インド モディ 農業法取り下げを表明
農民の不屈さが政府を屈服へ
アホイ・アシルワド・マハプラシャスタ
【ニューデリー発】将来1年にわたる農民運動の偉大な勝利として祝われるものとして、11月19日、ナレンドラ・モディ首相は3本の物議を醸した農業法案の撤回という政府の決定を公表した(本紙2021年1月25日参照)。この連邦政府は今まで、まさしくモディ自らが議会の場で、抗議する農民たちを「アンドラン・ジェーヴィ」(騒ぎで暮らしを立てている者ども)とさげすんで呼ぶことで、容赦ない姿勢をとってきたのだ。BJP(モディの政党、人民党:訳者)機構は、この農民の闘争に、カリスタニ分離主義者(シーク教徒の分離運動活動家:訳者)が率い、テロリストグループから資金を受けている騒動、とレッテルを貼ろうと試みた。
弾圧に屈しない農民の固い決意
しかしながら農民たちは、「親企業」かつ「反農民」と確信したこの農業法の完全な撤回、という彼らの要求を断固として守り続けた。抗議に立ち上がった諸グループは、法採択に先立って農民には諮問が行われるとの政府の主張とは逆に、この法案はまず2020年6月に布告を通して持ち込まれた、そしてそれは、彼らに対する新法の裏口からの強要と彼らが信じるものに似ている、と人々に思い起こさせた。
BJP率いる政府は騒動のあらゆる段階で、農民の運動を粉砕しようとした。その流儀を示すもっとも恐ろしいエピソードは、運動中の農民がウッタルプラデシュ州のラクヒンプル・ケリで、次席内務相、アハイ・ミシュラの息子が関与したと言われる車列になぎ倒されたことだった。
この運動中に600人以上の抗議農民が死亡した。何人かは厳しい法の下で警察の記録に載せられた。政府はその警察機構を運動粉砕のために使った。農民たちがデモを挙行し続けてきたデリーのシングとティクリの境界は、事実上屋根のない刑務所に変えられた。農民による今年はじめの共和国デー行進の後、警察は何人かの農民指導者に通告なく激しく襲いかかった。
それでも農民たちは、抗議を続けるという彼らの決意の断固さを保った。彼らの決意は、デリーのガズィプール境界における共和国デー行進後のバラティア・キサン組合指導者のラケシュ・ティカイトへの弾圧が、抗議に新たな命を吹き込み、ウッタルプラデシュ州(UP)全域でデモが行われた程のものだった。
分断戦術に抗し全農民の結集へ
この法案を撤回するという首相の決定は、農民の運動が連邦政府を屈服させた、ということを指し示している。過去7年、モディ政府は民衆の運動には軽蔑的だとの世評を得てきた。運動グループの要求を認めることすら、軽蔑で見られるか、自身を強力で断固としていると見せることにとりつかれた政府にとっては弱さの一兆候と見られた。そうした筋違いの対応はしばしばモディ政府を、権威主義的姿勢をとる方向に引き寄せるよう導いた。
他方農民の運動は、それが始まって以来むしろ勢いを強めて進展した。それは、パンジャブにのみ根をもっていた抗議から、全国的広がりのある運動へと成長した。その中で農民グループは、彼らの違いを脇に置き、強力な政府を相手にするために協力した。ゆっくりと、また徐々に、さまざまな州のさまざまな指導者たちが結集し、多様なカーストとコミュニティの諸矛盾を曇らせる歩みの中で統一戦線を築き上げた。
運動が後退を耐え忍ぶことを迫られる度毎に、それはより強くなった。あらゆる抗議の現場に翻ったスローガンの「キサン・エクタ、ズィンダバード」(農民と労働者の団結万歳:訳者)もまた、この運動に精力的に活動する機会をもっていなかった多くの農民への呼びかけとなった。
