フランス 深い危機の中の課題
結果予測できない不安定さ前に政治的な戦線統一に全力投入を
運動は政治的転換の追求に進む必要がある
レオン・クレミュー
フランスははっきりと社会的危機と民主主義の危機を通過中にある。これらふたつの危機は論理的に、体制の危機を映し出しているとさえ言ってよい。つまり現在の政治的諸制度に依拠することで正規のやり方で権力を行使し続けることの、支配階級の、資本家階級の無能力だ。
これは、われわれが革命的危機へと、あるいは前革命的危機であってもそこへと入ったという意味ではなく、その結果がほとんど予測できない社会的で政治的な不安定さの局面に入っているという意味だ。そうしたものとしてそれは、一連の政治的な問題と矛盾を提起している。
紛れもなく全体的な反乱がある
票決なしに政府がひとつの法令を力づくで国民議会を通過させることを許す憲法49条3項を含むいくつかの制度的な指令を用いた64歳への退職年齢後ろ倒し、に対する大々的な拒絶、疑いなく前例のない規模での民衆的決起の長期化、これらは社会的危機の明白な表象だ。それは、64歳退職の問題を軸にこの運動がもっと深い危機を結晶化しているがゆえの、諸々の現れにほかならない。
民衆諸階級は数カ月の間、インフレの結果によって、全般的な生活費の、特に食糧とエネルギー価格の上昇によって、新型コロナの作用によって攻撃を受けてきた。これらに加えて、公衆衛生システムや公的住宅の悲惨化、日々の生活の困難、低所得、安定した雇用、交通、子どもの学校教育、また高齢者ケアなどに関わる諸問題に導いた長期の攻撃がある。これらの困難すべてが、小さな周辺的な町におけるとまさに同じに民衆的居住区の中で実体験されている。それらすべては、直接には賃金を通じて、間接的には義務的な賦課と再配分を通して、民衆階級向けの付加価値の取り分をさらに切り下げようとの資本の意志を映し出している。
これらすべての日々の生活の懸念が、たとえ年金が結晶点であり、労組間共闘が単一の基礎だとしても、1月以後のデモの中に反映されてきた。マクロンの法に対する拒否の堅固さは、現在の運動内に見出される怒りすべてを深く考えなければ理解不可能だ。したがって、ストライキやデモに対する、また封鎖までもの支持の尽きない人気を決定しているのは、全体として、民衆諸階級の生活条件なのだ。
マクロンの政治的孤立は明白に、この社会的現実に対応している。彼が、生産された富が資本家階級の利益のためにぶんどられている社会を代表しているからだ。そして資本家階級の富は、それが所有している企業を通じて、あるいは他の資産を通じて、この何年も増大を続けてきたのだ。
家計の5%が産業資産の95%を所有している。マクロンが相対的な支持を見つけているのは、資本家それ自身は別として、賃金労働者層の上層、管理者、自由主義的専門職の一部の中だけだ。そしてこれらの者たちは、かれらの繁栄を資本主義システムに結びつけ、新型コロナからはほとんど苦しみを経験せず、かれらの生活水準の中でインフレの攻撃も受けず、退職年齢引き上げに関し何の怖れももっていないのだ。年金に関する分裂ははっきりと階級的分断にほかならない。つまり年金決起は、かれらの賃金あるいは社会的所得ではじめて生きることができる、また社会的保護やあらゆる再配分システムへの攻撃で苦しんでいる者たちを結集しているのだ。
政治的表現が限定されている
われわれは、1月以来全国労組間共闘を軸に固められた統一がこの運動とその活力の建設を、特に普通は社会運動での決起がより小さい小さな町で可能にしてきた、と言うことができる。しかしこの労組間共闘は、それが現在まで全労組を結集してきたとはいえ、その統一を維持するために、唯一の統一の基礎として、64歳での退職という方策の撤回要求に自らを自発的に限定してきた。それゆえ言われてよいことは、全体的で完全な労組と労働者運動の政治組織の統一戦線がこの国で、運動を反映しそれを強化しつつ建設されてきた、ということだ。
しかしすべての者がまた理解していることは次のことだ。つまり、労組間共闘基層のこの必須的自制(CFDTが2014年のトゥレーヌ改革〈当時の社会党政権における社会問題相の名前にちなむ:訳者〉と43年満額年金への段階的移行を支持したことを忘れないようにしよう)は、この運動が客観的にその深さと急進化に対応する政治的な場を占めていないことを意味している、ということだ。問題は、デモに決起している人々、ストライキや封鎖を行っている活動家、何百というデモへの参加者がこの運動の底にある要求すべてを表現していないということではなく、労組間共闘の自制が政治的段階への通路を狭めているということなのだ。
