシア・中国に向けられた自らの帝国主義的戦略に関連した理由でアフガニスタンを占領した。しかし、それはアフガニスタン人、とりわけ女性をタリバンの蒙昧主義的な支配から解放するという口実で覆われたものだった。その同じ口実は、ワシントンとその地域における同盟国がアフガニスタンを掌握する上で大きな役割を果たす手助けをしたのである。
ベトナムとの相違
左翼である、あるいは「反帝国主義」であると主張する立場からタリバンを歓迎する人たちは、1996年にタリバンがアフガニスタンを支配した後、タリバン政権を外交的に承認した政府はわずか4カ国であったことを思い出すべきだ。その中にはキューバ、ベトナム、中国、さらにイランでさえも含まれておらず、承認したのはパキスタン、トルクメニスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だけだったのである! これに加えて、タリバンの背後にはパキスタンの軍事情報機関が存在していたし、現在も存在していることはよく知られている。そのことがイランをはじめとする周辺国の不安を煽っている。
実は、ワシントンはアフガニスタンの運命にあまり幻想を抱いてはいなかった。アフガニスタンでのソ連の敗戦や自らのベトナムでの経験から、アフガニスタンを支配することは、その地理的条件や、古くから続く部族的・民族的絆の強さなどいくつかの理由で不可能であることを知っていたからである。そのため、アメリカのアフガニスタン戦略は、当初からイラク戦略とは質的に異なっていた。
アメリカはイラクを完全に支配することを目指し、その目的にふさわしい戦力(ラムズフェルド国防長官は、アメリカ上層部から、彼が見積もった適切な戦力というのがあまりにも楽観的だと警告されていたにもかかわらず、そのように考えていた)を投入していたのに対し、アフガニスタンには限られた兵力しか投入しなかった。同時に、アメリカがそれ以上の兵力を投入しなくても済むように、アフガニスタンの反タリバン組織である北部同盟が国土を制圧することに依存し、NATOの同盟国には兵力を投入するよう圧力をかけたのだった。
アメリカがアフガニスタン、より正確にはアフガニスタン領土の一部を占領するという戦略的目標は、まず何よりも、戦略的にきわめて重要な位置にあるこの国にアメリカの空軍基地を建設すること、および以前はソ連の一部であった中央アジア諸国にアメリカの影響力を拡大することであった。時が経つにつれ、ワシントンは、こうした戦略的利益が次第に減少することによって、そしてとりわけタリバンの攻勢と国内のますます広大な地域を支配する能力によって、アフガニスタンが無限のエスカレーションと撤退の間で、ベトナムのようなジレンマをワシントンに突きつけつつあることを示したことによって、アフガニスタンにおける駐留継続のコストがその戦略的利益ともはや見合わないという結論に達した。
このことが物語っていたのは、アフガニスタンで起きたことにもっとも近い状況は実はベトナムではないということである。つまり、南ベトナム軍はアフガニスタン政府軍よりもはるかに強力で、アメリカ自らが倒すことができず、タリバンよりもはるかに大きな国際的・地域的支援を受けていた共産主義勢力を相手に2年間戦い続けることができたからである。アフガニスタンで起こったことにもっとも近い状況は、カブール政府の部隊がタリバンの攻勢の前に崩壊したのと同じように、ワシントンが築き上げ、2014年夏にいわゆる「イスラム国」(IS)が仕掛けた攻勢の前に不名誉にも崩壊したイラク軍部隊に起きたことである。言うまでもなく、ISとタリバンの類似性は、一方ではこの2つのジハード主義グループと、他方ではベトナム共産軍との間の大きな違いによってのみもたらされるものである。
(『インターナショナル・ビューポイント』2021年8月19日)
(これは、2021年8月18日付の「Al-Quds al-Arabi」に掲載されたアラビア語記事から英語に翻訳された)
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