スペイン ポデモス

闘争を牽引する党か、それとも
上からのポピュリズム的操作か

労働者民衆の行動的参加の回路は欠かせない
アレックス・メルロ

 スペインのポデモスは、世界の特に左翼的な人々から期待を込めて注目を集めた新しい政党運動だ。その初期の発展にはスペインの同志たちも大きく貢献したが、連立政権参加を機にその同志たちは今この運動と決別している。以下は、この経過を踏まえたスペインの同志によるポデモス運動の総括だ。欧米のブルジョア民主主義がおしなべて行き詰まりを見せている中で、人民主権という民主主義の真髄をどのように実現するか、が今実践の問題として問われている。ポデモスは、いわばそれに関わるひとつの実験と言えた。その点でポデモスの軌跡の検証には重要な意味がある。日本との関係では、れいわ新選組に関する議論にも貴重な示唆を与えると思われる。それらの議論に向け以下に紹介する(「かけはし」編集部)
 スペインの怒れる者の運動から現れたひとつの組織であるポデモスの軌跡は、フランスの急進的左翼のあり得る軌跡にいくつかの示唆を与える。ポデモスはひとつの政治勢力として、始めから政治路線を論争し合ったさまざまな傾向を抱えた、したがってまた永続的な危機の中に置かれてきた、極めて矛盾した現象だ。それゆえそれはしばしば、外部の観察者によって非常に対立的な形で受け取られている。つまりある者にとっては、議会内で機能しているある種の政党運動の1例として、また他の者の場合は、指導部グループを軸に高度に集中化されたメディアでの活動としてだ。
 真実は、ポデモス内部にふたつが共存したということであり、これらふたつの実体間の創造的緊張が部分的に当初の成功を説明した。しかしふたつの「魂」は、非常に不均等な死にいたる戦争を戦い、それらのうちのひとつにとっては、また元々の構想にとっても敗北で終わった。

諸決起背景に強い内部矛盾抱え


 ポデモスは、2011年の怒れる者の運動の出現で始まった社会的闘争の1サイクル後に、2014年に登場した。民衆的決起からなるこの歩みは、住民の大きな部分が主要な二大政党との決裂を進めていた、そしてそれは2008年の危機後に展開していた経済諸政策に対する拒絶を表現した、ということを指し示した。
 諸決起の世界的なサイクルの一部であったこの運動はまた何十万人という民衆に、参加および政治的、社会的行動の新しい諸形態、に基づいて実験することを可能にした。その諸形態とは、広場の占拠、民衆総会、表現と組織化の手段としてのソーシャルネットワーク利用、その他だ。
 われわれはまた、幅広い民衆的支持を得たスローガンや要求の出現をも経験した。すなわち、腐敗反対、新自由主義経済政策反対、政治システム刷新支持、教育や公衆衛生を含む公共サービスの防衛、などだ。
 ポデモスは、この運動に選挙上の政治的表現を与えるという目標を自らに設定した。しかし、それがしばしばこの運動の放射物として受け取られたとはいえ、事実としてポデモスは怒れる者の運動に有機的に結びついたことは1度もなく、それはむしろ、反資本主義左翼(現在はアンティカピタリスタ)と連携してこの構想を船出させた活動家の小さなグループの主導性から生まれた。