客観的に、運動は権力に、資本家階級と諸政党による社会の組織化に異議を突きつけ、主な社会的要求を押し出している。それは、年金改革という問題では敗北を喫した(明日その押しつけに成功するとしても)支配階級の知的、政治的ヘゲモニーを弱めている。しかし運動は、もうひとつの政策を、労働者階級の利益になる別の社会的選択肢を集団的に前に進めるためのそれ自身の政治的表現をつくり出していない。
この点でわれわれは、労組間共闘の要求内容は意識のレベルの反映ではなく、そこからはるかに遅れている、と言うことができる。他方で運動は、労組間共闘をあわてさせることができるそれ自身の構造を生み出す強さをもっていない。
搾取された者の統一の達成を
革命的マルクス主義者は似たような情勢に、しばしば別のレベルの衝突の真ん中で、革命的あるいは前革命的な危機の中で、何度もぶち当たってきた。1920/21年の第3・4回大会における、共産主義インターナショナルによる統一戦線戦術と「労働者政府」スローガンの勧告励に関する練り上げは、この関心事を反映している。
統一戦線戦術は、搾取される者の最も幅広い統一が始動態勢に入ることを可能にしなければならない。これは、諸労組と諸政党の算術的な合算を意味するのではなく、基本的な要求を起点に、また集団的行動を通して、決起、闘争、意識の前進、資本家のヘゲモニーに対する疑問突き付けを意味する。
この点で、統一戦線の具体化における、物質的にまたイデオロギー的に資本主義の新自由主義政治に結びついた改良主義諸組織との連携は、逆説的だが統一達成には必要だ。しかしこれは、行動それ自身を犠牲にするものであってはならない。トロツキーは「ファシズム―それは何でありそれとどう闘うか」の中で「歴史の難問は、階級闘争のさまざまな段階にある残存の諸組織すべてを機械的に統一することではなく、プロレタリアートを闘争の中で、また闘争に向けて結集することだ」と説明している。
1920年代の始め、危機的情勢の中心で共産主義者が直面した難問は、いくつかの先進資本主義諸国における重要な諸々の社会民主党との共存という問題、特にドイツにおけるそれ、そして革命的な政策を練り上げることだった。その目的はまさに、運動を、始動するプロセスをつくり出し、諸要求をめぐる闘争を起点に搾取された者を統一し、革命的な衝突へと導くことだった。
諸々の社会民主党との統一を追求することは逆説的だった。共産主義者は第1次世界大戦、ロシア革命、また1918/19年のドイツにおける革命的な危機の中で、それらと分裂したばかりだった。「もしわれわれが、改良主義の諸組織や諸政党や諸労組を無視して、われわれの旗の周りに、あるいはわれわれの現在のスローガンに基づいて勤労諸大衆を統一できていたとすれば、それは確かにもっとも良いことだと思われる。しかしその時、統一戦線の問題は現在の形で持ち上がることもないだろう。改良主義グループはブルジョアジーと和解しがちだ。しかしそれも、労働者への影響力を失わないためには、その指導者たちの深部の意志に逆らって、搾取する者に対決する搾取された者の部分的な運動を支持することを迫られる」、トロツキーはトゥール大会の1年後の1922年、フランスの共産主義者にこう語った。
「労働者政府」要求の再生へ
当時、共産主義インターナショナル(CI)の諸大会は「労働者政府」の問題を論争した。1921年12月の国際委員会、次いで1922年11月のCI第4回大会はこの問題を詳しく検討し、CIの戦術に関する決議は的確に「労働者政府のスローガンは統一戦線戦術全体の不可避的な結論だ」と説明している。統一戦線戦術によって可能にされた被搾取者と被抑圧者の運動の中で、その結論は、ブルジョア国家との衝突からなる革命的な綱領に基づく労働者政府だ。
それゆえ同決議は、共産主義者と社会民主主義者間の連携を映し出す可能性のある「労働者政府」のさまざまなシナリオをリスト化し、特にオーストリアの自由主義的労働者政府、あるいは英国におけるような社会自由主義の政府に反対するよう警告している。その両者とも、「ブルジョアジーと反革命的な労働者の指導者間の連合として偽装された政府」にすぎないのだ。
