米国 なぜわれわれには性と生殖の正義が必要か

「プロ・チョイス」vs「プロ・ライフ」の迷路

「選択」の概念超えた闘い今こそ権利としての中絶を
シュイ–イン・シャロン・ヤム

 「ロー対ウェード」をひっくり返す最高裁判決草案がリークされて以来、性と生殖の権利活動家たちは安全な中絶の合法的な利用を巡って集結し続けてきた。
 主流的な一般市民の主張における中絶医療を取り囲む論争は、しばしば次の二分法、つまり「プロ・チョイス」と「プロ・ライフ」に単純化されている。しかしながらこれらの用語は両者とも、生殖の正義が内包するもっと範囲が広く諸領域にまたがる考え方に向かう闘いを曇らせる不適切な名称だ。「ロー対ウェード」のあり得る逆転はひとつの亀裂を生み出している。それは、性と生殖の正義活動家たちが、全員にとっての身体の自律性と生殖の自由の将来を形作るために、動力化しなければならず、またそうできるような亀裂だ。
 中絶の権利と生殖医療をめぐる論争と唱導がより幅広く強まる中で、われわれにとって今かつて以上に重要なことは、性と生殖の政治に関するイデオロギー的輪郭、およびわれわれがそのために闘っている考え方を表すために、われわれが使う言葉を研ぎ澄ますことだ。

「個人の選択」の決定的限界


 「ロー対ウェード」は多くの人々に合法的な中絶を利用することを可能にしたが、その判決は、正義や権利というよりもむしろ、個人の選択という概念を基礎にしていた。言葉を換えれば「ロー」は、生殖の決定としてそれは個人の「プライバシー領域」に属する、そしてその領域は政府が立ち入ってはならないもの、という基礎の上で中絶を合法化している。
 選択の枠組みは、フェミニスト研究者や性と生殖活動家から、はなはだしく不十分、と広く批判を受けてきた。つまり、利用できる資力をすでにもっている者のみが自由な選択を行うことができる、個人主義的、消費主義的、資本主義的枠組みに基づくもの、という批判だ。換言すれば、プロ・チョイスの枠組みと言葉は、周辺化された人びと――非白人の貧しい女性のような――が中絶医療を求める中で経験する辛苦を十分に考えることができていない。
 重要なことは、選択の枠組みは必ずしも中絶の権利擁護者のために枠組みを明確にしたわけではない、ということを思い起こすことだ。
 歴史家のリッキー・ソリンジャーは、中絶合法化を求めた唱道者たちは1960年代後半から同70年代はじめ、安全な中絶利用を表すために、主として権利という用語を使用した、と指摘している。しかしながら唱道者たちは、この運動を主流的な市民の好みにもっと合うようにする目的で、選択の言葉を使い始めた。それは、個人の消費と決定に関する支配的な資本主義的議論にもっと沿っていたのだ。
 その上、何人かのプロ・チョイスの戦略家たちは、権利というよりもむしろ消極的なものとしての中絶に焦点を絞ることを選択した。つまり、国家からの積極的な支援と資力を正当とする行為ではなく、政府の干渉から自由であるべき行為としての中絶、ということだ。この戦略は、周辺化された諸個人が容易に利用できる中絶医療提供者や医院を見つけることに諸々の困難を抱える、という状況を生み出した。
 政府の干渉からの自由に焦点を当てる主張は、「大きな政府」からプライバシーを守ろうと追求したリバタリアン有権者の支持を獲得する点では有益だった。他方それは、中絶の権利運動の余地をかなりの程度限定することになった。
 第1に、同じリバタリアン的主張は、中絶サービスに対する連邦資金投入を否認するハイド修正のような、反中絶政策の正当化にも利用できた。第2に、資本主義市場における干渉からの自由は、全員にとっての安全な中絶の平等な利用を保証しない。