 2014年1月の当初のポデモス発進は、2011―2014年の闘争との連続性の中で社会の多数の声を政治の分野に聞き取らせることを意図した市民の主導性として現れた。したがってそれは、全政党とは異なったひとつの組織として、選挙という関係の中でもある種の直接民主主義を可能にする水平的機能をもつ1種の民主的なツールとして現れた。ポデモスは、新自由主義および1978年憲法体制との決裂というはっきりした急進的綱領と共に、当時のもっとも人気のあるスローガンを取り上げた。
 「サークル」あるいは自主管理の基層委員会の形成、底辺からの選挙キャンペーン構築という呼びかけは、注目すべき成功となり、極度に限定された財源の下でのかなり大々的なキャンペーンの発進を可能にした。ポデモスの成功はまた、そのスポークスパーソンであったパブロ・イグレシアスの人気も基礎になっていた。そして彼は、最初は彼自身が組織した、次いで右翼メディアのゲストとして、テレビ放映された政治論争への参加により有名になった。イグレシアスの人気は、民衆が容易に一体視できる構想に、可視的な外観を与えることを可能にした。
 しかしながらこの側面は同時に、ひとりの人物を軸にした将来の組織の集権化という危険ももたらした。実際イグレシアスと彼の周辺の者たちは、メンバーの大衆による電子投票によって採択される公式の決定策定過程に対して、全面的な統制を確保するためにそれを利用した。最初から、党員費を払うことさえなく、あるいは会議に出席することさえなくポデモスに加わる可能性が、この構想に関心をもった何十万人という人々に近づくことを可能にした。しかしこの大量の党員はまた、サークルに組織された活動家の基盤よりはるかに幅広く党の基盤を創出したものの、それは、党建設論争では活動も関与もはるかに小さいものだった。

創立大会―ふたつの魂の衝突


 これらの矛盾は第1回大会の準備の中で、あるいはポデモスの言語にしたがえば「市民総会」の中で爆発した。組織形態に関する論争は、一定程度の集中制と効率性を伴う急進的な民主制を可能にする新しい勢力をいかに建設するかに関し、さまざまな提案を引き起こす。アンティカピタリスタは、多様な考えをもつ地方グループを連邦化しつつ、しかし民主的な活動家勢力という共通の構想によって生気を与えられるものとしてこれらの提案を止揚しようと、数多くの他の人々と共に奮闘した。
 これに対抗してイグレシアスは極めて単純な戦術にしたがった。つまり彼は、基層の総会からあらゆる役割を取り上げ、電子投票により行われる地方評議会の選出では書記長に無制限の権力を与える、このように設計された組織システムに基づく強硬な立場を提起した。彼の議論は、票決が近づき、その結果が不確実に見えるにつれ、単純な恫喝へと切り縮められた。つまり、このシステムが認められなければ、彼は将来の組織ではスポークスパーソンから降りるだろう、と。
 これらふたつの提案が大会で衝突した。対面の会議ではものごとは対等に見えたものの、最終決定はポデモスが当時(2014年11月)確保していた数十万人のメンバーによるオンラインで行われた。イグレシアスの構想が採択された。内部的な全員投票によりその方向を承認される形で執行部が比例を失した力をもつ、そして上から建設され事実上は存在しない中間組織をもつ、そのような党の構想だ。
 この大会は、イグレシアスの演説の中の、対案の立場を攻撃するために彼が使用した章句、「天界は総意では獲得されず、攻撃で獲得される」、で思い起こされるだろう。急速な(選挙での)勝利という見通しを基礎に、ほとんどのポデモス活動家に生気を与えた包括的な審議を重ねる過程に反対して、内部に自らを押しつける指導者の権威が呼び出された。それはまた、怒れる者の運動の精神との断絶でもあった。まさにその運動は、プエルタ・デル・ソル広場(マドリードでもっとも有名な広場のひとつ:訳者)のスローガン、「われわれははるか先まで進むのだからゆっくりと進む」で表現された、水平的で総意を求める手法に特権を与えたのだった。
 論争のこれらの手法は非効率と欲求不満に導いたがゆえに、決定を策定する唯一の手段としての総意原理はしばしば総会の中で、幅広い多数決の手続きで置き換えられてきた。しかし、イグレシアスが提起したポデモスの精神は、このすべてとの徹底的な断絶だった。世論調査での好結果によって説得力をもたされた、総選挙での早急な勝利を得るという目的に基づき、「選挙戦機構」という選択が行われた。そしてそれが、審議を重ねるまた包括的な過程すべてを完全に排除した。
 事実として、創立大会後の党建設は、自主管理サークルとそれらの活動家に対する猛烈な闘争、および事実上上から選抜され電子投票により批准される地方「評議会」によるそれらの置き換え、を必然的に伴った。サークル敵視のこの闘争はしばしば、基層総会へのわれわれの浸透に関する、半分本気で半分偽りの病的疑い深さに基づいた、アンティカピタリスタに対する戦争を背後に隠していた(サークルにとっては幸いだったが、サークルはわれわれよりもはるかに大きく、われわれには、それらに地方的に影響を及ぼす上で極めて限られた手段しかなかった)。
 ポデモスは、書記長と彼の側近から発するあらゆる力に基づくその議会と制度の機構に焦点が絞られた、いわば空の殻へとすぐさま形を変えた。数年後イグレシアスはサークルを殺したことの「過ち」を認めた。そして彼らは、活動家の参加を備えた党組織の再建に挑んだ。しかし新たな力を創出する可能性は、そしてそれはもっとも活力があり躍動的な部分を統合すると思われるが、長い間浪費されてきた。