しかし同大会は、ブルジョア国家との衝突を組織し、革命的任務を果たし始める政府への共産主義者の参加はあり得ると思った。よく知られた例は、ザクセン州とチューリンゲン州においてKPD(ドイツ共産党)―SPD政府を構築するという1923年1月のKPDの、フィッシャー―マスロウの左翼反対派から妨害された決定だ。
その後グラムシがヘゲモニーに関し練り上げたものの延長として、被抑圧者と被搾取者は市民社会の中でブルジョアジーによって行使される政治的、文化的ヘゲモニーを壊さなければならないというこの考えを、労働者政府のスローガンは、代数的にあるいはもっと具体的な形で、宣伝や実際的な情勢の中で翻訳できるように見える。ちなみにブルジョアジーのそのヘゲモニー行使こそブルジョアジーに、経済分野や威圧的な政治的国家を超えてその権力を完全なものにし、社会や諸労組や教会や諸政党などを構造化する諸制度内のヘゲモニーによって自身を正統化することを可能にしている。
闘争からなる運動の中で新たなヘゲモニーを、被搾取者と被抑圧者のそれを創出することはそれゆえ、社会全体に向けた構想をはっきり主張し、民衆諸階級の必要と民主的闘争および抑圧に反対する闘争の要求の満足を起点に資本主義に疑問を突き付け、高圧的な国家に立ち向かい搾取に取り組むためにそれをはっきり主張するひとつの挑戦課題だ。
被搾取層と被抑圧層の力今こそ
これらの任務は、革命的な白熱の年月だった1920年代始めに共産主義者によって練られたことがある。しかし再度、年金闘争とそれが提起する諸問題の全体構図は、統一戦線戦術の重要性、および被搾取者と被抑圧者の政府というスローガンの場の両者をはっきり示す可能性がある。前者については、その駆動力は社会的要求のその基礎を拡大しなければならないということの理解として。後者については、この場合それは何よりも、現在の制度的枠組み内の代表によってではなく、社会のあらゆるレベルで自らを組織する自身の能力によって、権力に向けた候補者として立候補する労働者階級の権利の積極的な表明を意味すると思われる。これは明白に、搾取と抑圧に対決して行動する闘争すべてを資本主義への反対として結集する能力と一体的に進む。
この運動の中で表現された多くの要求は、3ヵ月間この闘争に生気を吹き込み続けてきた諸組織や活動家を結集している諸構造としては具体化されていない。その結びつきは、退職年齢64歳の問題を軸に結晶化したとはいえ、それに切り縮められない社会的懸念との間につくられてはいない。要するに、政治用語を使えば、この運動は現実に労組諸組織の戦線を、ひとつの大衆反乱を達成したが、この運動内の要求を表現する政治的エネルギーを結集する諸構造を欠いた中でのことだ。
4年前より小さな数で似たような怒りを、また賃金労働者の最も不安定な層を特に田舎で、また周辺的な地域で結晶化して見せつけたのは黄色のベストだった、ということを思い起こそう。怒りと要求は同じだった。
「われわれは生活費の高さと不安定さと悲惨さに反乱している。われわれはわれわれの愛する者たち、家族、子どもたちが尊厳の中で暮らすことを欲している。26人の億万長者が人類の半分に相当するものを所有している。これは受け入れられない。悲惨さではなく富を分かち合おう! 社会的不平等に終止符を打とう! われわれは、賃金、社会的最低基準、諸手当、年金の即時引き上げ、教育や医療、教育、全員のための無料の公共サービス……に対する無条件の権利を求める。われわれは、われわれの討論の多様さによって強化され、まさにこの時、何百という総会が発展中であり、それ自身の要求を提案中だ。それらは真の民主主義、社会的かつ財政的公正、労働条件、環境と気候の正義、そして差別への終止符、に影響を及ぼす!」(コメルシー〈フランス北東部ムーズ県の人口5000人ほどの基礎自治体:訳者〉総会の総会)と。
それは社会的にも、明白に搾取者を標的にした、現在の諸決起でデモ参加者が行っているような、ひとつの階級反乱だった。われわれはこの社会的怒りを、家賃やエネルギー価格に関係する公的住宅企業に反対する地方の闘争の中に、差別、高失業率、公共サービスの消失、交通困難に苦しんでいる都市周辺部の民衆地区の人びとの中に見出す。
それはまた、今年3月8日のフェミニストストライキに向けた幅広い統一呼びかけの中にも見出すことができる。「今も4分の1低い賃金、そして低賃金とパートタイムの職への集中として、ますます多くの女性が帳尻を合わせることができずにいる。この政府と雇用主たちは、差別する企業を罰する代わりに、賃金や年金を引き上げ、ジェンダーに基づいたまた性的な女性に対する暴力と闘う代わりに、暴力と不公正な年金改革を押しつけたがっている」と。
