山田純一さん(元芝工大全学闘委員長)を追悼する

 騒乱罪の被告

 8月26日の早朝、芝工大出身の山田純一さんが亡くなった。私は山田純一さんを初めて意識したのは、彼が新宿騒乱罪の被告であったことを知った時でした。私は1970年代の初頭には毎月一回東京に出てきていました。裁判のためです。実は私は東大安田講堂占拠事件の被告。裁判の前後に闘争があったり、大きな集会であると一週間以上も東京にいました。新時代社に泊まったり、大学の寮や自治会室、仲間の所に居候であったり、こんな生活をしていると必ずという程、東京の有名私立の学生運動に興味を持ちます。
 中央、早稲田、明治、日大など。中央、早稲田、慶應、明大には高校時代の同級生がいたので、各大学の闘争史はその友人に探してもらいましたが、一番出入りする芝工大は、誰もいませんでしたのでターゲットにしたのが山田さんです。彼とは何十回も開かれた裁判の中で一回だけ高裁で偶然会いました。この時彼は非常に不機嫌でした。後にその本当の原因を知ることになります。騒乱罪の被告は二つの赤ヘル以外は中核派で、典型的な日の丸弁当で彼ら自身が登場する余地は全くなかったのです。それに比べ、私の東大裁判は10人のうち7人が分離公判で、弁護士が山根二郎さんですから、「法廷で権力をやっつける!」ですから結構自由にできていました。

ヤクザと赤ヤクザの対決

 山田さんが初めて「話がある」と言ってきたのは岩山鉄塔の権力による抜き打ちに対する闘争が一段落し、三里塚から東京に戻った時でした。彼はこの時、建設会社を作り、高度成長にのり、また東京再開発にのって景気の良い時代でした。しかしこんな時代でしたから、「虫食い」も暗躍します。建物が完成近くになると突然ヤクザが押しかけ、工事関係者を追い払い、そのまま居座るのである。そしてそのまま建物の「所有者づら」して居座るのである。大工さんたちがこのヤクザと対決できるわけはありません。
 山田さんはこれが許せず、このヤクザと対決するために青年・学生共闘の仲間を行動隊として貸してくれという要件でした。彼が行動隊のために出した条件は、毎晩の飯、次の日の朝飯を保障する。うまくいったら三里塚闘争へカンパをするというものでした。私たちはこの提案を受け入れ、10人の行動隊を出しました。それがうまいことに10日しないうちにヤクザが来たのです。それも2名で、それを見つけたレポ隊は、みんなを集め、鉄パイプ、角材、木刀で武装し、彼らと対決しました。ひとりは日本刀を持っていたらしいが部隊を見てすぐに逃げ帰り、一回も対決はありませんでした。
 後にこの行動隊のメンバーがあちこちで自慢するので、「赤ヘル・赤ヘル、安全靴」部隊は「赤いヤクザ」と命名されたらしい。3・26の前に一部ではすでに「赤いヤクザ」は有名になっていた。

 難病と治療

 山田さんが難病で東大病院に入院したというので、私は東大病院まで見舞いに行きました。彼は元気に手を振って私を新しい病院のレストランへ連れていき、ビールを注文するのです。そして口から泡を飛ばし「私は難病のモルモットで、治療費は研究費として東大病院が払う」のであると大声で主張するのです。
 私はただただ早々としてビールを飲みながら、それを聞き入っていました。彼はこの難病のため最後は脳出血の私と同じように車椅子生活でした。
 しかしこの20年間も続いた難病生活で一回も暗くならず立ち向かいました。私はこの彼の強い気持ちに拍手を送りたいと思う。

 保養所さがしの明暗

 彼ら夫婦は、いつも明るく建物を建てているように見えて、実は憎らしいほどにオーナーに尽くしていました。温泉旅行、山登りと一年中ある意味でオーナーたちへの接待に明け暮れていました。それは見事という他ありません。その結果、北アルプスの白馬岳や南アルプスの北岳に登山する機会にも恵まれました。
 山田さんの連れ合い(芝工大卒)との山登りの旅行の時、車の運転はたいがい山田さんでした。しかしこの保養所探しは失敗も数多くありました。そのうちの一回は厳冬期に諏訪湖で一日中ボートを貸し切りワカサギ釣りをしましたが、鼻水を流しながらの釣りにも拘わらず三人でワカサギが40匹という有様でした。夕方小屋に帰ると常連さんたちはひとり100匹以上を確実に釣りあげていました。
 また函館に企業の保養所を見つけるという旅行では、空港近いトラビス教会近くの物件に始まり、物件探しが鮭の河を上るのを見る旅行になってしまい、一日目は洞爺湖温泉、二日目は友人を訪ねて小樽まで行き、2泊3日の道南旅行になりました。横浜の海での黒鯛釣に始まり、姉を訪ねる旅の多くは横浜での観光に終始してしまいました。私にとって山田家との思い出は尽きませんが、これで騒乱罪の被告は2人とも旅立ち、東大の被告もひとりひとりとどんどん居なくなっています。こればかりは順番ですから仕方のないことですがそれにつけても淋しいのはなぜだろう。
 彼は3・26の闘争に三里塚にはこず、北部連帯する会の幼稚園と子守りを東京北部でやっていました。3・26闘争を語る時、彼は必ず「なんにもなり得ない友人」として私をなじりました。彼の名誉のためにつけ加えると、連れ合いは「しっかり三里塚の現地にいました」、あちらで元気にがんばれ! いずれの日まで!。
 私のもとには本や思い出ばかりではなく、最後に山田さんがたどり着いた「電動車椅子が一台」あります。これは彼だと思って大事に使います。山田さんは病院で最後に「インターナショナル! 革命万歳」と書き残した。心から哀悼の誠を送ります。安らかに眠って下さい。 (大門健一)

辺野古現地座り込み行動に何回も参加した山田純一さん

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