不幸はアフガニスタンの運命か? アフガニスタン四月革命の物語(上)

2010年9月20日 ラリ・カーン

[解題]この論文は、パキスタンの「闘争」グループの創設者であるラリ・カーン(2020年2月死亡)が2010年9月に執筆したものである。『アジアン・マルキスト・レビュー』のサイトに掲載されているものを日本語訳した。本文中の記述から判断すると、おそらくこの時期にカブール市内になんらかの左翼の拠点を作ったことを記念して、執筆されたものと思われる。この中で、ラリ・カーンは当時の(それは現在へと通じている)アフガニスタン情勢がアメリカの侵攻によって始まったのではなく、その起源は1978年の四月革命にまで遡らなければならないとしている。そして、1978年に権力を掌握した人民民主党政権の初期の政策を高く評価している。タリバンによるカブール占領に際して日本で行われている議論の多くが、この時期の諸問題をスルーし、2001年以降にのみ議論の対象を限定している中では、この指摘は重要であると考える。ぜひご一読いただいきたい。(訳者)
 アメリカ帝国主義の真剣な戦略家たちは、アフガニスタンでの軍事的勝利が不可能であることを理解している。それと同時に、ロシア、インド、中国、その他の国は、この状況から利益を得ようと画策している。これらはすべて、1978年の四月革命の反動的な敗北の結果である。しかし今、労働者や若者の間では、当時の記憶がよみがえり、反動的な原理主義者と現政権の両方に代わるものを求めている。
 「アフガニスタンの地理的位置とその国民のユニークな性格が合わさることで、この国は中央アジアの問題において、過大評価することができないほどの政治的に重要な位置を与えられている」(フリードリヒ・エンゲルス)

中央アジアの
支配権をめぐり
 地球上の他のいくつかの「発火点」と同様に、アフガニスタンの地政学的な重要性は、その人々にとって恵みではなく、むしろ呪いとなっている。何世紀にもわたって、アフガニスタンは代理戦争、反乱、そして帝国主義諸国が中央アジアの支配権をめぐって争ったグレートゲーム[訳注:中央アジアの覇権をめぐる帝国主義間の敵対関係・戦略的抗争を指す。中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称]の戦場となってきた。
 かつてはイギリスとロシアの争いであった。現在、ロシアは北部のタジク人やウズベク人とともに、再び陰謀に関与している。イランは、ダリー語[訳注:アフガン・ペルシャ語とも言われ、かつてはアフガニスタンの伝統的支配階級の中で広く用いられていた]を話す人々やシーア派の人々に影響力を伸ばしている。中国は、世界最大の銅山を所有しているアフガニスタンの鉱物資源の開発に熱心だ。最後になるが忘れてはいけないのは、インドも積極的に介入しており、アフガニスタンを自分の裏庭と見なしているパキスタンとの対立を悪化させていることだ。
 このような地域的なパワーポリティクスの皮肉な表現は、将来的にアフガニスタンをその構成要素に分割することにつながるかもしれない。この不幸な国は、残忍な帝国主義の侵略にさらされており、終わりの見えない血みどろの消耗戦に巻き込まれている。
 帝国主義の侵略は、欧米諸国に楽観主義を植え付けることも、アフガニスタンの大衆の悲惨な苦しみを和らげることもできなかった。9月18日に行われた国民議会下院選挙は何の解決にもなっていない。これ以上ないほど荒涼とした状況である。裏切り者の軍閥によって運営される麻薬経済、残忍な帝国主義の侵略、普遍的な汚職、無節操なタリバンの残虐性、これが今日のアフガニスタンの現実である。

ソビエト政府が
最初に認めた国
 しかし、これは常にそうだったわけではない。カブールが「東洋のパリ」と呼ばれていた時代もあった。1919年の第3次アングロ・アフガン戦争でイギリスに勝利したことで、約1世紀にわたる帝国主義の侵攻に終止符が打たれ、一定の不安定な国家主権が獲得された。レーニンとトロツキーに率いられたソビエトロシアは、アフガニスタンを独立国として認めた最初の国であった。しかし、この独立は長くは続かず、1929年にはナディール朝が君主制の独裁政治を敷いた。

長年にわたる
侵略の歴史
 現在の戦争は、2001年にアメリカがアフガニスタンに侵攻したことで始まったわけではない。この侵略は32年以上に及ぶ。1973年のムハンマド・ダウドによる軍事クーデターは、大地主とブルジョアジーの利益を代表するものであった。このクーデターは、アメリカ帝国主義とモスクワのスターリニスト官僚から援助を受けていた。両者は、冷戦時代にダウドの独裁的な政権を取り込もうとした。
 PDPA(アフガニスタン人民民主党)は、1965年1月1日、アフガニスタン共産党の異なる派閥の統一会議で結成された。1978年4月17日、ミール・アリ・アクバル・カイバー[訳注:PDPAパルチャム派の指導者]は、カブールのプル・ア・チャルヒ刑務所でダウド政権に暗殺された。カブールでは1万人以上の自然発生的な抗議デモが行われ、抑圧的な政権を揺るがした。ダウドは、獄中にいるPDPAの他の主要指導者たちの殺害を計画していた。