「2021地球蜂起」のアピールもまた、この民衆的な怒りを表していた。すなわち「それ(前記の怒り)は、生態的破局に反対して反乱している若者たち、および農地を市場にすることを拒否する農民たち……を結集している。資本主義市場とその諸制度は、共有地を囲い込み私有化した後、今や生物多様性の破壊、気候変動、そして社会的原子化を促進している」と。
前にあるのは正統性失った統治
現在の社会的怒り、ストライキ、デモはそれゆえ、これらあらゆる社会的要求の産物だ。計り知れない多数が、制度的な正統性に、大統領の選出を可能にした「民主的な」制度に、国民議会によりかかっている体制に立ち向かっている。さらに、それらの支配でもそれ自身では十分ではないかのように、議員たちがかれらの選挙区内で受ける圧力を逃れて、体制が多数の不在――大統領多数を保証するよう設計されたシステムの中での――を逃れることを可能にするあらゆる法的なずるさまであるのだ。
したがって、先の社会的疑問には明白な民主主義の疑問が加わっている。つまり、有権者の20%の賛同しか受けていない大統領と、この有権者の11・97%の同意しか受けていない議会少数派が、住民の圧倒的多数により拒絶された法を押しつける正統性を主張するような傲慢さをどうすればもてるのだろうか、と。
この社会的危機と民主的な危機という二重の情勢が、ひとつの直接的な政治的疑問を提出する。年金改革に反対してストライキと街頭を通して自らを表現している人びとの、資本主義システムを標的にする闘いを導いている人びとの必要、熱望、選択をどう押しつけるか、少数派で正統性を欠く体制の面前でその正統性を押しつけることができる力をどうはっきりと主張するか、という問題だ。
極右が運動の失敗を待っている
この方向に動くことはまた、異常な情勢の前では死活的な必要でもある。新自由主義的資本主義から発する攻撃と闘う社会運動、労働組合運動による、また反新自由主義左翼の参加と支援を伴った社会運動、この始まりの3ヵ月後、極右は、現在の社会的危機を大きく利用しようとしているように見える。他方でそれは明白に、資本主義の雇用主の利益を攻撃すると思われる諸方策を求める要求の押し出しは、どのようなものも拒否している。
フランスの極右は、メローニを軸とする「イタリアの同胞」というイタリアの同僚のように、政府による左翼のNUPES連合(新人民連合・環境・社会)の犯罪人視と悪魔視を利用しながら、強力な民衆的反資本主義の駆動力の不在が2027年にそれを制度上のオルタナティブに見せるだろうと期待しつつ、今ひたすら時を待っている。
この極右の孤立化は、民衆諸階級の戦線が建設されてはじめて前進可能になる。必要な戦線は、資本家グループの権力に異議を突きつける諸方策を軸に組織立てられた当代の社会的、民主的、そして環境の要求すべてと年金運動の間にひとつの架け橋を探り出す、労組戦線、政治的で社会的な戦線だ。
そのような戦線の基礎は、社会の分野、フェミニズムの分野、環境やレイシズムの分野で今取り組まれている社会的諸闘争の中に存在している。なぜならば、資本はそれ自身の利益のために抑圧と搾取を組織立て再組織し、全体としての社会内部にその権力を全体化しているからだ。われわれは、グラムシが提起したように、任務が「ひとつのヘゲモニーを破壊し、新たなそれを創出する」ことにあるような時期のひとつの中にいるのだ。
市民社会の中で、支配階級のヘゲモニーが現れ、そしてそれは普通の時には、労働者運動の改良主義指導部の中に同盟勢力を見出している。しかし、このヘゲモニーが社会闘争によって異議を突きつけられる可能性が生まれる時が、被搾取者と被抑圧者の政治的独自性がかれらの諸分裂を克服して現れる時がある。
われわれは、この政治的独自性が、それ自身のヘゲモニーを求める闘いを表現して、自らを主張することも可能なひとつの時期にいる。したがって、建設されなければならないのは被搾取者と被抑圧者の政治的ヘゲモニーであり、それは、それらの社会的重みに対応する――抑圧と搾取に反対する闘争すべてを結集することで――ヘゲモニーというだけではなく、また何よりも、この搾取と抑圧を組織立てているシステムに、資本主義システムに疑問を突き付けることを軸にしたこれらの闘争を指揮することによるヘゲモニーだ。