アンティカピタリスタの役割?


 創立大会の苦い結果は、アンティカピタリスタにポデモス内での自身の役割について再考を迫った。ポデモスは、根底的に民主的で戦闘的な党運動として、われわれが想像していた新しい力に似たものをまったく生み出さなかったのだ。しかしながらわれわれは、党に留まることを選択した。その基礎は、ポデモスがスペイン政治の中で果たし続けている進歩的な役割、この新しい構想への何百万人にも上る労働者の期待、そしてスペインの政治的、経済的システムと決裂する必要性に関する、また改憲運動の必要に関する、指導部との一定の合意だ。
 そのような歩みにはどのような形態が必要かに関し、われわれはまったく異なった考えをもっていたということ、またこのような戦略的な相違がどこかの時点で決裂に至るであろうこと、それはわれわれにはっきりしていた。しかしわれわれは、われわれの考えと手法を聞き届けられるものにしようと挑みつつ共に活動を続けることを選択した。
 新組織の内部民主主義の欠落は、その内部での参加と独立した革命組織としてのわれわれ自身の建設を組み合わせる必要を、われわれにさらに明らかにした。そして後者の建設は、われわれ自身の政治的相貌、およびポデモスとの関係における、財政的自律を含む全面的な自律性、さらに諸選挙に提出されたリストへの参加によって得られた制度的な地位、に基づくものとされた。
 イグレシアスと彼の追随者が社会党との連立政権に加わった2020年はじめ、われわれは最終的にポデモスから離れると決定した。われわれは、ポデモスは決裂の構想を体現できなくなったと事実上示した、諸大衆が理解できる歴史的変曲点の時を待機したのだ。アンティカピタリスタは、この経験から、数的にまたこの戦闘を統一的に導いてきたという経験の双方で、結果として強化された。

民衆的動員でのポデモスの功罪

 議会制度へのポデモスの侵入は、被選出代表の全般的な刷新を可能にした。それは、ラホイ首相(当時の、現首相は社会労働党のペドロ・サンチェス:訳者)がぼーっと見つめる前でのドレッドヘアの議員(イグレシアスを指すと思われる:訳者)という有名な映像で例示された。これら新議員の何人かは、元々は社会的闘争の代表、あるいはそれらに結びついた左翼活動家だった。これは疑いなく、公共サービスを求める、あるいは移民の権利を求める、労働者の諸闘争やフェミニストのより大きな可視性に余地を与えた。こうして彼らは、自らの声を諸制度の中に届けることができた。
 しかしながらポデモス指導部の戦略は、委任という強力な原理を基礎としていた。そしてその原理があらゆる活動家の努力を選挙のレベルへと移し、あらゆる期待を指導者の重要性の上に置いた。そしてその指導者は、議会代表となり、次いで政府の代表者になっている。ポデモスのこの強化はそれゆえさらに、大きな動員解除と諸闘争のサイクルにおける終止に力を貸すことになった。
 ポデモスの連立政権への統合は、この現象を際立たせたにすぎない。ポデモスは、政府内部の合意が原因で自律性すべてを失うや否や、代わりとなる声を代表する能力さえ、また社会的闘争や社会的運動から発する変化に対するもっと急進的な期待を表現する能力さえ、さらに小さくしている。

▼筆者はスペインのアンティカピタリスタ(第4インターナショナルの支部)のメンバー。(「インターナショナルビューポイント」2022年8月2日)   

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