革命評議会と
新政府の発足
 PDPAは報復するほかなかった。1978年4月27日、アフガン陸軍と空軍に所属するPDPAの将校たちは、血まみれのクーデターによって圧政を敷いていたダウド政権を打倒した。プル・ア・チャルヒ刑務所の壁は機甲部隊によって砲撃され、PDPAの指導者たちは解放された。アフガニスタン民主共和国が宣言され、PDPAの書記長であるヌール・ムハマド・タラキが率いる革命評議会と新政府が発足したのである。
 革命評議会が最初に出した政令の一つは、女性の売買を全面的に禁止することだった。革命前のアフガニスタンでは、女性はいかなる権利も奪われていた。アフガニスタンの前封建社会では、女性は基本的に商品であり、その購入は花嫁費用の支払いという形で薄いベールをかけられていた。しかし、このような野蛮な行為は、今日のアフガニスタンにおいて、タリバン支配地域だけでなく、帝国主義者が押し付けた「民主主義」の下にある地域でもまだ蔓延している。
 1978年7月の政令第6号では、地主や金貸しへの借金をすべて帳消しにした。これにより、農村人口の80%にあたる1150万人が、署名一つで、金貸しから無理な要求を受けなくてよくなったのである。帳消しにされた借金の総額は330億アフガンに上る。新政府は農地改革も実施した。人口の5%が全耕作地の4分の3を所有していた。1979年の秋までに、これらの土地はすべて収用され、30万人以上の土地を持たない農民に与えられた。
 農産物の仲買人の役割も廃止された。史上初の国勢調査も行われた。医療、住宅、食料供給を改善し、失業者を一掃するための抜本的な対策が講じられた。1978年から79年にかけて、600以上の学校や高等教育機関が設立された。80万人の労働者と農民が識字教育コースに参加し始めた。帝国主義や「国家」ブルジョアジーの資本や資産の大部分が国有化された。
 当然のことながら、新しい革命政府は、帝国主義者の脅威とみなされた。四月革命に対する多くの誹謗中傷の中に、「ソ連の支援を受けた」というものがあった。

急進的革命を
転覆の動き
 しかし、これは全くの誤りであり、欧米のメディアの中にも認めざるを得ないものがあった。例えば、『タイム』誌は1980年1月28日号で次のように書いている。「1978年4月にヌール・ムハンマド・タラキがダウドを打倒したマルクス主義者のクーデターは、アメリカ人と同様にソ連人をも驚かせた。西側の情報機関は、『四月革命』の現場にロシアの指紋を見つけることができなかった」。
 1979年4月9日に行われた演説でタラキは、「四月革命には外部勢力は関与していない。アフガニスタンは革命の輸入も輸出もしていない・・・。人間による人間の搾取のない社会を築くという新しい道を歩み始めたのだ」と述べた。
 革命後の最初の数カ月間に行われた急進的な措置は、特に南アジア、中央アジア、西アジアに大きな影響を与えた。帝国主義は、この地域全体に波及する可能性に恐れをなした。これこそが、アフガン革命に対してCIA史上最大の秘密作戦が発動された真の理由である。帝国主義が「イスラムのジハード」という旗印のもとに組織した反動的な反乱によって、現在の戦争が始まったのもこの時である。
 ワシントン・ポスト紙は2月15日、「秘密活動の監督を担当する議会の主要委員会は、国務省とCIAの行動について常に情報提供を受けてきた・・・。この秘密の取引は、最終的に、反乱軍への秘密の援助が、ロシア軍に嫌がらせをして縛り付けているため、政権が明言している目的であるロシア軍の撤退を妨げることになるのではないかという疑問を引き起こす可能性がある」と書いている。
 カブールの左翼政権を転覆させるためのこのCIAの秘密作戦の主な実行者は、パキスタンのジア独裁政権とサウジアラビアの王政であった。「ドルの聖戦」は、1978年秋、カーター大統領の国家安全保障顧問であったブレジンスキーがカイバル峠で始めたものである。オサマ・ビン・ラディンをこの「聖戦」に勧誘したのも彼である。ブレジンスキーは、それを始めるときに「アラー・アクバル」とさえ唱えた。
(つづく)

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