選択の枠組みが見落としたもの

 ソリンジャーが力説するように、国家と公衆により正統だと思われている中産階級の女性だけが、選択の権利をもっているのだ。たとえば「シスターソング・ウーメン・オブ・カラー・リプロダクティヴ・ジャスティス・コレクティヴ」の執行代表であるモニカ・シンプソンは、「プロ・チョイスであるためには、あなたにはさまざまな選択ができるという特権がなければならない」と書いている。
 実際、多くの性と生殖の正義活動家と研究者は、次のような指摘を行ってきた。つまり、貧しい非白人の女性とトランスの人々は、彼らの多くが適切な公衆衛生ケアを受ける術を欠いているために、同じ生殖の選択肢を与えられていない、と。「ロー」がなお正規である中でも、中絶に関する度を増す諸制約とハイド修正が、周辺化された人びとに対し、合法的中絶を受ける余裕を与えることを、またそれを利用することを、極度に難しくしてきた。
 つまりプロ・チョイスの枠組は、中・上流階級のシス白人女性が行使するのと同じやり方で選択権を行使する資力をもっていない、そうした周辺化された人びとの生活を深く考えることができていないのだ。
 プロ・チョイスの枠組みと言葉は、中絶の利用を政府の干渉から自由であるべき消費主義的選択として個人化することによって、諸領域にまたがる不公正のさまざまな型、を曇らせている。たとえばロレッタ・ロスのような性と生殖の正義活動家たちは、子どもをもつかもたないかという人の生殖の選択は常に、政治的かつ社会的な力学のある種複雑な網の目内部に埋め込まれている、と繰り返し述べてきた。
 選択の議論は、人には妊娠をやめるために中絶を利用する選択権があるかどうかにのみ焦点を当てているが、性と生殖の正義の枠組みは、もっと幅広い問題群に関わっている。つまり、妊娠している者は、保証されている中絶医療をを受ける余裕を得ることができ、それを利用できるのか? また、妊娠している者は、他の方法では子どもを育てる資力を確保できないと思われることが理由で、今中絶を求めているのか?
 もしそうならば、子どもをもち、安全な環境で親になるために、この者はどのような社会的サービスや資材を必要としているのだろうか? 妊娠している者と彼らのコミュニティは、非強制的な避妊と包括的な性教育を受ける術をもっているのだろうか?
 ある者が中絶を利用できないとすれば、特に米国内での母親の公衆衛生の結果におけるとんでもない人種的な不均衡を前提とした時、彼らは妊娠と出産の中でどのような健康上のリスクを経験するのだろうか? 単純に言って選択の枠組みは、体系的な生殖の不公正に導いている社会的・政治的網の目に取り組む点で、はなはだしく不十分なのだ。

生殖の抑圧は多様な抑圧の交点

 人々の中絶の権利を保護する点においてそこには現在の不十分性があるとしても、その「ロー対ウェード」を逆転することは、現存の不公正と周辺化をもっとひどくするだけだろう。
 性と生殖の正義の研究者と活動家たちは早くから、非白人の貧しい民衆が中絶の犯罪化、資金的障害、また現システム下の否定的な公衆衛生上の結果にもっとも直面しそうである以上、彼らがもっとも過酷な打撃を受けることになる、と警告してきた。
 それゆえこの決定的な情勢においてわれわれはもはや、限界のあるプロ・チョイスの話しに甘んじていることはできない。われわれはむしろ、性と生殖の抑圧を「多様な抑圧の交点の結果」と理解する性と生殖の正義という枠組みを通して組織化しなければならない。
 「ロー」の逆転を待つ間に、多くの州はすでに中絶に関する制限法を採択し終えている。もっとも悪名高いものはテキサス州の法であり、それは、ほとんどすべての条件における中絶を禁じ、禁じられた中絶の実行で「助力と教唆」を行った全員を犯罪者にしている。
 いくつかの州は、中絶禁止に加えて、堕胎法を通して妊娠から生まれるさまざまな結果をも犯罪にした。つまり、そのほとんどが非白人の女性である妊娠した人々が、流産という結果になったメンタルの病気、薬物常用、さらに諸々の事故(たまたま階段から転げ落ちた、また腹部を撃たれた、というようなことを含めて)、を理由に起訴されてきた。
 これらの警察行為の支持者はしばしばプロ・ライフであると主張しているが、このラベルは、中絶の犯罪化によってそこなわれる多くの周辺化された民衆の命を覆い隠している。
 さまざまな抑圧、アイデンティティ、権力関係に方向を合わせれば、性と生殖の正義は連合を内包する枠組みであり、それは活動家に、身体の自律性と全員のための生殖の自由を達成するために、さまざまな社会運動と共に組織化するよう求める。
 性と生殖の正義の拡大鏡レンズを通して見られる時、大量投獄、犯罪化、体系的レイシズムといった諸課題はすべて、性と生殖の正義に力を貸す鍵を握る要素だ。性と生殖の正義活動家は、子どもをもたない権利に加えて、人々の子どもをもつ権利、そして安全な環境の中での親になる権利のためにも闘っているのだ。それゆえ、中絶禁止下における非白人民衆の犯罪人化と投獄もまた、性と生殖の正義が抱える差し迫った問題でもある。
 社会的不公正――貧困、生殖の公衆衛生ケアさらに教育のような――が原因で、黒人女性の中絶率は白人女性のそれのおよそ5倍であり、中絶を受けている人々の60%は非白人民衆だ。
 中絶禁止は、非白人コミュニティ内部で望んでいなかった妊娠を妨げるために必要な財と支援を提供するというよりもむしろ、以前から非行者あるいは性的な逸脱者としばしば思われている個人を犯罪人にする。そして過去の研究はとうに、度を高める犯罪化が釣り合いを失するほど非白人民衆に悪影響を及ぼす傾向がある、と示してきた。
 「ロー」が逆転されるならば、中絶を求める非白人民衆を高い比率で抱える多くの州で、中絶は違法となるだろう。つまりそれは不可避的に、貧しい女性と非白人民衆の犯罪人化と投獄に導くことになる。

守られているのは誰の命か?


