県内市町村の中国での戦争体験記を読む(112) 日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する東風平町(現在、八重瀬町)の宮城さんは、1943年、熊本13連隊(第6師団)に入隊、朝鮮半島経由で南京に渡り、長沙、桂林などを経て朝鮮半島に移動した経緯を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『東風平町史』「戦争体験記」(1999年)
宮城武吉「初年兵として中支へ」
 昭和十八(1943)年十二月二十二日、熊本第13連隊に入隊となった。……独立歩兵第106大隊要員として博多港より中支へ出発した。……
 博多港を出て釜山港へ着くまで朝鮮海峡の辺りまで敵潜水艦が現れるそうで輸送船の甲板で、交代で銃を持って監視を続けた。船酔いがひどくそれどころではない時もあった。無事釜山港に着いた。そこから汽車に乗り、朝鮮国境、満支国境を通過して十二月二十八日南京へ着いた。……機関銃中隊に編入となった。一個分隊十名で八分隊一緒であった。行軍中、古参兵が機関銃をずっと担いでいた。我々は弾薬を担いでの行軍であった。……その時揚子江の水が少なく輸送船が進めなくなってしまい、雨期になるまで待たないといけない状態になった。その間南京での訓練が続いた。
 ……五月一日より六月二十日まで第四次長沙攻略作戦に参加した。その頃から行軍は馬を使い、機関銃や弾薬を馬に積んで何日も歩いた。馬は兵器と同じでとても大事にされていた。少しでも手入れをおこたったり、馬に異状があったりするとひどい体罰を受けるので、馬の扱いにはとても神経を使った。馬に与えるため、いつも塩を持っていたので、おかずのない我々は時々失敬してご飯に塩を振りかけて食べていた。
 川を渡る時には裸になり、銃をぬらさないようにしてあごの下まで水につかりながら川を渡った。機関銃は分解して四名一組で運んだ。訓練は銃を分解して手早く組み立てたり、空砲を使っての撃ち方等であった。
 長沙は広大で、攻めて前進しても後方より又支那軍に攻められたり、相手は土地に詳しいので進んでくるのも逃げるのも速かった。途中敵にやられる事も度々あった。雨が降り続き行軍中靴ずれや股ずれがひどくなり、苦しさに我慢できず自殺する人もいた。戦闘よりも行軍が大変辛かった。
 六月二十一日より八月八日まで、衡陽〔ホンヤン〕攻略作戦並びに麻宥省付近の戦闘に参加した。毎日行軍が続き、攻撃したり反撃されたりの毎日で、食料の輸送も間に合わず食糧難であった。食料もないので部落に着くとすぐ徴発をした。その時敵にやられた人もいた。全懸作戦並びに石期站付近の戦闘参加、占領した所の警備についた。つかまった現地人は重い荷物を持たされ、死ぬまでこき使われ、言う事を聞かないと殺された。又、生きて帰すとスパイになるおそれがあるということで殺されてしまう。こういうむごい事が平気で行われていた。
 戦争は人の心を変えてしまう。そういう事があたりまえになって感覚も麻痺してしまう。死んだ人の上を歩いた事もあった。それが戦争です。口ではきれいごとを言っても実際は違う。……
 十月二十三日より十一月十一日まで、桂林攻略作戦、途中田頭付近の戦闘に参加し、戦闘と警備の毎日であった。
 桂林は格納庫が自然壕の中に出来ており、滑走路も壕の中にあった。大きな自然壕の外からは中が見えないので攻めにくい所であった。飛行機や戦車が簡単に出入り出来る所で難攻不落と言われていた。中国でも一、二位を競う位大きな要塞であった。
 昭和二十(1945)年五月頃、米軍が朝鮮半島に上陸するとの情報が入った。朝鮮半島の警備に当たるため、反転作戦に出た。戻る途中も敵と戦いながら朝鮮に着き、終戦までそこにいた。……
 戦争も終わり、現在ののんびりした生活で振り返ってみると、何のための戦争だったのか、なぜあんなことをせねばならなかったのか、戦友を失ったむなしさと疑問だけが今も心に残っている。
 戦場で同じように戦ってきて、片一方は軍人恩給が支給され、我々には何もない。納得いかない事も現実である。
 二度と戦争はあってはいけない事です。戦争のない世界を願うばかりである。

週刊かけはし

購読料
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009  新時代社