サントソリーヌでの環境をめぐる抗議行動に対するダルマナン内相の暴力的な抑圧は、年金をめぐる社会的闘争と環境の諸闘争の合流に対する大きな怖れを暗示している。同様にダルマナンとマクロンは、公共サービスやレイシズムや警察の暴力をめぐる都市周辺部民衆地区の闘争との合流を理由とする怖れをありあまるほどもっている。
しかし今これらの闘争の前向きな合流は存在していない。この方向に動くためには、差し迫った社会的要求を軸に社会的かつ政治的な戦線を主張し建設すること、そして民衆的必要を満たすための社会組織を管理する事業、居住区、現場から組織立てられ、被搾取者と被抑圧者によってまたその人びとのために運営されるコモンズからなる社会とはどのようなものになり得るか、を概括することが必要だろう。
闘いに役立つ統一のために
被搾取者と被抑圧者の政府について語ることは同時に、現情勢からはじめて、現在の闘争に取りかかる、つまり社会的闘争を組織する社会的組織と政治組織について深く考えることを意味する。社会的必要を満たす綱領、現行システムと決裂する綱領とは何であり得るかを明確にし、論争するのは、明らかに前述の組織にかかっている。これは、この間の日々の鍵となっている問題に触れる。つまり、現在の相互によく知らないという状態を破壊するための、社会勢力と政治勢力の合流の必要だ。
この運動における現場総会や自己組織構造の弱さがわれわれの前進を止めてはならない。政治勢力との関係での社会運動の不可欠な自律性は、今日そうであるように、両者が今そのために戦闘中の社会的要求と民主的な要求を基礎とした幅広い共同のイニシアチブの不在に導いてはならない。NUPESが基本的に行っていることとは逆に、課題は、社会闘争支援と組にされ、2027年のあるいは解散の際の選挙支持にこれが移されることを待機する、そうした制度的、議会的闘争に限定されない。
「民衆連合議会」(現在休眠状態にある)は広範に開放されるならば、この任務では助けになっていた可能性もあった。これは今こそ、諸政党、労組、市民団体を結集する地方会議や全国会議の具体化によってだけではなく、闘争内部でこの合流を前進させる地方と全国の統一的構造を建設する活動家の共同の努力によっても具体化されなければならない。これは明白に、民主的権利の防衛として、抑圧と極右の行動への対応という課題に関する共通の任務に関係している。しかしそれはまた、年金変更の拒絶を超えて闘争のひとつの綱領の中に共通の社会的要求を集中させる必要にも関係している。社会闘争に意味を、政治的方向性を与え、現在の社会運動がもつエネルギーの中で建設される政治路線を与えることが必要だ。
同様にわれわれは、社会的要求の根拠と民主的な要求の根拠が組になる時代にいる。現在の情勢は、NPAが創立された(そしてそれは黄色のベスト運動の中で再確立された)時われわれが押し出したもののような民主的要求を日程上に戻している。
それは、第5共和制の「行きすぎ」の単純な取り除きを求めて闘うという問題ではなく、一連の具体的な要求を前進させるという問題だ。すなわち「拡張された政治的民主主義は、第5共和制諸制度、そしてその超大統領制と断絶し、大統領機能を廃絶することを求める。それは、完全な比例代表制、選挙区会議の選出、民主主義をさらに没収している上院や憲法評議会のような機関すべての廃止を求めること、あらゆる被選出機関内に輪番制と厳格な任期制限とパリティ制を確立すること、完全な生得権に基づいて居住する労働者の完全な市民権を発展させることだ。これらの新たな民主的な獲得成果は、民主的な諸実践の新たな形態を開発する深く解放的な諸決起なしには考えることができない」と。
選挙区会議のスローガンはしたがってこの課題設定上では明らかに、共和国の別の数字を選べばあたかも国家がその階級的性格を変え得るかのような、もうひとつの共和国への単なる通路としてあるのではない。それは、民衆諸階級の社会的エネルギーを断片化し、色あせさせ、四散させ、妨害する諸制度を壊すという問題だけではなく、はっきりと委任制と闘い、ブルジョア国家を壊し取り除くためのツールである民衆的自己組織化の進展を推し進めるという問題でもある。
この運動は、この方向に進む可能性のある力学の種をもたらしている。運動の現局面の結果がどうあろうと、その種に命を与えるのはわれわれにかかっている。(2023年4月21日)
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