 性と生殖の正義研究者たちがこれまで論じてきたこととして、投獄と犯罪化は性と生殖の抑圧では鍵となるエンジンだ。投獄された人々は身体の自律性をもっていず、子どもをもつ権利を行使できないからだ。米国の刑事司法制度はこれまで、投獄された人々に強制避妊と不妊化を施した、という長い歴史を抱えてきたのだ。
 貧しい黒人と褐色の肌をもつ人々が不釣り合いに多く投獄されている以上、このあさましい行為は、「不適当な」また「望ましくない」人々の生殖を妨げるレイシズム的優生学の論理を永続化させる。それゆえ犯罪化と刑務所産業(米国では、刑務所も私企業化されている:訳者)複合体は、性と生殖の正義から分離されてはならない。
 性と生殖の正義と刑事司法制度間の結びつきは、プロ・チョイス枠組みには調和していない。それが、生殖に関する決定は個人的選択の問題ではなく、むしろシステムと政治の問題だ、と露わにするからだ。より拡大鏡的で諸領域にまたがるレンズを通してはじめてわれわれは、刑務所廃止運動と中絶の権利を求める運動を貫く連合建設の必要を理解できる。
 廃止運動活動家たちは、収監された人々――特に非白人民衆――が彼らの市民的自由、政治的自由、さらに身体的自律性をも失っている以上、刑務所産業複合体と犯罪化は社会的な死に導いている、と力説してきた。
 皮肉なことに、「プロ・ライフ」の旗の下で、多くの周辺化された民衆とコミュニティは差し迫った迫害と社会的な死に直面しようとしている。「プロ・ライフ」の唱道者は、生殖の課題に対する刑事司法の介入を求めることで、彼らが周辺化された人びとの命を保護する価値があるとは見ていない、とはっきりさせている。
 たとえばアンドレア・スミスは、「プロ・ライフ」の立場は言われるほどは命への傾倒を表現しておらず、「むしろ、性と生殖の正義の諸課題に対する刑事司法の介入への熱中」を表現している、と指摘している。われわれは、性と生殖の正義の諸領域にまたがるレンズを通して、「プロ・ライフ」の立場に内在するちぐはぐさと矛盾をもっと明確に断言できる。
 「プロ・ライフ」論は、中絶や流産の犯罪化のほかに、妊娠を予定日まで到達させ、子どもを誕生させることが、妊娠を中断させることよりも統計的にもっと危険がある、という事実をも除外している。黒人の女性は、産科のレイシズムが原因で、社会階級や教育水準を調整した後でさえ、白人女性よりも今も3倍から5倍子どもの死に会う可能性がある。「ロー」の逆転と中絶禁止は、人々に誕生を強要することで、黒人女性の命を使い捨てにしているのだ。

全員にとっての生殖の自由を


 リークされた「ロー」に関する最高裁判決は公衆に、合法的な中絶への権利を守ろうとの刺激を与えることになった。しかしながらわれわれは性と生殖の自由活動家として、もっと拡張的で包括的な、そして諸領域にまたがる運動の組織化に至らないまま立ち止まってはならない。「プロ・チョイス」Vs「プロ・ライフ」の枠組みと言葉は、内容が乏しいだけではなく、非白人民衆に対してはむしろ有害さに力を与えている。そして非白人民衆の経験は、しばしばどちら側からも十分に考えられていない。
 性と生殖の正義枠組みは、さまざまな社会的・政治的な諸課題がどのようにして性と生殖の不公正に力を貸しているかについての、もっと説得力のある分析と明言を考慮に入れている。われわれは今かつて以上に、連合の建設を後押しする枠組みの組織化を必要としている。中絶を利用する権利――およびもっと幅広い性と生殖の自由――は、まさに多数の命を長らえなくさせている他の政治的な諸力からは分離できないからだ。(「アゲンスト・ザ・カレント」)

▼筆者は、ケンタッキー州立大学の、文筆、修辞、デジタル研究の助教授。(「インターナショナルビューポイント」2022年7月4日) 

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