この2、3ヵ月、この農民運動はBJPの分極化戦術と対決するひとつの政治運動になるまで進んだ。それは西UPのジャツ(インドとパキスタン北部に住むカーストあるいは民族:訳者)とムスリム――2013年のムザッファルナガル暴動(62人の死者が出たヒンドゥ教徒とムスリムの衝突:訳者)の後で引き裂かれたふたつの共同体――間の緊張を癒すことを助けた。この運動は、多くのコミュニティを結集するプラットホームになった。
見え透いた策謀狙いは迫る選挙
もっと早い時期、農民の指導者たちは反BJP勢力として、西ベンガル内の広範囲でキャンペーンを行った。そしてこの州内でまだひな鳥だったサフラン党(BJP)の屈辱的な敗北に決定的に貢献した。人々がBJP指導者に彼らの村での運動を許しもしなかったという事例がいくつもあった。その運動はまたいくつかの州で、他の政党に向かうBJP下層指導者の脱走にも口火を切った。
この運動はあらゆる側面で、ひとつの事例をつくり出し、排他的なコミュニティの線に沿って社会を分極化しようとする、諸政党によるもくろみを相殺するために進む道を示した。ムザッファルナガル暴動の後で、BJPだけがジャツとムスリム間の敵意の受益者だった。ハリアナではサフラン党が、ほとんどの州での選挙勝利を目的とする分極化という冷笑的な方策にしたがって、優勢なジャツを他のより小さいコミュニティに敵対するように整えた。
あらゆる形で農民運動に関し軽蔑的であった後では、農業法案の撤回というモディ政府の公表は同様に冷笑的に響いた。首相は、運動を粉砕しようと試みたにもかかわらず、農民を助けるために「可能なあらゆること」を行っていることについて話した。彼は農民の福祉に対する彼の政府の約束について話したが、しかし他方で農業法案の撤回は同時に、農民に「真実を説明する」ことが彼には不可能であることをも、確実に語っていた。
彼の決定は、インドで人口のもっとも多い州であるUPとパンジャブでの決定的な議会選のほんの2、3ヵ月前に出てきた。そして前者でBJPは、権力のもう一期をうかがい、後者では、農民運動の進行の中で、そのもっとも信頼できる同盟者――シロマニ・アカリ・ダル(SAD、バダル)――を失っている。モディの農業法案撤回の決定は、両州における厳しい見通しに基づいて、心中の選挙に対する考慮だけに基づいてとられた決定のように見える。
選挙対策であれ農民は勝利した
両州の野党は、農民共同体内部のBJPに対する怒りの波に乗ってその地歩を固めた。多くの調査は、BJPが、州におけるその最強の拠点である西UPで大きな敗北に直面する可能性がある、と指摘してきた。同様にパンジャブでも、モディの動きが再びBJP―SAD(バダル)連合に、あるいは元会議派首相のアマリンダー・シンとの協力に道を開いている。そして後者は、政府が農民問題を解決するならば、選挙前のBJPとの連携を拒まない、と言明した。
モディの決定はBJPに、来る選挙の中での何らかの方策を与えている。それは、党に対するさらなるいかなる打撃も妨げようと意図されたものだ。彼は、グル・ナナク・ジャヤンティ(最初のシーク教導師であるグル・ナナクの生誕を祝う公式休日:訳者)に際した運動中の農民への贈り物として、彼の動きを構想したのかもしれない。しかし、この農民運動が、モディが他のいかなる決定もとりようがないところまで彼を押し込んだ、ということを見逃すことは難しい。
農民運動の勝利はまた、この7年間での最初の実体的なモディ政府の敗北をも印している。その意味でそれは、インドの政治史上ひとつの重大なできごとだ。(2021年11月19日、「ザ・ワイヤー」より)
▼筆者は、「ザ・ワイヤー」の編集長代理であり、そこで現実政治とその影響について書いている。以前の職場である「フロントライン」では、政治、紛争、農民問題、歴史、芸術について報じた。(「インターナショナルビューポイント」2021年11月号)
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