若林一男さん追悼文
会い続けてきたことから知った生き方
茂住 衛
亡くなるまでの数カ月
1978年3月の成田空港開港阻止闘争の管制塔グループ(元被告団)の一人、若林一男さんが今年8月26日に69歳で亡くなった。
2024年12月に肺がんに罹患したことは聞いていた。今年の4月に連絡をした時には、まだ外出して一緒に飲食できると思っていたが、自宅で会った若林さんは、がん細胞が脳に転移して、24時間の介助が必要で、1時間ほど話すと疲れて寝てしまう状態になっていた。5月には東京医大病院に1週間ほど入院していたが、亡くなるまで、連れ合いと息子さんの介助を受けながら自宅で療養生活を続けていた。
若林さんに4月に自宅で会った時、「もうベッドで休む」と言ってから彼は突然に「みんなは新山(1978年3月26日の成田空港開港阻止闘争で大火傷を負い、その年の6月に亡くなった新山幸男さん)が亡くなった話はするが、どうして亡くなったのかは言わない」と言い出した。「新山はどんなに苦しい思いをしたことか」。
私は、彼との長年の付き合いの中で、権力に対する「読みの甘さ」を抱えた当時の闘い方への若林さんの疑問について、繰り返して聞いていた。そのために私はその時、若林さんは管制塔占拠闘争で逮捕・起訴されたことによる自らの体験と重ね合わせて新山さんの話をしているのだろうと受け止めた。
社会に「復讐」するために東京大学に合格
若林さんは、1978年3月26日の管制塔占拠闘争で逮捕・起訴された。裁判は「統一公判」ではなく「分離公判」になり、実刑判決を受け、1981年まで川越少年刑務所に収監されていた。私は1977年から若林さんを直接に知っていたが、彼と再会したのは、彼が出所して一時秋田県横手市の実家に行き、その後東京に住み始めた1981年の秋であった。
若林さんは、東京大学を受験し合格するために東京に住み始めた。その理由は、当時の彼の言葉によれば「社会に『復讐』する」ためである。若林さんは、横手市のシングルマザー家庭で育ち、中学校卒業後は秋田工業高等専門学校(秋田高専)に進学し、在学中の1975年に弘前大学に入学した。川越少年刑務所から出所したばかりの当時の彼にとって、弘前大学を中退させられ、管制塔占拠闘争で逮捕・起訴された自らを「犯罪者」とみなした社会に「復讐」するために、日本の最難関大学として知られ、保護者の平均年収が日本の大学の中でも最も高い東京大学への入学を目指したことには、切実な思いがあったのであろう。
逮捕前と同様に活動の世界に戻るのであれば、また別の人生の選択肢を考えたのかもしれないが、若林さんはそのようにはしなかった。一方で彼は、原勲さん(管制塔グループ(統一公判組)の一人で、1982年4月に東京拘置所から保釈された数日後に裁判に向かう途中で東京大学病院から飛び降りて自殺した)の死を伝えた新聞の一段記事の切り抜きをしばらく持ち歩いていた。
ヘヴィメタル・グループ、そして予備校の生徒を「オルグ」する
1981年秋に若林さん再会した私は、彼をAさんに紹介し、その頃私が就いていた深夜労働のアルバイトの仕事場で半年間ほど、週4日は彼と一緒に働くことになった。私と若林さんはほぼ連日のように仕事が終わると一緒に当時Aさんが住んでいたアパートに寄り、朝ごはんを食べさせてもらった。
若林さんは、1982年3月に東京大学理科一類の入学試験に合格。授業料は免除された。4月に東京大学に入学し、駒場寮(学生による自治寮として有名であったが、現在は廃寮になっている)で暮らし始めた。だが授業にはあまり出席せず、数年後に東京大学を退学してしまう。
東京大学に入学した頃から若林さんが熱中していたのは、ロックミュージックの一ジャンルであるヘヴィメタルが大音量でかかっていたツバキハウス(新宿)などのディスコに通うことであった。黒の服にシルバーのチェーン・リストバンド・ベルトを身につけてディスコで踊る姿が、写真雑誌の『アサヒグラフ』(2000年に停刊)のグラビア面に掲載されたこともある。それだけではない。若林さんは、その場に集まっていた10代後半から20代前半の若者を数十人「オルグ(組織化)」して、自らは「船長(キャプテン)」と呼ばれていた。彼は私に「活動をしている時と同じ熱心さでこのグループを『オルグ(組織化)』した」ことを強調していた。
その後、東京大学に在学中から予備校で数学を教えるようになり、しばらくしてJ予備校の数学の講師になった。J予備校で60歳の定年まで30年以上講師を務めていた彼は、最盛期には週6日・連日6コマの授業と夏期講習や冬期講習などの授業を行い教材作成も担当するなど、予備校業界の基準からしても「ありえない」働き方をしていた。当然にも相当の収入を稼いでいたが、ゆっくり休む時間などほとんどなかったはずだ。
若林さんは予備校講師の仕事でも、生徒を惹きつけるためのある種の「カリスマ性」を発揮していたようだ。若林さんにとっての予備校講師の仕事は「天職」であり、生徒を熱心に「オルグ(組織化)」したとも言えるだろう。
管制塔グループへの損害賠償に対して
若林さんはいつも、管制塔グループの元被告の一人として自分自身にも国と成田空港公団(当時)から巨額の損害賠償(2005年3月に強制執行手続きが始まった時点で、16人に対して利子分も含めて1億300万円)の連帯責任を負わされていることをかなり気にしていた。そのために、自分が稼いだ財産が一方的に奪われないように収入の管理においてさまざまな工夫をしていた。 勤務していた予備校でかなりの収入を得ていた頃には、「自分が損害賠償額をすべて払ってチャラにしてもよい」と言っていたこともある。川越少年刑務所を出所して以降、彼が三里塚の地を訪れたり集会に参加することはなかったが、管制塔グループの元被告である以上、三里塚闘争との関わりから逃れることはできなかった。
管制塔グループの元被告に対する損害賠償は、2000名以上の人から損害賠償額を超えるカンパが集まり、2005年11月11日には損害賠償額をすべて現金で国と成田空港株式会社に叩きつけて返済した。若林さんが、再び集会に参加したのは、この日の夜の「管制塔被告連帯基金大勝利報告集会」の時であり、元被告の一人として登壇し、損害賠償請求の束縛から逃れることができたことを感謝していた。その後は2018年3月の「三里塚管制塔占拠闘争40年」集会や管制塔グループの和多田粂雄さんの葬式(2024年5月)と偲ぶ会(2024年12月)にも参加している。
ただ会い続けてきた
ことの大切さ
生前(になってしまったが)の若林さんに私がAさんと一緒に最後に会ったのは8月26日、亡くなる数時間前であった。1時間ほど意識のない彼に話しかけて帰宅したが、ほどなく息子さんから「いま亡くなった」という連絡があり、その日の夜に再び対面した。この日に間に合って会えたことは本当によかったと実感している。
若林さんの通夜は9月1日、葬式は2日に東京渋谷区の代々幡斎場で行った。通夜には管制塔グループの元被告の前田さん、小島さん、中路さん、弁護士の虎頭さん、新時代社の松下さん、大舘さん、そして私とAさんも彼を見送った。通夜と葬式には参列していなかったが、会場には管制塔グループ元被告の山下和夫さんからの花が供えられていた。
私が若林さんと再会してから亡くなるまでの45年間、毎年のようにAさんと一緒に若林さんに会っていた。この追悼文を書きながら、ただ会い続けてきた/会い続けることができたということの大切を改めて考えている。

連帯基金報告集会で発言する若林一男さん
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