中国「共同富裕」の真実(10月11日発行)

習の新方針は革命ではなく反動
潜在的反乱へのもう一つの先制攻撃
區 龍宇

 8月末、中国国内のブロガーである李光満がある記事を投稿した。その記事はたった一夜で彼に全国的名声をもたらした。彼の「誰でも、深刻な変革がいま進行していると感じことができる」という投稿は、『人民日報』から『解放軍報』にいたる複数の党メディアによって、それぞれの公式サイトに転載された。
 彼は、習近平による、デジタル巨大企業から映画スターに至るまでの民間のビッグ・ビジネスに対する最近の攻撃、そして「共同富裕」を実現するために金持ちと貧困層の間の格差を縮めようという呼びかけは、「『資本にへつらう連中』から人民大衆への回帰であり、資本中心から人民中心への移行である。…この深刻な変革は…社会主義の本質への回帰である」と論じた。

反資本主義の毛
資本主義の習

 習近平が多くの点について、毛主席の真似をしようとした、そしてまず何よりも、毛沢東に対する個人崇拝を見習おうとしたのは明らかである。それは、映画スターのファンクラブや子ども向けオンラインゲームでさえ「習近平思想」という国家宗教に有害なものとして扱われるところにまで至っている。しかし、常に正しい指導者として持ち上げられている2人が似ているのはこの点だけなのだ。
 毛沢東の中国は「社会主義」や「共産主義」へは進化しなかったが、それは確かに反資本主義だったし、小企業や個人企業さえ禁止されるほど反市場ですらあった。習近平は資本主義について何を言い、何をしてきたのだろうか? 彼が「共同富裕」と言うとき、何を意味しているのだろうか? 
 習近平は、国民所得の分配について「3つの分配」という概念を語っている。新自由主義経済学者の李超によれば、「1次分配は効率原理にもとづく市場のことである。2次分配は公平原理による、税金や社会保障支出を通じた政府の役割を重視したものである。…第3次は道徳力の影響のもとでの自発的な寄付を通じた分配である」。習近平の心の中で一番重要なのは3次再分配なのであり、それは中国的特徴で味付けを施されているだけである。つまり、大企業に慈善事業への寄付を強制するのだ。習近平のメッセージは大物たちの背筋をゾッとさせた。この急進的にみえる行動にもかかわらず、これは社会主義ではなく資本主義である。
 習近平は、市場によって所得を利益・地代・賃金に分配するという典型的な資本主義的考え方を信奉している。習近平はアップデートした慈善事業を宣言しているが、慈善は金持ちの特権である。所有者をまず富ませるのは、労働者と使用者との間における所得の1次分配なのである。習近平は資本主義の道を歩む人物であり、それを知った毛主席は墓の中でひっくり返っているかもしれない。

官僚の親玉が
個人独裁追求


 実業メディアのブルームバーグに掲載されたある記事は、習近平の資本家階級への厳しいと思われる措置について次のように述べている。
 「証拠が示すのは…経済問題について、起業家を階級として消滅させるのではなく、彼らのエネルギーを別の方向へ向けたいという意味では、習近平は毛沢東ではないということである。…習近平は毛沢東の平等主義をあまり信じてはいない。福祉については、彼の最高補佐官たちは社会主義者というよりは新自由主義者に近い。彼らの考えでは、貧困層への補助金は怠惰を促進するだけというのである」。
 李光満のような人々は、最終決定をする一人の最高指導者を持つことの利点は、誰にも拘束されない、以前に自らが述べた価値観や綱領にも縛られない、より賢明な指導者であるということだと論じるかもしれない。彼は自分がいいと判断するように変わることができる。毛主席がその良い例だった。それゆえに、習近平国家主席が将来において、より「社会主義的」政策へと向かう可能性を排除することはできない。しかし、問題の核心は、毛沢東はカリスマ的存在だったが、習近平は単なる小人物でしかないということだ。
 毛沢東の「革命」についての考え方と実践は、中国古来の「易姓革命」、つまり「古い王朝を新しい王朝で置き換えることが唯一の目的である革命」という考え方を強く吸収して取り込んでいた。これが、彼が絶対的な個人的権力を握ることに執着していた理由だった。それでもなお、彼は偉大なビジョンと才能を持った革命家だった。
 彼は達成したことによって大きな人気を得た。その一方で、習近平は国家官僚機構の親玉でしかなく、それも平凡な親玉なのである。彼の著作を読むのは回りくどくて退屈である。才能と気質のこの大きな違いはまた、2人のそれぞれの行動における大きなギャップにも現れている。毛沢東が1960年代後半に、若者たちに自らの党に対する「革命」をおこなうように呼びかけたとき、それが自分に向かうことはないと自信を持っていた。習近平はそのような策略をやってみようとさえ思わないだろう。国家機構だけが習近平にとって安心と感じられる勢力なのである。街頭でのデモなんて絶対に望んではいない。このあからさまな対比を見れば、習近平の政策と毛沢東の文化大革命とを比較するなんて、全く愚かなことに思える。

1度目は悲劇
2度目は喜劇


 根本的には、2人は党との関係で非常に異なった歴史的役割を持っている。習近平が党による権力独占と彼自身の個人的権力を維持するのに必死だった一方で、異なるアジェンダが働いている。毛沢東時代の経済的「平等主義」は半分本当だが、党の上級官僚は厖大な特権を享受していた。政治的平等主義という観点から言うと、それは完全に事実に反している。それにもかかわらず、毛沢東の中国は反資本主義だった。毛沢東の綱領をひっくり返したのは鄧小平だった。鄧小平の政策を喜んで受け継いだのが習近平だったのである。こうした資本主義の道を歩む者たちは党官僚を金持ちにした。そうなればなるほどますます、彼らはコントロールを失うことへの絶え間ない恐怖の中で暮らすようになる。とりわけ彼らが1989年の民主化運動を弾圧したあとにはそうである。したがって、習近平のもとにある共産党は、民主主義や平等を求めるいかなる運動もその初期のうちに壊滅させるために、いつも先制攻撃モードの中にある。これは、下からの庶民反乱が起こる潜在的可能性に対する保守的な反応である。それは徹頭徹尾反動的であり、ときにはかなり滑稽である。
 このことは私にマルクスがかつて言ったことを思い出させる。「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば2度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。1度目は偉大な悲劇として、2度目はみじめな喜劇として、と」。
(『インターナショナル・ビューポイント』9月27日)

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